竜宮*二
2020.12.29 投稿
ザアア……と稲穂が擦れて、さやかな音を立てる。見渡す限りの黄金は、秋風に吹かれて波打った。
実りの大地に瞳を注ぐみちの右頬を、暮れ方の鮮烈な色が染めていた。太陽の時間の終焉、夜の始まりを告げる光は、瑞穂に負けじと黄金を放つ。
彼女は毎日、実りの原を眺めていた。主が「美しい場所」と言ったのがそこだった。桜の咲き誇っていた里とは違い、竜宮には、緩やかではあるが四季があった。趣向の凝らされた庭も季節に応じて色を変え、大層美しい。しかしみちは、この実りの原が一等好きだった。安らぎに、深いところから抱かれる。緩やかな息を零し、瞳を閉じる。夏を忘れた風の中、響き渡る音に包まれる。もの皆、実る秋。遠くから、村人たちの祭の声が聞こえるようだった。笛の音、歌う声。秋の光にぴんと映える、人々の影。
わあああああ……。
厳しい夏を越えた、恩情。厳しい冬が来る恐怖を度外視すらしてしまう、享楽。
目を開けばそこには、人々が朗らかな顔で歌い踊っている。黄金の中で、天を仰ぎ地を拝し、跳ねとび回る。
口々に何かを歌っているが、声は聞こえなかった。それでも、みちは顔を綻ばせる。豊作の喜びが、伝わってくる。米を頬張る幸福。飢えを免れたことの安堵。
そして至る厳冬。
「冬がくるよ」
それまで、ゆるやかに踊っていた村人たちが皆、きょとんとした顔で彼女を見た。互いに顔を見合わせると快活に笑いまた、踊りながら、遠ざかる。沈む夕日から目を背けるように、南の彼方へ消えていく。
「冬がくるのに」
秋の清らかさ。冬を滲ませるその空。この美しい実りが、死の世界へ転落する。その様を見るような気がして、顔を覆う。楽し気な旋律を、虚しく思い出すその冬。暗く、閉ざされた家の中、一歩も動けない。手足は死に絶え何を触っているのかも分からない。家の外は、骨と同じ色ばかりになる。たまの晴れに喜んで空を仰げば、目をやられてしまう。それは生き物をよせつけない青。もずが鳴く声も、金属のようにカンとしている。
「冬が……くるのよ……」
みちの声は中空に吸い込まれる。人々は笑顔のまま、遠ざかっていく。
今はただ、冬が来ることが恐ろしかった。
実りの中に、足を踏み入れる。稲と衣が擦れて、混じりけの無い、美しい音をたてる。一つ、稲穂を手に取る。米の粒が、真っ白な粒が、この黄金の下に隠されている。
「冬がくるの」
彼女の肩を、風が擦り抜けていく。力を失った手の間から、恵の穂がぐらりと落ちる。
稲を踏み、闇の迫る畑を行く。
不意に、薄汚れた祠が現れる。
朽ちかけたその扉に、そっと触れる。それだけで、扉が開く。
くろぐろとした宵闇にも、分かる。中に何があるのか。
鈍い銀に光る蛇が、あかあかとした舌を、吐きかけてくる。
風がうなり、稲穂の音が散らばる。あちらからもこちらからも、ここを目指して近付いてくる。さあ夜が始まる。もう、銀蛇の姿しか見えない。月の無い水底の夜。波の音に取り囲まれて、埋もれてしまう。何も見えないのに、蛇は見えている。小さな蛇だと思っていたのが、今や身の丈くらいになっている。稲穂の音だと思っていたのが、人の囁きのように聞こえてくる。満ち溢れていた黄金の輝きを懐古する間、蛇は見上げるほどの高さになり、人の囁きはひとつの言葉になる。
「お か あ さ ん」
水を打ったような、静寂が訪れた。
蛇は鎌首をもたげて、こちらを見下ろしている。娘の心に恐怖が無いのは、身体が闇に同化している、錯覚に陥っているからだった。
蛇の首が、ぞらり、と下りてくる。自分の身を越えたか、と思った。背中に走る冷たい流れに、娘は身体の存在を思い出す。悲鳴を上げる彼女の衣服の下を、大蛇の首が這う。立っていられなくなって、転げようとする彼女を、その長い蛇身が阻む。泣き喚く彼女の肌の上を、残らず這い回った後、蛇はその身を地に落とし、娘から離れる。
