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オレンジ

 ジメジメした天候が続いていた今年の梅雨は、例年と比べて空梅雨になるという予報通り、7月に入った途端に一転連日35度前後を記録し、体温に迫る茹だるような厳しい暑さが続いている。

 いよいよ、本格的な夏の到来。そんな暑い日が続く夏休み直前、期末試験を来週に控えた放課後。まだ高い位置にある太陽の焼けるような日差しが和らぐのを、試験期間中は下校時間まで解放されている冷房が効いた教室で教科書の試験範囲のページとノートを開いて、ペンを走らせながら待つ放課後。みんな考えることは同じ。用事、習い事だったりで下校した人もいるけど、今日も半数近くのクラスメイトが教室に残って、試験勉強している。その中のひとり、体育祭翌日の欠席から何ごともなかったかのように無事復学した隣の席の如月(きさらぎ)くんが軽く伸びをして、席を立った。

 教室の後ろドア付近の席で彼と言葉を交わしていた女生徒がトレードマークのサイドテールを揺らしながら、私を手招きした。何だろうと疑問に想いつつノートを閉じて、先に廊下へ出た二人の後を追って、教室を出る。


「なに?」

「ちょっと休憩。一緒に行こ」


 普段よりも静かな廊下を抜けて、階段を下り、校舎の一階へ。気持ち傾き始めた日差しの陰になっている校舎外のベンチに座り、校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下前の自動販売機で購入したパックジュースに挿したストローを口に運んで、ひとくち飲む。オレンジ100パーセントの爽やかな酸味と甘味が口の中に拡がり、湿気をたっぷり含んだ蒸し暑い夏の空気の中を歩いて渇いた喉と少し上がった体の熱を和らげてくれる。


「あっ、ちょっと行ってくる」


 飲みかけのパックジュースを置いた紅葉(もみじ)は、肩にスクールバッグをさげて昇降口から出てきた男子生徒――天海(あまみ)くんの元へ早足で向かう。彼女が追いつくとそのまま並んで歩いていた二人は、正門付近に一定の間隔で植えられている、今は青々とした葉が生い茂る葉桜の木漏れ日の中で足を止めた。

 ――あんな顔するんだ。

 クラスメイトや友達に向ける笑顔と、彼氏に向ける笑顔は全然違って⋯⋯うん、凄く女の子なんだって思った。


「水樹(みずき)さんと話してる時も違うけどね」

「そうかな?」


 隣のベンチに座っている如月(きさらぎ)くんは、少し目を細めて小さく笑うと、飲みかけのお茶のペットボトルを口に運んだ。ベンチに陰を作っているイチョウの木の葉から漏れる光が目に入っただけなのか、それとも別の理由があるのかわからない。ただ、二人を見て微笑む彼の横顔にどこか――。


「お茶好きなの?」


 彼と不意に目があって咄嗟に出た言葉がこれとか、我ながら他に何か気の利いたことを訊けなかったのかな、と思う。でも、話しは思いのほか拡がって、正門から戻って来た紅葉(もみじ)も加わった会話は下校中も継続した。


「お茶の種類でいったら前行ったカフェじゃない。種類たくさんあったよね」

「うん。玄米茶とか、焙じ茶とかお茶はひととおり。コーヒーと紅茶もあったよ」

「へぇ、そうなんだ。てか、いつの間にか仲良くなったよね、二人」


 ――仲良くなった。如月(きさらぎ)くんの言葉を聞いて、先日話しの流れで紅葉(もみじ)と二人で駅南のカフェでお茶をした帰りの出来事が蘇る。

 誤解から生じた亀裂、すれ違い。大きく振り上げた拳を下げるのは難しい。責任の所在をなあなあにして、心の隅に居心地の悪さを感じつつも時間が解決してくれるのを待つ人も少なくない中、彼女は面と向かって言葉にして伝えてくれた。上辺の謝罪じゃないことは充分伝わった。


