日曜日2
昼食後、ロビーのカウンターに二人で入り後片付けをしていると、入り口からジミーが飛び込んできた。
「ルーク、悪いけど手伝ってくれないか?」
今日は日曜日だ。シルバーレイク・タウンには昼頃から観光客の姿も見えていた。
「お客さんのリクエストで遠乗りに行くんだ。それとは別に初心者の子がいてさ。ちょっとその子見てあげてくれないかな?」
ルークと洋子は目を合わせた。
「行ってあげたら? 後は私がやっておくから」
洋子が言うと、ルークはためらいがちにジミーに頷いた。ジミーは汗の浮かんだ額をシャツの袖で拭い、ホッとした顔を見せた。
「助かった! ありがとう!」
ジミーは急いで馬場へ戻って行った。
ルークはカウンターを出て椅子の背に掛けたポンチョを被り出口へ向かったが、何かを思い出したように洋子の前で足を止めた。
「夜、何か食べたいものはあるか?」
ルークが唐突に訊いた。
「いつも俺が勝手に作ってるから、今夜は君の食べたいものにしよう。何がいい?」
洋子は困ってしまった。今は満腹で食べたいものなど思いつかない。しかし急いでいるルークを引き止めておくわけにもいかない。
「……いいわ。じゃあ今夜は私が作る。考えておくわ」
「分かった。これが終わったら買出しに行こう」
そう言うと、ルークはジミーの馬場へ向かった。
洋子は後片付けが終わると自分の部屋へ戻った。ベッドの上に座り、窓から馬場を眺める。緊張した面持ちの十二,三歳位の少年が馬に乗り、歩くような速度で馬場を回っている。その横にはルークが付いていた。時折、にこやかに少年に話しかける。柵の外では少年の家族が声援を送ったり、写真を撮ったりしていた。しばらく眺めていて分かったが、ルークは写真を撮られるのが嫌いらしい。カメラを向けられる度、明らかに顔を背けている。
「せっかく見た目だけはいいんだから、撮ってもらえばいいのに……」
洋子は窓の枠に両肘をつきながら呟いた。
「写真なら口が悪いのも分からないんだし……」
そうしているうちに強い西日で顔がじりじりと焼けてくるのが分かり、洋子は窓から離れた。部屋を出て一階に下り、ロビーを抜けて外へ出る。入り口の扉を背に外を眺めた。目の前の道路を見掛けない車が通り過ぎていく。観光客だ。シルバーレイク・タウンに滞在していく観光客は滅多にいない。二、三時間車で走れば大きな街もある。ここに来るのは、ほとんどがその街の住民か、街のホテルに滞在している人達らしい。
シルバーレイクにはレジャー施設も無い。ルークは前に教えてくれた。この湖は湧水で、水温がとても低いのだと。誤って落ちてしまえば、途端に体はかじかんで動けなくなり溺れてしまう。貸しボートすらない。一艘だけ係留されているボートは警察の持ち物だ。ただ眺めることしか出来ない湖。観光客は写真を撮ったり、湖畔で弁当を食べたり、思い思いの時間を過ごすと飽きて帰って行く。
「きっと私は、この町の滞在最長記録保持者ね……」
朗はこの町に来て三日目の夜に死んだのだ。
「朗は三日間も、ここで何をしていたんだろう……」
確かにここはきれいな所だ。それでも、ただ写真を撮るだけなのにそんなに長く掛かるだろうか。それとも、写真以外に何か目的があったのだろうか。洋子にはそれが分からない。死んだりしなければ、もっと長く居るつもりだったのか。
「いけない!」
洋子は頭を振り、その考えを頭から追い出そうとした。ここでの朗の行動は詮索しないと、今朝ルークに宣言したばかりだったからだ。そして今度はルークのことが気になった。ルークはここで何をしているんだろう、と。今朝少しだけ見えた、あの薄暗い部屋で。
洋子は自分が今立っている場所を見た。相変わらず落ち葉が吹き溜まり、荒れている。建物の前にはいつも薄汚れた緑のチェロキージープ。看板も無いから、ここが宿泊施設だと分かる人はいないだろう。洋子もあの時ジミーに促されなければ、素通りしていたに違いない。
