第九百四十一話
美しさを人に伝えるのが苦手。
バチカンのサン・ピエトロ大聖堂に保管されたミケランジェロのピエタのマリアのように、触れることをためらうと同時に、触れずにはいられないほどの衝動がこみあげてくる。
そんな首筋をしていると考えてみたところで、伝わるのだろうか。
不安になるんだ。
華奢で、色白な肌に見える血管の筋と滑らかそうな表面の息づいた淡い色の繊細さに、この人は生きているのだと感じて。
美しくて仕方なく、とうとくてたまらない。
それを如何にして伝えればいいのかわからない。
たぶん、晒された無防備さに打ちのめされたのなら涙していた。
けれどそうはならなかった。
欲だ。夢も。
私は刺激されていた。
渇きを覚えていた。
ああ、人が罪を犯すのなら、こういう気持ちなのだろうなと考える。
身体中が熱い。鼓動が聞こえてくる。動悸かな?
渇望していた。
吸血鬼の首筋が、私が求めた奇跡と契約の象徴が、すぐそこにある。
「――……あまり痛くしないでね?」
「きっ、気をつけます……ましゅ」
なぜ語尾を二度言ったのか。そしてなぜに噛むのか。
そっと両手をミコさんに伸ばした。
めちゃめちゃぷるぷる震えていた。
あれ。
あれえ!?
なんかこれ、めっちゃえっちな感じじゃない!?
間違いないよ!
これ、濡れ場だよ?
雨降る新宿御苑で年上のお姉さんの足を採寸するように。
船の先端でポーズを取って飛んでいるような感覚を味わえるハグをしたり、絵を描いたりするように。
煙草の先端を重ねて一方の煙草に火をつけるように。
互いの感覚や記憶を共有して、巨大なロボットを動作するための点火作業に入る瞬間さえ。
特殊なふれあいだ。情愛の一幕になり得るんだ。
うわ。
うわあ!
すっごく恥ずかしくなってきました!
なのに、わくわくが止まらないあたり、中学時代のこじらせた私は消えたわけじゃなかったのです。元気に息を吹き返して、心の中で叫んでいます。
さあ、やれ。噛みつけ。飲み干せ。彼女の血を。命を。
口を開けるけれど、深呼吸。
「――……それじゃあ、いきます」
衝動のままに、自分の欲望のままに傷つけたりしない。
「どのあたりがいいとかあります?」
「よく考えて。あなたの犬歯ならたやすいと思わない? すべての歯で皮を裂こうっていうのなら、私もさすがに抵抗する。頑丈だけど、無茶をしていいとは言わない」
「で、ですよね」
血管に突き立てたら致命傷になりそう。そもそも細菌がよくないと思う。
そもそも人は常在菌を保菌しているんだよね。歯の細菌が血管に入ったらやばそう。
どのくらいやばいかは知らないけど、いいイメージはない。
「そのあたりも心配ない。ほら、はやく。こっちもこれで恥ずかしいんだから」
「で、ですよね」
じゃあ、と唾を飲み込んだ。
ごくって音が鳴ったりしなかった。
それで焦るのもどうなんだと自分に突っ込んで、すこしだけ我を取り戻す。
肩に手を置いて、晒された首筋に唇を寄せた。
キスするのってどうなんだろう。ありや、なしや? したら余計にえっちな感じになっちゃうな。でも、なんかこう……見ているとむらむらしてきます。
ほら、私の通常時の語彙力なんてこの程度なんだから。
やっぱり、ミコさんの首筋の美しさを例えようとしたら戸惑うよ。答えが見つからなくて。
ご挨拶代わりにしちゃえ。だめなら既にたしなめられているはずだし。
そっと重ねた。
予想と違ってずっと冷たかった。予想どおり滑らかな感触ではあったけど。
顎の付け根あたりに触れた唇に、脈を感じた。
冷たいといったけど、でもそれは人の枠組みの中での話。
「ん――……」
鼻に掛かるような声をだしてくるの、気分が盛り上がっちゃうのでやめてくれてもいいのに。
ちゅ、と吸いついてから唇を開く。
両目が熱くなってきた。
口の中もそう。
いつだったかな。トウヤを盗撮して脅してきたアダムに本気で怒ったときのような、そんな熱が顔中に広がっていく。
獣になっているのかもしれない。
あまりに欲求を刺激されすぎて。
「あ」
ミコさんがぴく、と動いた。
食みついたせいだ。首筋に犬歯を当てた。
頭がくらくらする。甘露が待っている。毎日切望した夢の象徴を、私は奪えるのだ。その昂ぶりはきっと原始的で、だからこそ抗いがたい衝動に違いなくて。
尻尾がぶわっと膨らんでくれたから、ぷちのことを思いだしていくらからブレーキが働いた。
やばかった。
尻尾がなかったら、がむしゃらにめいっぱいの力で噛んでごくごく飲んでいたはずだ。
まさに濡れ場。切望したはじめてにテンションがあがりすぎて暴走する私は未熟者。おっかなびっくりくらいでちょうどいい。
そっと噛む。
予想よりもずっとたやすく、ぷつっと音がした。
口の中にじんわりと味が広がっていく。
ミコさんがかすかな傷跡から広げてくれているんだ。
血を。
気を遣ってもらってる。
予想と違う味がするんだ。それも、ミコさんの配慮?
