第二千九話
技術の進歩。
霊子が世界に溢れたことは、遠回しにいえば技術の進歩に発展する一歩。
カナタの足の間に挟まって、レオくんの言ってた書籍を電子で購入したかったけど、見当たらないので通販購入決定。「この世で一番おもしろい***経済学」。*の部分にミクロ、マクロが入る。同じシリーズに統計学もあるみたい。気になるので、三冊とも購入。
入りはいつだってわかりやすくて気軽なものから。
初心者は意欲が燃えやすく消えやすい。
意欲に伴走するのがとっても大事。引っ張るのでも、押すのでもなくね。
どんどん掘り下げていくほど意欲を育て続けたら?
気がついたら分厚い専門書を読破しているかもね。
実践していたら、何年かして驚くほどのなにかになるかもよ?
興味のある学部に入って真理を探究するのも、毎日かよっていた定食屋さんの味に惚れ込んでバイトから社員になってどんどん没頭するのも。お山にのぼるのも? おいしいものを作って食べたい一心で料理を探求するのも。
みーんな、毎日こつこつだ。
技術の進歩も、そうした過程において起こる。
広まるのは爆発的な印象があるけど、そうなるまでの過程はわりと地味。
で。
爆発的に広まると? 一気にニーズが発生する。
あるいは潜在的にあったニーズ、ないしこれまでケアされることのなかったニーズが脚光を浴びる。
そのニーズがお金に繋がるのなら?
それいけーっと、サービスがぼこぼこできたり、既存のビジネスが移行しはじめる。
パソコンが出始めた頃は、まだまだ電子関係オタクのものでしかなかったそうだ。でも、インターネット通信が始まって、ビジネスにいろいろ利用されるようになると? いろんな企業が取り入れ始める。普及の速度はそれぞれに、まちまちだ。
うちの親よりも、おばあちゃんに歳が近い人たちが、だいたいその世代なのかな?
そうなるまでは? 書類のやりとりはFAX、郵便。あるいは対面が基本。電子メールもなにもない。携帯電話もなくて、あるのは固定電話。
ごつい箱と一緒に持ち歩く携帯電話も、ポケベルやPHSになり、やがてガラケーの形になって、小型パソコンみたいなスマートフォンができてきた。
わかりやすい技術の進歩。
インターネットが普及するときのパソコンも、そのOSも? こりゃあかなり大もうけだったのでは。ハードはいろんな企業が出していたから、分散した。けどOSは二者択一。窓かリンゴか。だいたいの企業は窓。なので、企業で働く人たちが個人で買うのも窓。業界によってリンゴが基本だろうから、そういうお宅はリンゴかも。
携帯電話のハード製作もそうじゃないかな。
インターネット回線の工事、通信事業まわりも激変だったんじゃない?
固定電話は徐々に、だけど確実に携帯電話に移行していき、いまじゃスマホはあるけど固定電話はないって人が増えている。私にしてみればなんの不思議もなかったけど、事務所が用意してくれたマンション部屋があったでしょ? あのとき、高城さんに教えてもらったんだけど、引っ越しするとなったら、固定電話回線を契約するのが昔は当たり前だったんだって。
いま、そんなのするイメージないなあ。せいぜい、インターネット回線だけ。
そうなると?
固定電話回線絡みの仕事は影響を受けているよね。
技術の進歩は短期的にみると、雇用に影響を与える。
雇用に影響を与えるってことは? 失業者が増えるってことだ。
新たな雇用へと流動していけなかったら? あるいは新たな雇用がとても不安定なものだったら。
そりゃあ、引いては社会に影響が出るよね。
はしょっちゃうけど、国の中での相対的な貧困はやっぱり犯罪率に紐づくもの。
経済学だと? それでも長期的にはみんながその恩恵に授かるという。
昔はガス灯に火を灯す仕事があった。イギリスあたりの話だったかなー。電気がない、普及していない頃はね。鯨油も大事だった。日本の捕鯨をバッシングしている西洋の人たちが目にしたら気絶しそうな捕鯨を、西洋諸国はしてた。あれはあれでかなりのビジネスだった。
電気が普及して、みんながロウソクも脂も必要がなくなると?