闇の中、彼女の肌だけが、白くぼんやりと残った。
膝を突いた彼女は、衣服をかき集めて震えている。
闇の中、蛇はどこへ行ったのか。代わりに、ひた、と響く足の音。
己の前に立つ人。
視界が奪われているのに、何故知覚できるのか。
そしてそれが、男だということも了解している。
無言の男が、手を伸ばしてくるのが分かる。温かいものが、頬に触れた。
「このような所におったのか」
幻視は消えている。日没後の墨縹の空を背景に、主が顔を覗き込んでいた。
みちは実りの中に身を横たえていたのだった。
「冷えてしまうぞ。明日は婚礼なのだから、今日はもう休みなされ」
二人は連れ立って、宮殿へと戻る。
主と夫婦になる。
それは、晴瀬を殺す未来に至らぬための道だった。何度も、彼に会わせてほしいと懇願した。しかしその果てに、彼を殺す未来が待つのだとしたら。彼が首を刎ねられたあの悲嘆を思えば、最初から会わない方がいい、と思うようになった。
というのは、一人で考えたことではなかった。主が、共に、寄り添うように考えてくれた。落ち込むときは、気晴らしに美しい景色を見せてくれた。それが何より嬉しく、心地よかった。
だから、婚礼をあげることにしたのだ。
みちは、人間でないものの顔を見上げる。気高き獣のような髪。寸分も狂わぬ陰影を溜め込んだ顔。鉱物的光輝を秘めた瞳。
「どうした」
「いいえ……また明日」
顔を伏せて、部屋に戻る。灯りをともしたそのとき、目に飛び込んできたものに悲鳴を上げた。
「おおと」
髪の白い、瞳の赤い、あの女。
宙を滑りみちの口を塞ぐ。
「ここで大声だしたら、また来てしまうよ」
「いかがなされましたか」
襖の向こうで、めめの声。
暴れようとする彼女の手を抑え、赤い目の女がみちの声で「ちょっと、見間違えた、だけ。大丈夫」と答える。
「左様でございますか」
彼女はあっさり、去ってしまう。
黒い瞳に涙を一杯溜めた娘を、女は笑う。
「大声、出したら、泣かせるよ」
みちは何度も頷く。
「ヒヒヒ」
女は軽やかに床を蹴って寝台にかける。
「あんたに会うのは二回目だね。私はケネカというよ」
一度会えば忘れない容姿。雨が降ったあの日、黒い男の中で出会った女だった。
「……冬に、いとしい、人をころしたのも、あなた?」
「夢に見たんだね?そりゃ話が早い」
と大きな瞳を細める。
「私はあんたの前に、月神に憑かれてた女……月の女だ」
血の気の無い顔。だらしなく口を開けて笑う様。人殺しとはこれのことだ。みちは震えあがった。
「何をそんなに、怖がってるんだい」
「出ていってよ……」
「あんたに言うことがあって来たのに、出ていく道理はないよ」
「聞くから、言ったら、すぐ出てってよ」
「そーんなすぐに終わる話じゃないんだ。ほれ、床に転がってないでそこにでもかけな」
巫女の裳裾を振り上げ、足で椅子を示す。みちは床を這い、身を縮めて座った。
「臆病そうな娘だねえ。名前はなんてんだい」
「……みち」
「みち、みちか」
何が可笑しいのか、赤い唇で名前を何度も繰り返して笑っている。自分自身が彼女の口の中で転がされているような気分だった。
「あんたは、どんな風に生きてきたんだい」
「……機織、をやっていた」
「その前は?どこの村の人間なんだ」
「……わかんない」
口減らしのために売られたというのを思い出し、首を横に振る。「しらない」
床に落ちた自分の影を見つめる彼女を「ヒヒヒ」と笑う。
「過去をなくしたのかい。みち、って名前のクセに空っぽなんだなあ」
「ちがう。言えないだけ」
「そんなら頭を叩いてごらんよ。空っぽでないかどうかさ。私は術士だから、あんたの中までよく見える」
みちは、手の平の底で頭をどっと叩いてみる。コォォォンと、空洞を音が走ったような響き。