建物の前面はガラスが張ってあるため民家には見えない。いつもは半分開けてあるロールカーテンも今日は下まで閉めてある。今朝、朝食の後で洋子が開けようとしたら、ルークが『開けなくていい』と言ったのだ。もし開いていれば中に並んだテーブルやカウンターが見えるから、レストランか何かだと思って訪ねてくる人もいるかも知れない。ルークが人を泊めるつもりなど無いのは分かっている。洋子はジミーから「ルークがここに来てから始めての客だ」と聞いていた。それまでの二ヶ月間、ルークはここにたった一人で、どんな風に過ごしていたのか。
洋子は物思いに耽ったまま扉を開けて中へ入った。ルークは自分のことをほとんど話さない。訊いたところで教えてはくれないだろう。
洋子はソファに腰を下ろした。スニーカーを脱ぎ、横向きに座ると座面に脚を乗せた。暖炉の横にある腰高の窓はカーテンが開けてある。差し込む陽光がじんわりと暖かい。洋子はソファの背もたれに頭を乗せ、目を閉じた。
ミランダの母親は自宅で写真を見つめていた。ミランダが連れ去られて丸一日以上経ったが、未だに犯人からの連絡は無い。
「金が目的ではないのか……」
集まっていた警察は捜査方針を見直すため、一人を残して引き上げた。
流せる涙は流し尽くしてしまった。出せる声も叫びと嗚咽とともに絞り出してしまった。今は言葉もなく、写真に写るミランダの顔を指でなぞっている。あの子を取り戻せるならば、声なんて一生出なくても構わない。もう一度あの子を抱きしめられるならば。娘の名前を呟いたが、唇が動いただけで声は出なかった。震える肩を夫が優しく抱きしめた。
洋子が目を開けると、暖かな陽射しはもうなくなっていた。南向きの窓の右側が薄いオレンジ色に染まっている。ロビーを見渡した。ルークはまだ戻っていない。買出しに行く約束だから、帰ってきていたら起こすだろう。洋子は気が抜けたように再びソファにもたれたが、外に洗濯物が干してあるのを思い出し、慌ててスニーカーを履くとランドリールームへ向かった。
ランドリールームからは直接裏庭へ出られるようになっていた。外はもう夕焼けだ。乗馬の客はもう帰ったようで車も無い。目の前の洗濯物で馬場は見えないが、低い地響きにも似た、馬が勢いよく走る蹄の音が響いている。
「ルークはどこだろう……」
そう呟きながらシーツを一枚ロープから外すと、広い馬場の中を疾走する一頭の馬の姿が見えた。そこに跨っているのはルークだ。ルークは楽しそうに、縦横無尽に馬を走らせている。
ルークのそんな笑顔を見るのは初めてだった。ルークはいつもしかめっ面をしていて、笑うといっても唇の端をちょっと歪めるくらいだ。そのルークが子供のように笑っている。
夕陽の中のその光景は洋子を圧倒した。赤く染まった広大な芝の上を人馬が駆け抜けていく。吹き抜ける風が、馬の黒いたてがみとルークのポンチョをはためかせた。力強く大地を蹴って躍動する馬体と、それに呼応し時折身を屈めたり傾けたりしてしなやかに手綱を操るルーク。地球の鼓動と、そこに生きる生命の息吹を感じる。それは原始的ともいえる何かで、激しく洋子の心を揺さぶってきた。東京に帰れば、もう二度とこんな光景は見ることができないだろう。洋子はしっかり目に焼き付けておこうと思った。
馬場の向こう側を走っていたルークが方向を変え、真っ直ぐ洋子へ向かってきた。ルークは洋子を指差しながら何か叫んでいる。鳴り響く蹄の音なのか、自分の心臓の音なのか洋子には分からなかったが、ルークの声はかき消されて聞こえなかった。やっと聞こえたのは、ルークがかなり近付いてからだ。
「シーツが汚れるぞ!」
見ると両手に持っていたシーツの端がだらりと垂れ、今にも地面に着きそうになっていた。洋子は慌ててシーツをたくしあげる。
「あと一周な!」
ルークは柵の手前で曲がり、スピードを上げて走って行った。洋子はルークの後姿を見送った。