それらの仕事に就いていた人はみーんな失業する。次の仕事にありつけたとしても、前ほど稼げないかもしれない。
ただ、ロウソクや脂を買って夜に火を頼りにする生活からは解放される。電気を購入できる稼ぎがあるのならね。電気のある生活のほうが、みんなお得でしょ? という意味での「長期的な恩恵」だ。
そりゃあ失業したり、生活が困窮している人の前でいえないよ。
そこまで練られた話じゃないもの。
まだまだなんだなあ。
ガス灯にしても、電気会社にしても、お互いの利が衝突して揉めた時代がありそう。
馬に馬車も、車に移行した。そこで起きた衝突も、失業から生じた悲劇もありそうだ。
流動性もね? 求人している企業があります、これだけの求人数がいま存在しています、もね。不十分だもんね。
個人のマッチングについての数字は示せないもの。
企業に社員育成の土壌もなければ余力もないのなら?
新人は採用するけど、ある程度そだってないと面倒みきれないっていう余力のないとこしかなかったら?
流動性もなにもないよね。
負担を強いる領域が広いほど、失業は社会情勢への悪い影響を強く与える。
けど、この手の話は「教育や人材への投資」で、それができるほど体力があるか。そもそもそこにニーズを感じているか。感じているけど、やる気があるか。やる気はあるけど、やり方が見つからない。みたいな分岐があるしなあ。
リストラ、解雇、派遣社員の増加を考えると?
だけど即戦力が求められる、みたいな話を聞くと、じり貧の後退をしている印象が強い。
無理そう。
卒業する学生の雇用。終身雇用が崩れても変わらないこと。現状でのシニアの雇用条件変更のうえでの雇用期間延期。
派遣会社もいろいろあって、あらゆる業界に派遣する会社もあれば?
清掃員や家事支援、福祉で働く人を送り出す企業もあれば、IT大手に技術者を送り出す会社もある。
シオリ先輩に教えてもらったんだ。
ITは大手企業だろうと自社の社員のみで設計、製作、管理を担うなんてことはない。まず、ない。言うなれば土方と似ているそうだ。
設計会社、施工会社、いろんな土方の会社。そして、そこの企業が雇う、日雇いないし、作業単位の契約労働者。
これでもまだ単純なほうで「うちがやります」と引きうけた会社が「じゃ、あとお願いね」といろんな企業に声をかける。集まった企業は「そんなに社員いねえっす」という本音を言わずに「じゃあ技術者を派遣してもらうかー。A社とB社とC社にお願いしよう」と声をかける。A社は「えー。よその現場に人を出してて少ないなー。そうだ、a社に声をかけよう」と思い至る。
そうやってどんどん下請けへと広がっていく。
設計でも、製造でも。管理でもそうなんだってさ。
もちろん契約で口外禁止。部外秘だ。
だから問題が起きても基本は大手が「全部うちの仕事です」って感じで発表されるそうな。
やみふかっ。
紹介料はもちろん取るでしょ? それはどんな形式の派遣会社でも同じでしょ。
中抜きとして捉える人は多いのかも。
でもさ? 実際にたくさんの人たちが集まって、世の中のいろんなシステムが作られて、維持されていると考えると?
なかなか複雑な業界だね。
ゲーム業界もそんな感じなんだってね?