目を丸くして手の平を見つめる彼女を、ケネカは笑った。
「ほれみろ、空っぽだったろう」
「……それならあなたは、どんな風に生きてきたの」
彼女は手を握り締めて問うた。
「聞きたいのかい?」
拳を膝の上におろして、頷く。ケネカは肩を強張らせる彼女を、品のない笑顔で笑っている。
「明鳴神社ってとこで巫女をやってたんだけどね、こんな見た目だから珍しがられて宮中に招かれたんだ。宮中に行く前に海神にとっつかれた男殺して、宮中では王サマを殺そうとした。でも無理だったね。で変な男に殺されて死んだ」
「王様を、殺そうとしたの?」
王は、国を支配する太陽の神の子供だ。ケネカは悪びれるでもなく頷く。
「王様は、尊い、存在だわ」
「あんたらにはそうかもしれないけど私にとっては違うんだ」
「あなたには違う、とかには、ならないはずよ。だって、太陽の神様の、御子なんだもの」
「私には、その太陽が憎いんだよ」
ケネカの顔から笑顔が消える。
「太陽の光は、痛くてたまらん眩しくてたまらん、でな。建物の外に出られんのだ。だから太陽の子供を殺してやろうと思ったのさ」
みちの慄いた瞳を見ると、彼女はまた笑顔を顔に貼り付ける。
「月は死神だから拝んじゃならん、月光は殺光だから浴びちゃならんというが、私は構わなかったんだ。太陽は憎いがその分月が好きだった。それで月神に気に入られたんだろうねえ……ああそうだ、私がどうやって死んだか、聞きたいかい」
みちが首を横に振ると、彼女は話し始めた。
「王サマを殺そうってのは、無謀な話だったんだ。そん時はそうは思わなかったけどねえ、力が溢れ出てきて……でもあっちは数が多くてどーにもならんかった。そんで逃げたけどね、海の近くでデカイ奴に片目をぶっ刺された。そんでもしぶとく生きてたら、黒い……あんたみたいに空洞の男がいてね、よく分からんことばっかりぬかして私を殺そうとするから、もう片目を自分で抉ってそいつの口に突っ込んでやったのさ。そこは海辺だったねえ。その空洞男に海に捨てられて死んだんだ」
気味の悪さに堪えらず、立ち上がる。
「ヒヒヒ。あの空洞男の中に眼ン玉を突っ込んだおかげで、死んだあともこうして形を保つことができるのさ」
「……出てってよ」
震える声で言いながら、後ずさる。
「前に会ったことがあるだろう。普段はあの空洞男の中にいるんだけどね、あれが寝ている間はふらふらできるんだ」
「出てって」
「空洞男が憎いからねえどうにかこうにか苦しめてやろうと思って機会をうかがってるんだ」
「出てってよ!もう聞きたくない」
みちはとうとう耳を塞ぐ。
「ヒヒヒ」
頭に直接声が響き、小さく悲鳴をあげて手を離す。
「じゃあ本題に入ってやるよ。あんたは月神に憑かれた女と海神に憑かれた男……月の女と海の男の話を、甘くみてる」
目を閉じ、耳の穴に内側から蓋をして話の侵入を防ごうとするが、彼女の声は鼓膜を介さず身体の内に響き渡る。
「あんたが思ってるよりもっと、業が深い。どんな道を選んだって、必ず、男を殺す未来に辿り着くようになってるんだよ」
「そんなことない。私がここにいれば、晴瀬に会わなければ、いいはず」
「それを、甘いと言っているのさ。出会ってしまったのがもう終いなんだ。諦めな。月神は海の男を殺すことで、海の力を手にするんだ。そうして憑いた女を操って、太陽の神を打倒するよう仕向ける。私がまさにそうだったようにな。耐えられん女は自分で身を投げたりしちまう。けどあんたは空っぽだから、うまいこと操られるだろうよ」
「嫌だ!」
「嫌だと言ったところで決まっているんだ。それなのにねえ、化物に股開く道を選ぶもんじゃないよ」
みちは途端に顔を赤くし口ごもる。
「股、開くなんて」
「婚礼、ってもんが何を意味してるか、分かってないんかい。うぶだねえ」