間もなく燃える太陽は遥か西の連なる岩山へ吸い込まれ、そして闇が訪れるだろう。洋子はこの光景を、ずっと見ていたいと願うようになっていた。永遠に見ていたいと。そのために、自分のこれからの人生の何を差し出せば、それが叶うのだろうかと考えた。その途端息が苦しくなり、自分が泣いていることに気が付いた。自分では止める術も無い涙が頬を流れる。洗いたてのシーツに涙を落としたくない。洋子は上を向いた。
馬場をひと回りしてきたルークが、再び洋子の方へ向かって来るのが見えた。
「いけない……」
ルークに泣いているところを見られたくない。洋子は横を向き、顔を俯かせてルークが通り過ぎるのを待った。
柵の手前でスピードを落としたルークは、洋子の様子がおかしいのに気付いた。抱えたシーツに顔を押し付けんばかりに俯き、その両肩が微かに震えている。ルークは一瞬眉をひそめたが何も言わずに前を向くと、そのままスピードを上げ真っ直ぐ厩舎へ向かった。
ルークが通り過ぎると洋子はシーツを片手で持ち直し、手の甲で涙を拭った。ルークには気付かれていないはずだ。そう思いながら残りのシーツとポンチョを急いで取り込んだ。
ルークはジミーに馬を返し、裏庭を洋子の元へ駆けていった。
「悪いな。ちょっと遊んでた」
両手に洗濯物を抱えて洋子が振り向いた。さっきは泣いているように見えたのだが、それは見間違いだったようだ。
「買出しに行くか」
ルークの言葉に洋子は普段どおりの笑顔で頷いた。
サムの店の酒売り場で洋子はワインを物色している。
「また酒か……」
ルークの呆れ声も気にせず、洋子は難しい顔をしながら目の前に並ぶワインのボトルに目を凝らしている。
「この前のお昼、結局飲まなかったでしょ。何となく飲みたいなあって……」
「その後テキーラどれだけ飲んだ?」
「テキーラはテキーラで、ワインとは違うわ。うーん、でもカリフォルニアワイン? これはチリ産? どれがいいのか分かんない」
ルークは棚を見渡すと、一本の赤ワインのボトルを取って洋子に渡した。一番高いという訳ではないが、それでも値の張るワインだ。
「こんなに高いの買うの?」
「どうせなら美味いほうがいいだろう」
レジで会計をすると、サムは赤ワインのラベルを眺めながら感心した様子で頷いた。
「この手のワインは、てっきりティムか署長に買われると思ってた。まさかルークが買っていくとはな……」
洋子がキッチンに入り夕食を作っている間、ルークは暖炉に火を入れた。今日は日が落ちてから急に冷え込んできたのだ。その後ルークは自室へ上がって行った。
洋子はトマトソースの煮込みハンバーグを作っていた。母親がよく作っていた料理だ。たまに無性に食べたくなる。出来上がる頃にルークが下りてきてキッチンに顔を出した。
「いい匂いがしてきたから……。腹減ってるんだ……」
洋子はルークにテーブルのセットを命じた。ルークは素直に従う。出来上がった料理を持ってキッチンを出ると、ルークがワインの栓を抜いているところだった。
ルークが選んだのはとても美味しいワインだった。すっかり気に入った洋子は食事をしながら瞬く間に一杯目のグラスを空にした。自分でグラスにワインを注ぐと、ルークのグラスが空になっているのに気が付いた。洋子が注ごうとすると、ルークは首を振って断った。
「こんなに美味しいワインもう飲まないの?」
洋子が驚いて訊いた。ルークが自分で選んだワインだ。気に入らなかったわけではないだろう。
「お酒が飲めない訳じゃないでしょ? 美味しいワインも知ってるし。何でいつも少ししか飲まないの?」
「別に」
ルークは素っ気無く答えた。ルークには明日、大事な仕事がある。しかしそんな事を言えば、洋子はきっと何の仕事か訊いてくるだろう。答えられるわけがないし、ここははぐらかすしかない。
一方洋子は、全然自分のことを喋らないルークに次第に苛立ってきた。こうなったら何としてでも理由が知りたい。
「健康上の理由? 医者に止められてるの? 健康そのものって感じだけど……」
「別に」
洋子はその答えが気に入らなかった。隠されれば隠されるほど知りたくなる。黙って食事を続けるルークの前に身を乗り出した。