社員として雇う利点は技術の蓄積がある。継承もできる。講師に回ってもらったり、育成に力を注いでもらうこともできる。と同時に雇用に際した法律に則って、雇用を守る。費用もかかる。
社外に依頼する利点は雇用の縛りに悩まされずに済む。雇用するよりもかなり割高だけど、買いたたけばいい。質は落ちるけど。管理もできないけど。口出しもできないけど。雇用してないから、契約を切ればいい。そう、契約時点で取り決められたらだけど。優越的地位にあるなら、圧でなんとかいける。いずれにせよ技術は残らず出ていくばかりだけど。いま目の前のお金を取ることはできる。ずっとそのままいけはしないけど。
社員に製造を担う観点があるかどうか見極めるポイントは自社開発製品の有無と管理。どんな仕事をしたいかによって、切りかえるといいそうだ。だけど社外にぽんぽん依頼する企業だと? 社内の雇用に対しても割と冷淡になりやすいそうだし、社内の空気も期待できないから、そこは要注意とのこと。
あれ?
ここまで話してくれるってことは、遠回しに私って誘われてるのかな。
シオリ先輩に。
それはないか。興味津々に教えてもらっていたから、いっぱい話してくれただけかな。
買いたたきがある会社なり業界なりは、定着率も相応に。
安価に済ませたがって、それでいいとか慣習とか、当たり前で済ませる会社なり業界なりも一緒。
権利について訴えるし、その仕事に関わるすべての人が尊重されるよう守るのは、結局のところ、その仕事のある業界を守るため。先立つものがなければ、進みにくい。けど、声をあげやすい時代にはなってきているから、この流れを大事にしたい。
シオリ先輩はそう話していた。ミコさんが関わる企業グループも、そんな感じらしいよ?
難しさは多い。
ハラスメントの概念の浸透も、ある意味では技術の進歩に近いかもしれない。
可視化されて浸透していき、ニーズに繋がる手段に育つほど、ハラスメントを是としていた人たちがこれまで行なっていた循環に留まれなくなる。これまで他者に押しつけていた、与えていた負担を認識するようになる。他者の反発という形で。
意図的なら? 自覚があるぶん、アプローチも浮かびやすそうだ。
でも意図的じゃないものも多い。
長い間、当たり前だと思っていたことが実はだれかを不快にさせていた。
人間関係の問題の中には「言い方」次第だったってこともある。
敏感なときほど「言い方」に偏見や差別的意図を探してしまう。
今日の晩ご飯に作ったおみそ汁を出しながら「こんなのうまく作れないやー」って言ったら? みんな「ええ? そんな味噌汁のまされるの?」とか「フォローしてほしいってか?」とか、いろいろ感じるかもしれない。たんに今日の味つけが不安なら? 試してみて、とか、塩加減どうかな? とか。いろいろ聞き方がある。
話すときも聞くときも、そういう「刺激しない・されない言い方」を求める。
だからお笑いだと、その緊張を緩和させるように「みんなが言いたくてたまらないこと」を言うのだそう。かなりの技術がいるのだそう。たしかにね。技術がないまま言ったら、ただいやなことを言うだけの人になりそうだ。
親しき仲にも礼儀あり。
けれど窮屈さを感じていて、自分の言いたいことを言える状況を求めたままおとなになっちゃうと? 自分が言いたくてたまらないことを言うようになっちゃうのかもしれないね。
おとなになるのはむずかしい。
そもそも、おとなになることもまた、個人における技術の進歩なのかもしれない。
流動性を妨げるものの正体が、すこし見えてきた気がする。
うとうとしてきたのかな。カナタの体重を感じる。
だけどお腹を抱いている腕の力は強め。
「あついなあ?」
冷房つかってすることが夏のハグ維持。
技術の進歩とは。
南国や暑い地域は情熱的とかいうし。かとおもえば寒すぎる地域だと他にすることもないので、ひっつくとかいうし。結局どっちだろうと、人はひっつくのかもしれない。
暑い場所ならダンスにお酒に社交場で。
寒い場所なら出会ったふたりで屋内で。
そういうところに技術の進歩はないのでは、って?
そんなこともないよなー。
個人の中で起きているかもよ?
口説き方。お酒の飲み方。せっせと励むうえで、仲良く関係を維持する方法などなど。
あらゆる人の中で起こせるものだし?