ケネカは白髪をもてあそぶ。
「婚礼の次に待つのは契りだ。あの化物はどんな風にあんたに子供を植えつけるんかね。考えただけで身の毛がよだつねえ」
「主様は、化物なんかじゃない。神様よ」
「化物みたいなもんさ。人間の信仰を失い、地の底水の底に落ちて、あんたのような乙女をちゃらちゃら飾り立てた竜宮で騙している」
口をだらしなく開けて笑う。
「主の顔も、この建物も調度も庭も、稲穂の原も、ぜーんぶあのおちぶれた蛇神が作った偽物さ。ここは、本当は、だだっぴろいただの荒野だ」
ケネカの身体が透けてくる。
「あれえ、あの男、もう目覚めたのかい」
独り言を放り、じゃ、と手首を振る。
「よく考えなよう。化物の母ちゃんになりたくないんならねえ」
彼女の消えると共に、油の切れた灯火が消える。
みちは今すぐ眠りたかったが、今の今までケネカが座っていた寝台には、入れなかった。椅子の上で丸くなり眠ろうとするが、彼女の声がうわうわと蘇る。
「うるさい!」
闇に叫んでも、ざわざわと復活して耳を苛む。
「いかがなされました」
めめが来る。
「主様を……呼んで!」
「承知しました」
主はすぐさまやってきた。みちは彼に泣いて縋る。主は灯りをつけると、彼女を落ち着かせる。みちは言葉をつまらせながら、ケネカのことを話した。
「それは、おぬしの恐れが、不安の象徴を借りて姿を現したのだろう。全て、空言だ」
娘は何度も頷いた。自分が最も欲しかった言葉を、掘り当てられた思いだった。背中をゆっくりさすってくれる手の柔らかさや、自分を案じてくれる声の響きが、娘の下瞼に温かな涙を押し上げる。もっと言葉が欲しかったが、それを求めるための言葉は見つからない。泣けども泣けども涙が絶えないのは、言葉になりたい感情が、全て涙の粒になって流れているからだった。
「さあ、もう寝なされ。明日は忙しい」
彼女を寝台に導く。みちの胸の内からは、嘘のように不安が消えていた。静かな部屋と同じ心持ちで、彼女は眠りに落ちた。
翌日の婚礼は、滞りなく行われた。みちは言われた通りに動いているだけで良かった。宴会などは勿論ないが、みちは主とゆっくり語らった。彼は様々な村の季節を知っていた。言葉にのせて、山奥から海辺までの秋の景色が、目に浮かんでくる。秋の空を駆け回ったような心地に、胸がすいた。
夜になり、めめに前までとは違う寝室に通された。みちの部屋より二回りも大きく、寝台も一人で寝るには大きすぎるものだった。しかし、枕は一つしかない。彼女は広々と真ん中に身を横たえ、朝までぐっすり眠った。
それからつつがなく、穏やかに日々を過ごしていた。
しかし一つだけ、妙なことがあった。
毎朝自分の裸体を眺め、前の夜のことを思い出しているのだった。
沈黙の寝台に自分の声が、滑らかな肌の上に誰かの手が、這う。誰もいないのに相手がいる。朝がくる度に訝るが、その最中は抵抗しようという気が起こらない。深い闇を熱が走る。正体を探ろうとする意識を、大きな手の平で抑えつけられる。水の中に頭を突っ込まれているような。水を飲み、水を飲み、水を飲み、溺れていく。
朝、己の指先に目を落とし思い出す苦しみの中には、いつも光がある。水没の恐怖の内に、恍惚を見るような諧謔。恐ろしい、と思えど、気味が悪い、と思えど、毎夜恐懼することもなく、きちんと寝巻を纏い寝台におさまっているのだった。
その日も、窓から差す日差しに目を細めて、溜息を吐いた。身体の上を、中を、走った熱。揺さぶられる内臓。弾けるような光。ぎゅっと目を瞑り、肋骨を抱いた……その手が、冷たいものに触った。
引っ込めた手を、ぎゅっと握ったまま。その正体を見ようか見まいか。
「姫様」
めめの声だった。
「そろそろ、子を宿したのではありませんか」
が、と下から、驚愕が身を貫く。
「身体のどこかに鱗が生えていやしませんか」