わからない。
ただ――……。
「ちょっと――……もうちょっと、遠慮して」
歯を引いて、血がしみ出る穴に唇を寄せて吸ってしまう。
痕がつきそうなくらい、夢中になってしまうんだ。
「こら」
おいしい。
甘露だ。
最初は甘かった。
陶酔の味だ。
歯医者さんに見てもらって乳歯が虫歯になりそうだって言われて、お母さんに甘い物を全面禁止されたときがあった。いま思うと、あのときの歯磨きトレーニングは地獄だったよ……。
で、なんとか歯磨きレベルがあがって歯医者さんのオッケーをもらって、ようやく久しぶりに食べたチョコレートの甘さと快楽たるや! もう! ね!
あのときの喜びを超える甘さはないと思っていたけど、そんなことなかった。
これに勝る喜びはない。
それくらいに甘かったんだ。
なのに口の中で唾液に混ざると、花の蜜のような香りがひろがっていくの。濃密な甘さがほどけて、爽やかな後味に変化していくんだ。
そのおかげでくどくない。
いくらでも飲める。むしろ飲まずにはいられない。
学校の体育とか、泊まり込みの学外授業とかで喉がからからに渇いたときに飲むただの水道水がとびきりありがたく感じちゃうくらい染み渡るように、血もまた私の乾きを潤していくの。
学生時代は夢中になって蛇口に口を寄せて水を飲んでいたと、お父さんに聞かされたことがある。ペットボトルでよくない? なんて思ってたけど、訂正。これは夢中になる。
「そんなにおいしい?」
ん、と喉を鳴らして答えるけど、吸うのをやめられない。
無尽蔵に湧いて出る泉じゃあるまいし。
ミコさんの体重はとてもじゃないけど、四十キロ以上あるようには見えない。
小柄で華奢だもの。
アイドルのセンター張る人が痩身でなきゃいけないのも、個人的にはどうかと思うけどね。
いまの世の中、痩せてるのは最低基準みたいな見方してる人が多い気がする。安めのジャンクフードは太りやすいしなあ。えげつない世の中だ。それは私にはどうにもできないことだけども。
ミコさんの体重からして、献血するなら二百ミリリットルも無理なんじゃないかな。
止めなきゃ。
そうは思うのに、あまりにおいしすぎて止まらない。
はじめてのときにカナタが夢中になってたし、それで私はカナタの首筋を噛んでひどいことになったけど。あの日のカナタを責められないなあ。責めたこともないけどさ!
痛いはず。
血を失うと、それだけ回復にエネルギーがいるよね。
それだけ新たな血が出来る余地も増える――……のかなあ? どうなんだろうね。
一時期、スパイ映画の悪役がヒルに給血させる健康法をしているシーンがあった。
医療用ヒルなんてのもあるみたいですよ。ネットじゃなくて、お医者さんに教えてもらったほうがいいと思うけどね?
血流障害の改善目的っていう話みたいだけど。
血を出すことで、改めて血を作るのを促すんだったかな。瀉血っていうんだっけ。
それでヒルを用いることもある! みたいな話なんだそうですが、繰り返しになるけど悩みがあるならしかるべきお医者さんに相談するべきだと思うかな。
なんでそんな念押しするようなことを思いだしているかってさ。
私が見た悪役は、心身を健康に保ち若々しくいるために実行してたんだよね。たしか。
部下が「きもっ!」って陰口叩いてた気がするけど。あれ、私の記憶違いで私が考えていただけかもしれない。
でさ。
大事なのはミコさんが蓄積してきた霊子の固まりであり御珠でもある血を私が飲んでいることの意味だ。
悪役とミコさんの違い。それはミコさんの血には特別な意味があるということ。
私が飲んでいる甘露には霊子が宿っている。ミコさんの一部といっても過言でもないもの。
ミコさんは眷属と呼ぶ特別な身内には血を与えている。
自分の一部を与えることで、自分の力の一部をあげているんだ。
でも、それといまの行為が同じだとは思えなかった。
首筋を晒して、命を委ねるように血をくれるミコさんの心を吸っているのかもしれないと思ったらさ。
不純物を飲んでいるわけでもなければ、ミコさんのいらない血を飲んでいるわけでもない。
私はヒルじゃない。
ミコさんの命を与えてもらっているんだ。
そういう意味じゃ、決してヒルじゃないと否定することはできないかな?