同じことの反復でも、起きるもの。
ハラスメントをする人さえ、そうしたいという選択のもと、そうしたいという利に向かって合理的に変化していく。
だから犯人だって? きっと進んでいる。犯人の思う方向へ。
明らかに異様な犯行へと変化している。犯人にとって望ましいほうへと向かうベクトル。
クリミナル・マインドだと「秩序的」として、犯行の内容が「形式的」かどうかを表現していた。その「形式」が保たれている、という状態を「秩序的」というんだ。あまりに毎回、連呼されるものだから他の犯罪捜査ドラマでちょいちょいネタにされていた。「秩序的とかなんとかいうんだろ?」とか「こんな狂った殺人やらかす奴のなにが秩序だ」とか。犯罪捜査ドラマの製作現場で起きた殺人事件について捜査する、なんて作品もあったっけ。
でもね? 犯人の犯行、ひとつひとつの要素、そこから読み取るベクトルはいったいなにを指し示すのかを読み解くドラマシリーズでもあるの。
情報ひとつひとつに対する倫理的な見方はあるけど、それとは別にして、犯人の性向を読み取る。なにに苦しみ、なにに怒り、なにを嘆き、なにに喜ぶのか。
何度でも。何度でも。繰り返しね。
美術館の絵画や彫刻を眺めるように。
モチーフを読み取る。
そういう技術にだって、進歩はある。
それは経済学の長期的か、それとも短期的なのか。
ファクトフルネスで読んだ。経済の収入レベル、四段階。一段階あがるのに、それこそ何世代かかかる。
それほどまでに長期的なのか。あるいは短期的に解決できることなのか。
私がレオくんの実家の大企業を一世代で作れるか。
ただひとり、私の一生だけでは無理。
長期的に、何世代かかけても? まだ足りないだろう。
アニメで世界中のコンテンツ産業に名を轟かせる企業の一族になるには? もっと果てしない時間がかかる。
国内の相対的な格差は日本でも広がっている。私はわりとディスる。でも、家があって、電気ガス水道があって、スマホを所持してる率もパソコンとインターネットが使える率も望めば高く、シャワーは熱いままずーっと出る。そういう環境自体は、世界に目を広げれば、かなり手厚いもの。
なのでいいじゃないか。長期的には! いつか、ううん。いまもすこしずつよくなっていくさ! って?
むりむり。
言えるわけないっての。
納得できないことを自分に「これで諦めろ。その先はない。ストップだ」と言うことなんて。
気の遠くなるほど長い間、足踏みするような毎日で、どれほど「ストップ」が鬱陶しいかなんて身にしみているはずなのに。
言えないんじゃない。
言いたくないから言わないんだ。
その違いは大きい。
この世界に霊子があふれる変化と同じくらい。
「暑いってば」
ふり返ると、カナタが白目を剥いていた。
寝息を立ててる。私を抱き枕にして、座ったままで。
気絶するように寝るじゃん。
お尻に存在感があるんですが。すごいなあ。こういう状態でも眠れるんだね。
「きみのまぶたを閉じられる距離にいたい」
掠れる程度の僅かな声量で鼻歌を口ずさみ、カナタの目を閉じる。
起きるかな? と思ったけど、寝てる。
掴めてないなあ。
あふれでるものを掴めてない。
考えごとに夢中で、放っておいてた。
長期的に煩うと、短期的を見失う。
バランスが取れない。噛みあわない。
自分を押さえ込むばかりで、なににも寄り添えない。
魂がこもらない。
グレイテストショーマンっていう映画のね? ワークショップ動画がすっごいの。
アマテラスさまに教えてもらってみたんだ。いまよりもうちょっとだけ、未来の動画。
ずーっと内に秘めていたもの。それこそ私よりも重たく深く、あれこれ考えたり、その前に感じたりしてきた人たちの自己解放の歌。
聞いた瞬間に「彼女の内にあるかどうか、そういうことさえ飛び越えてがつんと響くなにかがある」と感じるの。あの歌声には魂があった。あるいは、私の魂が動いたんだ。
そういうものが、ないの。
日常的な苦悩には感じられないの。
そこにはある。苦悩に揺れて、一体となっているから刺激を感じないだけ。
自分を置き去りにするくらい、先に動いてくれなきゃさ?