「しない」
襖が開いた。
「図星でございましょう」
みちは身を丸めて布団を肩まで引き上げた。
隠さなければならない、と思った。
めめが見たことの無い笑みを浮かべ、寝台に腰かける。嫌なのに、見られたくないのに、知っている。もうバレている。
「残念ながら、お見通しですよ」
春の日差しのような声で、裸の背を撫でる、彼女の顔がこちらを向いているのが、目の端に映っている。
「ほら」
同意の有無を問わず、彼女が慇懃な手つきで布団を剥がす。そして、みちが目を背け続けているそれの正体を見とめると、彼女は襦袢を被せた。
みちは手を引かれるままに寝台を下りる。これから、何か、今までとは違うことが起きる。わたしが、わたしではなくなってしまう。その予感に、身体が震えるほど、鼓動が強くなる。めめの手つきは大袈裟だと思うほど丁寧で、指先の動き一つ一つが、宙に水紋を描くようだった。衣擦れの音が、厳かにすら聞こえる。
「さあ、主様にご報告いたしましょう」
「わたし、子供、できたの?」
「左様でございます。よくやりました」
気が遠くなり、彼女はぶっ倒れた。
蛇の子供を何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も、産む夢を見る。
痛みの中苦しみの中、床じゅうに広がる蛇の子供たち。産めども産めども尽きない腹の子供。白い蛇。壁から天井から、這い回っている。意識が霞み始めると「まだ、まだ、まだ、まだ」と声が聞こえる。汗が滑る自分の肌は、濡れて光っている。人の肌でない色に光っている。夢だと分かっている。苦しみは終わると分かっている。しかしそれが千年も後の話のような気がしている。蛇の子供は窓から出ていく。何百匹かが集まり、扉をようやくこじ開けた。出ていく。一気に出ていく。腹から下る子供の量も増える。血が逆流したかのような感覚に、暗闇へと吹き飛んだ。
夢から覚めたのは、夜が終わる前。
喉が鳴るほど、激しい息をついていた。引き揚げの安堵と引き摺る恐怖に涙が頬を駆け下る。あんなに蛇を産むのか?産みたくない。わたしは蛇じゃない。肋骨の鱗は日に日に数を増す。爪を立てて剥がそうとかきむしる。痛みも走らなければ、めくれることもない。
「……だ、やだ、いやだ、嫌だ!」
「だあから言ったじゃないのよお……」
闇に白く、浮かび上がる影。
ヒヒヒ、と白髪の女が笑う。
「あんたってほんとに空っぽなんだねえ……自分で選ぶことができない……あの主に騙されて子供は嫌だなんて泣いちゃって……警告までしたのにねえ……」
嘲笑に耐え切れず、枕を掴んで投げるが届かない。
「わたし、こんなの、望んでなかった」
「だから、よく考えなって言ったのにねえ。馬ぁ鹿」
罵倒が余りに妥当で、みちは泣いた。
「泣き虫ぃ」
「わたし……どうしたらいいの……」
「何言ったって、「うるさい!」だろう?そんな奴に助言なんてできないなあ」
「教えて……」
「タダじゃ教えない」
「分かったから」
「言ったな」
みちは必死で、頷いた。
「子を堕ろせ」
期待外れな助言に、みちは憤る。
「それができたら、教えてなんて、言わない!」
「ほうらね、あんたを助ける方法を教えてやったのにそれだ」
「そのくらい、わたしにだって分かる!」
「どーせ迷ってるんだろ?腹ん中の子供を殺すのは嫌だが、産むのも嫌ってさ。残念だけどそのどっちかしかないんだ。だから答えは『堕ろせ』だ」
「どうやって、堕ろすの……」
「簡単さ。ここは地上と違うからね。腹の子の死を念じながら、それを口にも出すのさ」
みちは頭を抱える。どん、どん、と心臓が全身を打つ。体内に宿った命を、捻り潰す。自分が恐怖から逃れるために。要するに人殺し。動機は自己防衛。「死ね」と自分が、言われたら?相手が自分を守るために。