「別にいいでしょ」

「そうだな。ギスギスされるよりずっといい」

「奏多(かなた)って、昔からそういうトコ敏感だよね」

「紅葉(もみじ)がわかりやすいんだよ」


 教室では苗字呼びだったのに突然の名前呼びは少し驚いたけど、二人の自然な呼び方と「昔」という表現からして、ここ1年程度の付き合いではなさそう。ということは。


「二人は、同じ中学校だったの?」

「学校は別。所属クラブが一緒だったの。私も中学までサッカーやってたから」

「そうだったんだ」


 駅のホームに間もなく電車が到着するというアナウンスが流れた。ベンチを立ち、電車の停車位置を示す番号が振られた白線の内側へ移動してから、紅葉(もみじ)は悪戯っ子のように笑顔を浮かべた。


「聞いて。奏多(かなた)ね、三年に上がるまで私と同じくらいの背丈だったんだ。華奢で色白で髪も長かったから、よく女の子に間違われてー」


 この後に続くセリフは何となく想像がついた。私と同じく揶揄われるのを察した如月(きさらぎ)くんは先手を打ち、尚かつ痛烈な返し。


「相手チームの男子に告られた。男勝りの紅葉(もみじ)より俺の方が可愛いから」

「は? ねぇ、今のどう思うっ?」

「仲いいねー」


 ちょうど到着した電車に乗る。冷房が利いた帰宅ラッシュ前の電車内は半分近くの座席が空いていたけれど、三人が一列に座れる席はなくて、出入り口付近の空いている座席に私と紅葉(もみじ)は並んで座り、彼女の前に立った如月(きさらぎ)くんは左手でつり革を掴む。自動ドアが閉まり、電車が動き出す。自宅の最寄り駅までおおよそ5分、ピタリと会話が止まってしまった。紅葉(もみじ)はスマホに目を落とし、如月(きさらぎ)くんは車窓の流れる景色を眺めている。

 電車を降りる駅まであと3分もないけど、私は、バッグから取り出した文庫本の栞を挟んだページを開く。数ページ読み進めたところで、到着を知らせる車掌のアナウンスが電車内のスピーカーを通して流れる。栞を挟んで閉じたタイミングで、如月(きさらぎ)くんが声をかけてきた。


「どこまで読んだの?」

「夏休みに二人で電車に乗って海へ行ったところ」

「海かあ。最後に行ったのいつだったかな」

「中二の時クラブの夏合宿で行ったじゃん」

「そうだっけ?」

「呆れた。降りるよ」


 スマホを制服のポケットにしまった紅葉(もみじ)も会話に加わり、最寄り駅に到着した電車を降りて、話しをしながらプラットホームを通って、利用者が増え始めた駅舎の改札を潜る。


「じゃあ俺、こっちだから。気をつけて」

「また明日」

「じゃあね」


 背中を向けたまま軽く手を振って駅前のバス停隣接のローカル鉄道の駅舎へ続く階段を登っていった如月(きさらぎ)くんを見送った直後、紅葉(もみじ)は小さなため息をついた。駅前通りの横断歩道を渡って、お城方面へと続く申し訳程度に整備された城下町通りを歩きながら訊ねる。


「どうしたの?」

「部活のこと。遠回しに振ってみたけど反応薄かったから」

「そっか」


 それで、中学の頃の話題を。彼女の彼氏で如月(きさらぎ)くんとチームメイトでもある天海(あまみ)くんも、直接訊ねることを躊躇っていた。休部の理由がただのケガじゃないだけに、近しい関係だからこそ訊けないんだ――。

 城近くの交差点で紅葉(もみじ)と別れた私は、川を渡った先の公園の向かいの市立図書館の読書室というなの自習室で、苦手科目の勉強をして行くことにした。周りも勉強しているし、誘惑の多い自宅よりも集中出来る。30分ほどで勉強を終えて、図書館を出た頃には18時近くなっていた。

 日が傾き始めた空はまだ明るいけど、普段はあまり通らない近道を通って帰宅する途中にある市立病院の前を通りかかった時、思いがけない人を見かけた。

 オレンジ色に染まり始めた夕空の下、市立病院前のバス停のベンチに座っているその人は、同じ学校の制服を着た男子で、つい先ほど駅でさよならをした、如月(きさらぎ)くん。

 立ち止まった私に気づいた彼は、少し気まずそうに笑った――。

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