あれ。じゃあ吸血鬼の血を吸った人ってヒルと同等?
なんか横道に逸れてきた気がする!
おいしいのは確か。私の渇きを潤してくれるのも確か。
でも私は血を飲まなきゃ生きられないわけじゃないし、ヒルじゃない! QED! 微妙だけど、突っ切っちゃおう。
ポイントはさ?
いま与えられている血によって、私のなにかが満たされていること。
栄養なのかな?
それとも、ミコさんの霊子?
「あなたの夢と欲を形にする力と言ったほうが適切かしらね……そろそろ許して?」
「あ」
甘えた声に動揺して慌てて口を外して、すぐに後悔。
名残惜しい。もっと吸いたいけれど、赤く色づいたミコさんの首筋にはもう血がにじむことはなかった。穴が塞がったのだ。私が吸った箇所が血に濡れていてもおかしくなかったのに、痕跡は吸った痕くらい。
本格的に「これ以上はノー!」って突きつけられた気がして、しょんぼり。
「はあ……」
息を吐いて、微妙な違和感に気づく。
すこしだけ自分の声が幼く聞こえた気がして。
「変化が起きはじめた」
ミコさんが足を組み、両手で膝小僧を抱いて目を細める。
変化が起き始めたと言うわりに、ずいぶん高みの見物感がありません? それもちょいと勢いよく溢れてません?
優雅かって突っ込もうとしたけれど、喉がかあっと熱くなる。喉だけじゃない。
いつだったか、どこかの博物館で人体模型を見たことがあるんだ。上野だったかなあ。トウヤも含めて家族四人でちっちゃな頃に行ったんだ。お父さんが好きでさ。
毛細血管だけの人体模型が飾ってあったと思うんだ。
ひたすら緻密なんだ。糸が人を構築しているような、神秘的な模型だった。
幼い私のこじらせた感覚にぴんときたよ! これだ! って。
いつか使おうと思っていたけど、今日がまさにそのときだった。
「ア――……」
熱い。
そして痒い。
疼いて仕方ない。
どうせ疼くなら右手とか左目とかでいいんだけど。
全身だ。血管すべてが暴れているような、そんな感覚。
実際に暴れたら、私は即座に死んじゃう。そんな気がするよ! お医者さんじゃないし正式な知恵はないけれど、それくらいの妄想はしちゃうよ!
だから錯覚に違いない。そう自分に言い聞かせるのに、感覚の変化は止まらない。
叫んでる。喉をかきむしる。とっくにミコさんから離れて、身悶えながら床の上に転がる。
全裸で。私いったいなにやってんだと思うのに、無理。
「ああああああああ!」
めっちゃかゆい!
必死に床をばしばし叩いても無理。
かいたら余計にかゆくなるし、カーペットの上を転がるだけで感度がやけに高まっているのか、こそばゆさが増す。尋常じゃない。
「あはははははは! ひーっ!」
ムリムリムリって叫ぶんだけど、止まらないものは止まらない。
高校生名探偵が小学生になったときも高熱にうなされていたけど、私のはそんな素敵なノリじゃないよ!
演出プランの癖が強い!
「ああああ!?」
よくないと思いつつも堪えきれずに、がりがり引っかくせいで肌がどんどん荒れる。
それに留まらず、ごそっとお肉ごとえぐれた。出血するかと思いきや、二ミリほどのお肉は途端に黒ずんだ垢に変わる。
私これ見たことある! 四部のイタリア料理店だ!
いやいやいや! 歯が抜けたりとか、水虫が治ったりとかされても困るんですけど!?
「ひいいい!」
かゆくて堪えきれずに身もだえしながらごろごろ転がって、壁にごんって頭をぶつけたの。
痛みのあまりに「ああああ!」って叫びながら両手でぶつけたおでこを押さえる。
と同時に、ごそって音がした。
はっとして周囲を見渡したらさ?