感じとれないの。
追い越されたいし、飛んでほしい。
そうしてやっと「あ! 動いた!」と感じとれるの。
信じられないくらい鈍感で、そここそ技術が進歩してほしい。
それはそれで自分自身が追いつかなくなるくらい、世界が刺激的になるから?
ときにはつらくてたまらなくなるかもしれないね。
でもいまは、そっちに行きたい。
いっそ狂乱に浸ることができるのならいいのに。
「いっそ」
そういう渇望としてなら?
あの現場にあった異質さに、わずかに重なるものがある。
「――……いっそ」
一線を越えたい。
念のため。犯人のような、じゃない。
だけど私という枠組みを変える一線を越えたい。
叫び出したいようなこと、たくさんあるのに。
ずーっとずーっと膝を抱えて悩んでばかり。
それをいつ、声にするの?
それをいつ、ことばにだすの。
聞いてくれる人がいても、黙り込んじゃうの?
話してくれる人がいても、なにも聞かないの?
歌えるのに。
いつまでビビってんの?
「いっそ」
手に入らないものを手に入れる?
執着する?
ないよ。
どうしたって結論は同じ。
ないんだよ。
いま、あったらいいなと思えるものはないの。
私の感情や体験。喪失感。
得られないもの。
私のほしい姿の全部をもってるキラリ。愛生先輩がずっと同じ場所にいること。
運命の出会いを果たしただけじゃなく、迷わず立ち向かえるし、立ち向かってしまえるトモの強さ。心のありよう。
必要なら迷わず心を開けるノンちゃんの一途さ。
ない。
カナタがもしも私じゃなくて小楠ちゃん先輩と付き合っていたとしたら?
それさえきっと、永遠に引きずり続けていたはずだ。
この先ずっとこのままなんて、ない。
マドカたちに教えてもらった、夜と霧。読んだよ。
第二次大戦期にナチスの収容所に入れられてしまった人の記述。
不幸せには底がない。
天使と悪魔に分かれるというほど、人は単純でもない。
そうより分けようとする行いを好む人がいる、というだけ。
分断を好む人がいて、仲間を大事にしようとする人がいて、たったふたつのグルーピングでさえ、円と円が重なることもある。まして人は、多くの面があるから、ずっと複雑。
とてもふたつになんて、分けられやしない。足りなすぎる。ちがいすぎる。
この厄介さの中で、私たちにいったいなにができる?
フランクルという著者は、苦悩も葛藤も記している。常に良心に従って生きることほど困難なことはないのかもしれない。
グレイテストショーマンのワークショップを踏まえつつ、ね?
アマテラスさまのお屋敷で見た、コーダという映画を思い返す。
私たちの「ことば」で、なにを伝えるの。
私たちの「こえ」で、なにを伝えるの?
伝わらないものもあるけれど、伝わるものもある。
それで?
どうするの?
ううん。ちがうな。
どうしたいの?
手に入らない私で。ちがう私で。足りない私で。恥ずかしい私で。
この地続きにしか歩けない、そんないまを生きながら、どうしたいのかな。
ないのは変わらないの。
すかすかでツッコミどころばかりの「長期的」でしか増やせないけど。
カナタの腕に片腕を当てて、胸に手を当てる。
御珠を取り出した。
透き通る水晶玉にしか見えない。
可能性はあるという。シュウさんたちにしてみれば、これも立派な秘宝。
だけど現世しか知らない人に言わせれば? ただの水晶玉。
学校に入る前の私に問いかけたら?