「酔うと人格が変わるの?」
ルークはしつこい洋子に辟易しながらも適当にあしらうことにした。
「ああ、そうだそうだ」
洋子はその答えがさらに気に入らなかった。意地でも聞き出してやりたい。さらに詰め寄った
「酔うとどうなるの? 暴れるの? 泣き出すの?」
ルークは溜息をついた。本当に酒癖の悪い女だ。人には皆それぞれ事情があるものだし、酒の適量だって人それぞれのはずだ。自分が飲みたいからといって、無理矢理に他人を付き合わせるべきではない。この女の悪い癖だ。ワインを飲みながら答えを待っている洋子を睨みつけた。ルークとて飲みたいのはやまやまだ。こんなワインを買うんじゃなかった、と後悔し始めたルークは洋子を少し黙らせようと考えた。
「ああそうだ。これ以上飲んだら君を襲うかもしれない」
それを聞いた洋子の顔はひきつった。ワインのボトルをルークの前に差し出し、眉間に皺を寄せて目を細めた。
「やれるもんなら、やってみなさいよ」
洋子の挑戦的な態度にルークもまた顔を引きつらせた。洋子と視線をぶつけ合いながら、自分のグラスをボトルの下へ差し出した。しかしその瞬間、洋子はボトルを引くと自分のグラスの横に置き「冗談よ」と笑って席を立った。
「水でいいの? 持ってきてあげる」
洋子はカウンターへ向かった。ルークは不機嫌そうにワインのボトルとグラスを交互に見る。何とか理由を隠しておくことは出来たが、酒に酔った洋子には適わない自分に悔しさを感じていた。
ルークは洋子が作った料理を「美味い」とも「まずい」とも言わずに平らげた。キッチンで後片付けをしながら洋子が感想を求めると、思い出したようにルークは頷いた。特に問題はなかったようだが、洋子は自分が作ったトマトソースの味に不満があった。毎回そうなのだ。どうしても母親の味と同じにならない。
「ちゃんと教えてもらえばよかった」
悔しそうに呟く洋子に洗った皿を渡しながらルークは言った。
「今からでも遅くないだろう」
「無理よ。私の両親はもう死んでるもの」
洋子がこともなげに言い、ルークが首を傾げて訊いた。
「両親?」
「うん。車の事故でね。二十歳の時」
「二人いっぺんにか?」
ルークは洗い物の手を止めた。そんな話を聞いたのは初めてだった。
驚いている様子のルークに気付き、洋子は慌てて明るく笑った。
「うん。あ、でもその時は確かにショックだったけど、仲の良い二人だったから、どっちかが先に死んで悲しむ姿見るよりかはいいかなって……思うようにしたの」
洋子は自分にそう言い聞かせているのだと感じたルークは、黙ったまま洗い物を再開した。洋子は自分が両親の死を乗り越えたのだという事をルークに分からせたくて、あれこれと理由を並べる。
「私は卒業間近で仕事も決まってたし、保険金も下りたから。すぐ下に妹がいるんだけど、次の年に彼女も無事卒業できたしね。妹は卒業してすぐ結婚したの。相手は寿司屋さんなんだよ」
「へえ」
ルークが感心したように相槌を打った。
「彼の家は代々お寿司屋さんなの。お父さんの下で修行中だったんだけど、今でもそうなのかなあ……」
「会ってないのか?」
ルークはフライパンを洗っていた手を止めた。残された唯一の肉親と会っていないという事を咎められたように感じた洋子は、一瞬言葉に詰まった。そしてもっともらしくその理由を説明し始める。
「去年赤ちゃんが産まれたの。産まれてすぐ病院で会って……もうすぐ一年になるかな……。彼女、子育てとかで忙しいのよ」
妹の話はこれでお終いとばかりに洋子は話題を変えた。
「ルークって料理上手よね。お母さんに教えてもらったの?」
洗い物が終わったルークはタバコに火を点け、少し考えてから答えた。
「俺の母親は、料理はしないんだ」
洋子はそれ以上訊くのをやめた。家庭の事情が様々なのは分かっている。
「じゃあルークが食事当番ね」
「……ああ、そうだな」
ルークはホッとした。それ以上訊かれても、答えを用意していなかった。
「学生時代にレストランのキッチンで数ヶ月アルバイトしたことがある」