そばに落ちてたよ。黒いのが。やまほど!
「ひえっ」
カナタ呼ばなくてよかった!
違うから!?
私そこまでばっちいわけじゃないから!
きちんと体あらってるし!
綺麗にしてるしぃ!?
「もちろん、それは垢じゃない。あなたが汚いから落ちたものでもない」
「で、ですよね! ――……って、あれ?」
かゆくなくなってる……?
自分の体を見おろした。
違和感がある。
お乳が小さくなってる。
なんていうか、全体的に退化してる?
や、そんなことない。そんなことはないんだけど、でも――……。
「いくらか若返ったようね」
ほら、とミコさんが床から全身鏡を生やしたの。
鏡に映る私は九尾のまま。金色なのも変わらない。
問題は、容姿だ。
丸顔は変わらず。童顔気味の私がさらにあどけない顔して、えげつないくらい歪んだ顔芸で私を見ていた。
そりゃあ、お乳も小さいわ。くびれもちょいと薄れるわ。
なにせ、中学時代の私なのだから。
顔から判断するに、中学三年生くらいかなあ。
「なんで!?」
思わず自分の体をぺたぺたと触るものの、またしても違和感。
中学時代よりは肌つやがいい。たぶんボディラインもあの頃よりは何倍もマシ。
なんていえばいいんだろう。
タマちゃんトレーニングを受けながら中学生になっていたら、こんな姿になっていたのかなあくらいの体型だった。実際、高校生の私に比べてちっちゃくなっていても、元々の中学生の私に比べればよっぽど美乳だったし。
いや、おちちの話じゃないんだよ! 問題は!
「んん?」
肩を回す。飛び跳ねてみる。
軽く柔軟してみて、それから授業で教わった刀がないときの体さばきをいくつか試して実感。
「めっちゃ軽くなってる!」
「馴染むのが早そうね? 力が宿りやすい方法で血を上げた甲斐があったわ」
左手でジャブを二回。右手でストレート一発!
御霊を宿すまでの私は運動音痴だった。思うとおりに体が動く全能感は、あの頃の私じゃ味わえないものだ。高校時代の経験と感触が消えていないから、実感する。
むしろパワーアップしてる!
「もっと馴染むと、より強く振る舞えると思う。もっとも、高校生の姿に戻るまでの間だけどね」
「なんですと……!」
一時的な強化ですか!? これ!
「あなたが自分のものにできれば問題なし。金色のあなたの力を私が使ってみせるから」
「さっきまでの私になりきるミコさんを前に、いまの私を把握できれば会得可能です?」
「そういうこと。そのためにも、今度は私が血を吸わせてもらおうかな。さっきのお返しとして」
「おぅ……」
一難去ってまた一難! ぶっちゃけ天国!
「小学生まで若返る可能性もあるかもね?」
「そ、それはさすがに困るのですが」
「あなたの霊力が私の血を媒介に変化している。あなたの血を吸うことで、よりその変化は如実に表われる可能性が高い。この場合は」
「ロリ化です?」
「そういう言い方はどうかと思うけどね」
おぅ……。
シャルだけじゃないわけですか。
「赤髪のあなたが使った力、覚えていて?」
「銃と血液を用いた他者の霊力の使用……」
「あなたなりに、あなたなりの使用法を思い浮かべて。別に赤髪のあなたに準拠しても構わないけれど、血がなきゃ困るでしょうから」
別のやり方を見つけて試せ、と。
「じゃ、首を晒しなさい? 痛くしてあげる」
「ひいっ」
「なんで冗談なのに嬉しそうにするのよ……」
うっぷす!
睨まれちまいました!
「真性の――……あれなの?」
Mかと。そう口にすることをためらわせてしまいましたね!
なんかすみません!
「そういう……趣味?」
引かれてるぅうううう!
待って! お願い、待ってくだしい!
「ふぁ!?」
ちがっ。私はそういうんじゃないからね!?
一生懸命、首を横に振りましたよ。いやいやいやいや! って。必死な芸人さんのオーバーリアクションばりにね!
だってほんとに違うから!
ちょっとどきどきするなあって思ったくらいですから! ほんとに!
言えば言うほど怪しくなるパターンだと思ったので、素直に首筋を晒しましたけどね。
このあとめっちゃ血を吸われました。
幸か不幸か、中学二年生くらいで幼稚化は止まったんですけども。
これはこれで複雑だと思うの、なんでかな!?
つづく!