「いやだ」
「可哀想な子だねえ」
と口では言いながら、ヒヒヒと笑う。
「んじゃ、教え賃を払ってもらおうかね」
彼女の身体が消えて行く。
「あんた自身が、神となれ。そして、あの空洞男を殺せ」
赤い瞳を見つめる。
「あんた空っぽだから、素質はあるよ」
そう残して、彼女の姿は失せる。
全てが精気を失ったかのような夜更けに、一人佇む。
「月神に憑かれたのは。わたしのせいじゃないのに……」
ゆら、と襖を開け、廊下に出る。手探りで闇を進む。壁も床も、ひんやりと冷たい。初冬の夜。
「蛇の子なんてわたし。望んでないのに……」
手探りで、外に出る。
東の空が、白んでいた。
「神になれなんて、そんなの無理……」
うすぼんやりした光の中、みちは実りの原へ歩く。稲穂を見れば、心が休まると思った。しかし思い通りにはならない。冬へと季節を進めた田の稲は、すっかり刈り取られていた。
「ない……」
冬がくる。そんなこと、分かり切ったことだった。あの桜の里とは違い、ここでは季節が巡る。それが美しいと思ったのに。
「こわい」
爪先のかじかみに、冬の痛みを思い出す。月光の明るさを思い出す。一人冷たい床の上、夜を過ごす。白い光が眩しくて眠れない。だから、頬寄せた月光。
それが自分の首をしめている。
ふわり、肩を包み込む腕がある。
「月神……」
感じる。強い力で、柔らかに、包み込まれる。言葉は無いのに意図が分かる。
これが、諸悪の根源。
これが、離れれば、万々歳だ。
「わたしから離れろ!死神!離れろ!」
言葉で子が堕りるなら、憑き物だって――「浅はかなこと」
唇を、下から撫でる手。
「生まれる前の命とおなじやり方を、神に用いるなんて」
「離れて……わたしから離れてください……お願いします」
神は答えず、ぎゅ、と抱き付き身体の中に染み込む。
朝を始めていた東の空から、太陽の頂がのぞく。光の巨塊が空の闇を襲おうとしている。毎日がこうして始まり、冬が少しずつ目をこじ開ける。いよいよ、月神の支配からは逃れられなくなる。夏の、空を這うような月とは違うのだ。高々と昇り、氷柱のような光線を撒き散らす。その光がきっと、子を堕ろす。晴瀬を殺す。太陽を殺しにいき、おそらく叶わずわたしが死ぬ。今度こそ、徹底的に、死ぬ。
「いかがいたした」
太陽と同じ方角から、歩み来る男。
「子ができてから、具合が悪そうだが」
表情のないその顔は、面そのものだった。神の手が作り出した、超絶技巧の面。目鼻の配置、彫りの深さ、描き出す曲線の滑らかさ。
嘘、そのものだ。
なぜすぐに、ケネカの言葉を信じられなかったのか。
「お前の暗い顔を見るのが……」
次の言葉を、その薄い唇が発する前に。みちは綺麗な面のこめかみに爪を立てた。
ガコ、と音がし、指が食い込んだ。
爪先から全身に向かって、鳥肌が走る。怖気を唸り声に殺し、一思いに面を剥がした。
玲瓏が腰を折り、顔を覆い、形容し難いほどの醜い音を発する。みちは耳を塞いだ。遠くで竜宮が砂になっている。地平線の向こうまで続く稲の原も砂になる。目の前の主も、外側から砂になる。無になれ、無になれ、無になれ!しゃがんだみちは念じていた。嘘はなくなってしまえ。全て!
残ったのは、霞んだ青空の広がる荒野だった。
ゾラゾラ音がする方を見ると、黒みがかった銀の色に輝く大蛇が、重たい身体を引き摺っている。
「厳しき道を、選んだのだな」
地獄の底から響き渡るような声。大きな真っ黒の瞳に、自分が映っている。生気を失った顔で、怯えるでもなく見上げている。
「好きに、あの男にも、会うがいい。だが、至る場所は酷であることを覚えておれ」
「晴瀬は、まだ、生きてるの」
蛇は答えず、彼女に一礼をし、去っていった。
「……みち?」
振り向いたのは、東。そこに今度は、海の男が立っている。