数ヶ月というのを聞いて、洋子はこの話の結末が見えてきた。
「店長と喧嘩して辞めたんだ」
「やっぱり!」
予想通りの答えが返ってきたことに洋子は思わず笑ってしまった。
「何だよ?」
ルークが不機嫌そうに睨んだが、洋子はクスクスと笑い続けていた。
後片付けが終わり、洋子は調理台の上に置かれたワインのボトルを手に取った。半分位残っている。寝る前に飲もうと考えて冷蔵庫にしまおうとした時、キッチンから出て行こうとしたルークが扉に手をかけたまま立ち止まった。
「本当に美味かったよ。ありがとう」
思いがけないルークからの感謝の言葉に洋子は一瞬きょとんとしたが、
すぐに「どういたしまして」と笑顔で応えた。ルークはそのままキッチンを出て行った。二階へ上がっていくルークの足音が聞こえる中、洋子は照れ臭そうに小首を傾げながらワインを冷蔵庫へ入れた。
「そこを出る準備をしておけ」
電話の向こうでビルが言った。ルークは部屋の隅の旅行鞄に目を遣る。
「もうほとんど出来てる」
今日、洋子が洗濯してくれた衣類はほとんど鞄に詰め終わった。後は明日の朝早く、洋子が起き出す前に車に積むつもりだ。
「それで、ヨーコはどうするんだ?」
「サムのところに行ってもらおうと思ってる」
昼からずっと考えていた事だった。夕方に買出しに行き、サムと話をする洋子の楽しそうな顔を見てそうしようと決めた。
「ああ、あの元軍曹の爺様か」
「店の手伝いでもしてもらえば、向こうも迷惑じゃないと思うし……」
「すごいなあ、お前のお姫様は。頼めばアルバイトもしてくれるのか」
大げさな口調でビルは茶化したが、ルークはその冗談に乗る気分ではなかった。
「ヨーコはあの夫婦をとても慕ってるんだ。きっと喜んで行ってくれると思う」
「どこかのモーテルにでも移動してもらえばいいんじゃないのか?」
ビルの提案はもっともだとルークは思った。別に自分は洋子の保護者ではないのだ。それでも、この町に居たいと言った洋子の邪魔をする権利は自分にはない。それに何よりも、一人になったら洋子が不安になるだろう。
「……一人にしない方がいいと思う」
ビルはそれが何故なのか気になったが黙っていた。ルークは自分の考えた計画をビルに話した。
「その後、サムに電話で大体の事情は説明して、ヨーコに伝えてもらう」
「何だ、お前が彼女に説明するんじゃないのか?」
ルークは一瞬黙り込んだ。次に口を開いた時には、それまでの沈んだ声が一転、冷たく突き放すような口調に変わっていた。
「彼女に電話で説明したところで、すぐには理解出来ないだろう。時間の無駄だよ。サムの方が話が早い。それに、全てを話せる頃には彼女は日本だ。どうせ後で知ることになるんだ」
普段から面倒事を嫌がるこの男らしい理論だが、ビルにはなぜか違和感があった。釈然としない。
「それでいいのか?」
「それでいいんだ」
ルークは強い口調で即答した。「何をムキになってる?」ビルは思ったが黙っていた。ルークは続ける。
「ヨーコは水曜日に帰るんだ。誰かにバス停まで送ってもらえれば、あとは一人で帰れるだろう。来る時もそうやって一人で来たんだ」
あたかも自分には洋子に全てを説明する義務があるとでも言わんばかりのビルの口調に腹が立っていた。洋子はここへ勝手にやって来たのであって、自分には何ら責任はないはずだ。もう監視だって解けたのだから。電話の向こうでビルが溜息をつくのが聞こえた。
「そうか、お前がそう決めたならそうしろ」
洋子は風呂から上がりバスルームを出ると、髪の毛を拭きながらベッドの上に座って窓を眺めた。部屋のドアと自分の顔が映る窓を開けて外を見ると、そこにあるはずの馬場は闇の中に沈んでいる。暫くして目が慣れてくると、月明かりに馬場が浮かび上がってきた。そこにはもう一頭の馬もいない。風に芝が泳いでいるだけだ。
洋子は窓の枠に腕を載せ、その上に顎を置いた。その瞳には暗い馬場が映っているが、それを見ている訳ではない。洋子が見ているのは、今日の夕方、馬に乗っていたルークの姿だった。そうしているうちに、自分を照らす夕陽の熱も、大地を駆ける馬の蹄の音すらも甦ってくる。