素敵ななにかが見えるとうれしいもの。妄想を重ねられるもの。
「もう。そう」
呟いて、額に重ねる。
私は私に過ぎなくて、どれほど夢や希望に重ねてみたところで、どうか。
土台は変わらない。
どだい、変わりようがない。
そう受け入れて、認める。
身体中から力が抜けていくかのよう。
代わりに御珠が煌めきを増す。形が溶けるように歪み、九尾の狐の水晶像へと変わる。
私の視界に映る前髪は色濃く染まって、黒へ。カナタと私を隔てる尻尾の感触が消えていく。
「――……」
息を吸いこんで、吐きだした。
ニナ先生は入学当初、尻尾も獣耳も消していた。
獣憑きである状態から、人に切りかわるのはとてもむずかしくて、コツがいると言ってもいた。
だれにでもできることじゃない、とも。
なんでなのか、ずっとわからなかった。
だけどいま、やっと意味がわかった。そのコツも。
いまある自分の足りなさを受け入れること。それが、人に戻るコツだった。
とても穏やかな気持ちのまま、水晶像に口づける。
みるみるうちに水晶像は元の球体へと戻り、私の髪は金に染まっていく。当たり前のように尻尾も生えていく。
獣憑きに戻るコツもまた、わかった。
足りないまま、それでも夢を抱くことを自分に許すこと。
こんなの、だれかに言われることじゃない。教わることでもない。
ただただ自分と向きあい、付き合うこと。
御珠を利用してみせたのは気持ち的なもの。私にとっては象徴だから。
でも、御珠を作り出していないニナ先生でもできるのだから、本当は必要ないのだ。
どんな姿であろうと自分は変わらない。
その事実に、いくつかの複雑さと段階を付けたして、それでもなお受け入れられるかどうか。
「あえ……んんん?」
尻尾が消えて、再び生えて身体を揺さぶられたカナタさんが声をあげる。
「寝ようね」
「ああ、え?」
「ほら。横になって」
「んん」
起きているのかどうかも怪しい。
明日の朝に尋ねたら、忘れていそうだ。
それでいいや。
腕を解いてもらって、そっと誘導して布団に寝かせる。
そそくさと電気を消して、和室を出た。
二階にあがって、部屋を覗く。
ぷちたちが宙に漂う金魚マシン、ベッド仕様の中ですやすやと寝ている。
ひとりの欠けもなく。落ちてる子もいない。
もう一度、今度は御珠なしで人へと戻る。
それでもなお、金魚マシンは残る。
ぷちたちは穏やかな寝顔で寝息を立てている。
こうなる予感はあったけど、ほっとしたし、一線を越えた。
声をださないように気をつけながらも、笑っちゃった。
私にとってもう、この子たちはいるのだ。
中に入って、扉を閉める。
横になりながら、獣憑きへと戻る。
思いのほか、自然にできた。個人的にはもっと苦労してもいいくらいなんだけど。
なんか、わかっちゃった。
できなかったらどうしよう?
この問いさえ、すべては掴めていない。
人に戻って、もう二度と獣憑きに戻れなかったら、かもしれないし。
ぷちたちが消えたら、かもしれないし?
あるいは。
この子たちが、消えたら。
なのかもしれない。
どれほど怖がっていたか。
でもなー。
結果は出た。
人の姿に戻ろうがなにしようが、タマちゃんと十兵衞の御霊は宿したままだ。私がこれまで経験してきたことがゼロになるわけもなく、当然、失うわけでもない。
なのに、私はとびきり怖がっていた。
なによりもまず、私の情けないところや恥ずかしいところ、失敗や醜さを恐れていた。
そんなの、なにをどうしたって変わらないのにね!
ビビってた! よーくわかった!
これは世の中的にはちんけな一瞬。
でも、私にとっては?
技術の進歩! なので?
明日は応用といこう。思いついたことがあるので!
つづく!




