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装置であるということ

 夜の王宮は、ひどく静かだった。

 灯りを落とした回廊を抜け、エリシアは自室へ戻る。

 扉が閉まると同時に、ようやく外の世界と切り離された。


「……お疲れ様でございます、お嬢様」

 控えていた侍女が、深く頭を下げる。

 長年仕えてきた、専属の侍女。

 名を呼ぶ必要もないほど、互いの呼吸を知っている存在。


「ありがとう」

 エリシアは静かに頷き、椅子に腰を下ろした。

 だが。


 侍女は、いつものように動かなかった。

 茶の準備も、着替えの手伝いもせず、ただその場に立ち尽くしている。

「……どうしました?」

 問いかけると、侍女は一瞬だけ迷い――


 やがて、絞り出すように口を開いた。

「お嬢様」

「はい」

「……あの時のことを、覚えていらっしゃいますか」


 何を指しているのか、説明は不要だった。


 毒杯。


 あの応接室での、あの瞬間。


「ええ」

 エリシアは、静かに答える。

 侍女の手が、わずかに震えた。

「私は……お嬢様の後ろに、おりました」

 視線は伏せられたまま。

「何も……何も言えませんでした」

 声が、かすかに揺れる。

「止めることも、代わることも、できなかった」

 その場にいたのに。

 目の前で、主が死を受け入れようとしていたのに。

「ただ……見ていることしか……」


 言葉が途切れる。

 あの時の光景が、今も焼き付いて離れないのだろう。

 エリシアは、何も言わずに待った。

 侍女が、自分の言葉を最後まで紡ぐのを。


「……あの時」

 やがて、侍女は顔を上げた。

 瞳の奥には、消えないものがある。


「絶望、いたしました」

 はっきりと。

「お嬢様が死ぬのだと、思いました」

 そして。

「王族の責任とは……あのように、重たいものなのですか」


 問い。

 それは非難ではない。

 理解しようとする、必死の問いだった。


 エリシアは、少しだけ目を閉じる。

 そして、ゆっくりと開いた。

「ええ」

 その答えは、迷いなく。

「重たいものです」

 短く、しかし確かに肯定する。


 侍女の肩が、わずかに震えた。

 だが、エリシアは続ける。


「ですが」

 一拍。


「それは“個人の重さ”ではありません」


 静かな声。

 けれど、その中にあるのは揺るぎない芯。


「王族とは、個人であって、個人ではない存在です」

 言葉を選びながら、しかしはっきりと。

「己よりも、家族よりも、民を、国を優先する」

 それは理想ではない。

 義務だ。


「必要であれば、切り捨てることも含めて」

 侍女が息を呑む。

「それができる者だけが、その場に立つことを許されます」


 静寂。

 重いが、逃げ場のない真実。


「……装置、なのですね」

 侍女が、ぽつりと呟く。


 エリシアは、わずかに頷いた。

「ええ」

「国を維持するための、“装置”です」

 感情を持ちながら。

 それでも、感情だけでは動かない存在。


「私は」

 エリシアは、少しだけ視線を遠くに向ける。

「それを、最初に教えられました」

 侍女が顔を上げる。

「王妃殿下から、直接に」

 それは、形式ばった授業ではなかった。

 最初で。

 そして、最も重要な教え。


「“あなたが望むかどうかは関係ありません”と」

 静かに思い出す。

「“その立場に立つ以上、そう在るしかないのです”と」

 逃げ道のない言葉。

 だからこそ、嘘がなかった。


「……お嬢様は」

 侍女の声は、まだ震えている。

「怖くは、なかったのですか」


 あの時。

 毒杯を前にして。

 エリシアは、ほんのわずかに微笑んだ。


「怖かったですよ」

 あっさりと。

 否定しない。

「死ぬことは、やはり怖いものですから」


 当然のことのように言う。

 だが。


「ですが、それ以上に」

 言葉が、静かに続く。

「躊躇う理由が、ありませんでした」

 それが答えだった。


 侍女は、何も言えない。

 ただ、理解してしまった。

 自分が仕えているのが、どういう存在なのかを。


「安心してください」

 エリシアは、柔らかく言う。

「あなたに、それを求めることはありません」

 侍女は、はっと顔を上げる。

「あなたは、私の“個人”の側にいてくれればいい」


 ほんの少しだけ。

 本当にわずかだけ。

 王族でも装置でもない、“エリシア”のための言葉。

 侍女の目に、涙が滲む。

「……はい」


 深く、深く頭を下げる。

 今度は、震えではない。

 覚悟でもない。


 ただ――

 理解の上での、忠誠だった。


 その夜。

 王宮の一室で交わされたのは。

 華やかな政治でも、陰謀でもない。


 ただ一つの。


 “どう生きるか”という、選択の話だった。

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