電話を切ったルークはパソコンの裏に置いてある銃を取り出して分解する。
「冷えるな……」
ベッドの上のポンチョを取り、黒い半袖のTシャツの上から被った。分解した銃の部品の手入れを一つ一つ丁寧に始める。一番集中できる作業だ。
洋子の部屋から窓が開く音が聞こえた。
「風邪ひくぞ」
ルークが呟いた。
「病院なんか連れて行けないからな……」
電気スタンドの灯りに照らされた自分の手元に意識を集中させた。
洋子は今日留守番をしていた時の事を思い出した。この町に着いてからずっとルークと一緒だったため、レイクサイド・インに一人でいることがとても心細く感じたのだ。もっとも四六時中顔を合わせているわけではない。ルークは自室に篭っている事も多い。それでもルークの立てるちょっとした物音や、表に停まっている車を見てその存在を感じることが出来る。洗濯が終わってからは、しんと静まり返ったレイクサイド・インでルークの帰りを待ち侘びていたのだ。半年前、空港で見送ってからずっと朗の帰りを待っているのと同じように。死んだと聞かされてからも。
半年の間、孤独というものは常に洋子のすぐ側にあった。それがここに来てからの数日、ルークと一緒にいることで忘れてしまえたのだ。たくさんの人で溢れかえる東京にいるよりも、この寂れた田舎町の方が人との繋がりを感じられる。例えば自分に関心のない者ばかりが百人、同じ空間にいたとしても孤独感は増すばかりだ。それよりも気のおけないたった一人の相手と一緒なら、たとえ世界の果てに取り残されたとしても寂しさは感じないだろう。
ここに来たことは、自分にとって良かったのか悪かったのか分からない。朗のことは結局何も分からない。それと同じ位よく分からないルークという人物が気に掛かっている。
洋子は溜息をついて頭を振った。一人で海外旅行など初めてだから、色々と世話を焼いてくれるこのホテルの管理人に頼っているだけだ。洋子はそう自分に言い聞かせた。ルークに特別な感情などない。きっとルークだってそうなのだろう、と。きつい言葉で心を抉ってくるルーク。それは彼の言葉が真実を突いているからなのだろうか。本当に自分は何をしにここへ来たのか。洋子にはもう、何も分からなくなっていた。
洋子は暗い馬場を見つめながら、この旅行が終わり東京に帰ったらどんな毎日が待っているのだろうかと考えた。それは容易く想像がつく。朗がいなくなってからの虚ろな日々がまた始まるだけだ。きっとルークにも二度と会うことはないのだろう。唯一変わりそうな事といえば、今日の夕方、あの僅かな間に見たルークの姿に一生この胸を締め付けられて過ごすのだ。洋子はもう一度溜息をついた。息が白い。風が吹き、体が震えた。
「寒っ!」
着ているのはスウェットパンツとタンクトップだけだった。慌てて窓を閉め、ベッドを降りるとカーディガンを捜して着込んだ。それでも冷え切った身体は温まってくれない。ふと、夕食の前にルークが暖炉に火を入れていたのを思い出した。
銃を組み上げると机の上に置いた。チェストの引き出しからもう一丁取り出し、同じ作業を繰り返す。洋子の部屋から勢い良く窓が閉まる音と、バタバタという足音が聞こえた。
「騒がしいなあ……」
舌打ちして呟いた。洋子が来る前は、自分が立てる物音以外何も聞こえはしなかった。特に夜は。静寂の音が聞こえそうなほどだった。そして他人と会わない日、ビルと連絡を取らない日は一言も声を発しない。その生活に慣れてしまっていた。それでいいと思っていた。どうせ誰かと話しても、口から出てくるのは嘘ばかりだ。それなら黙っていた方がよっぽど楽だった。
銃を組み上げると椅子を回転させた。後ろを向いて座ったまま銃を構える。電気スタンドの灯りを背に、ぼんやりとした黒い影が備え付けのチェストの鏡に現れた。その影に銃口を向けたまま呟いた。
「嘘つき」




