第千九百二話
矛盾しているとわかってもなお、する。
そういうとき、矛盾とどう付きあうのか。落としどころをつけることができないと? 気持ちが参っちゃう。
大河ドラマに選ばれる人物たちは激動の時代を生きていることが多くて、おまけに当時の価値観はいまとは違うことがたくさんある。一概には言えないのだろうけど。
たとえば親に愛され、認めてもらいたいという一心でいてもさ? 次男であるだけで、女であるだけで。あるいは他家にすごい子がいるだけで「ああ。どうやら自分は親の愛を得ることができそうにない」と知る人も、ちょこちょこいそうだ。諦めきれないけれど、どれほどがんばろうと届かない。
ドラマだと? 親の死に際にやさしい言葉をかけられて救われる人もいれば、逆にとどめを刺される人もいる。かと思えば死に目に会えないものの、死に際を看取った人物のことばに救われる人もいる。それが本当か嘘かのバリエーションもある。加えていえば、その人物との確執があると? 傷口に障る毒をたっぷり盛られたひどいことばを浴びせられる人もいる。
いずれにせよ、執着は強く、捨てがたい。
捨てられるとしたら?
それは、執着せずとも自分は心おだやかに、安心して過ごせると無意識にさえ染み渡るような環境と、縁に出会い、育めること。まずは自分を。もちろん、縁も環境も大事にして。
それって卵が先か、鶏が先かって感じ。
なんだろ。いまの話でいくと、そうだなあ。
ひとりの旅人が、乾きを癒やすために砂漠を行く。水が湧いている場所を探し求める旅人は、時折べつの旅人と出会う。豊富に水を持っていることもあれば「水はあるか」と尋ねられることもある。オアシスはごく稀に見つけるが、蜃気楼に見る幻であることも多く、期待はできない。
親は水をすこししかくれず、旅人が幼い頃にわずかな水源のあるオアシスから追い出した。
旅人は乾いている。
ごくごく稀に気前のいいべつの旅人が水を振る舞う。乾いた旅人は他にも大勢おり、集まると水は失われてしまう。そうして乾ききった彼らは再び、水を求めて別れていく。
尽きることのない水源があると夢物語を歌う旅人がいた。絶対にオアシスを見つけられると豪語する旅人もいたし、砂嵐から水を生み出す古の秘宝を探している旅人もいた。実に多くの出会いがあったが、だれもがみな乾いていた。
渇きはつらいが、枯草で火をおこして恐ろしく寒い夜をやりすごすとき、だれかがいると心強いことを旅人たちはみな知っていた。同時に、気を許して共に寝ると、翌朝に荷物がなくなる可能性もまた高いこともみな、承知していた。
長く共に旅をする仲間がひとりでも見つかれば、それは奇跡のような出来事だ。油断させ、大きな水源が見つかったら相手を殺して自分のものにする悪賢いヤツがいることも、みな、たまの出会いでする語らいで知っていた。だからこそ心から信頼できる仲間との出会いは奇跡だと、水の尽きないオアシスのように夢だと笑っていた。
乾いた旅人たちの孤独な時間はつらく苦しい。
だれもが考える。
水の尽きないオアシスと同じ夢物語が、もうひとつある。
夜空に浮かぶ星よりも多い砂の遥か下に、太古の秘宝で作られた大河があり、深く穴を掘ればやがてたどり着けると。しかしこちらの話は人気がない。
なにせ砂はすぐに崩れて、穴をいくら掘ろうと勝手に埋まってしまう。どこへ行こうと風は強く吹き荒れているからだ。おまけにどれほど掘っても砂、砂、砂。
名うての旅団が集まり、大がかりな工事に挑んだというが、徒労に終わったという。
砂漠を歩く乾いた旅人たちは噛みしめる。夢を追うようになったら、せっかく集めた水もあっという間に失われてしまう。体力は温存するものであって、消費するものではないと。
こんな感じ。
旅人たちにおける水のように、執着するものが欲しい。
執着から離れるなら? 尽きない水源のそばにいたい。
親の愛が欲しい。そこから離れるなら? 親の尽きない愛のそばにいたい。
こんな風にすると?
無理だよなあ。
無理だから執着しているし、欲しがらずにはいられない。
ほしがれほしがれ、カオナシ執着。
執着するのがだれかなら? 親でもこどもでも、思い人でもライバルでもなんでも「自分を欲しがれ」と求めると? いまあるものに満足していない以上、無理だから執着しているし、欲しがらずにはいられないし、渇きは増すばかりだ。
ことばにすればわかりやすいけど、いざ自分がそうなると?
渇きも、渇きを癒やしたいっていうのも、本能的なものじゃない?
頭で押さえ込めるものじゃない。なかなかね。こればっかりはむずかしい。
卵が先か、鶏が先か。いいからとにかくこの渇きをなんとかしてくれ。そういう衝動で頭も心もいっぱいになるし、感じ方も考え方も衝動の向かうままになっていくし、渇けば渇くほど偏りやすくて頑なになりやすいものだから、自分ではどうにもできなくなっていく。
自分をふり返っても、ユリア先輩やシュウさん、教授やアダムを思い返してみても、だいたいそんな感じになっていく。
渇いているときに、余計に渇きそうなことはしないし、できない。結果が見えていなきゃ、なかなか挑戦しがたい。それ自体は別に不思議な話じゃない。
渇きの対象が人であるとき、相手のいる場所に四六時中おしかけては「なんで!」と喚くのは普通に迷惑だし、そういう行動を取る時点で「待って? ね? いったん止まろう? ね?」と制止する。専門家に相談して、休んで回復してかなきゃ、かなり苦しい状態だ。
無理して「自分は悪くない」か「自分が悪い」から、「あいつ」か「自分」を「どうにかしなきゃ」と振る舞うのも、情報収集しちゃうのも怖い。悪さの証明も、悪くないの証明も、いずれにせよ一方的で身勝手な結論に立脚して構築しちゃうからね?
自分の思考停止スイッチががちっと入って、切れなくなっちゃう。
ますます執着が強化されてしまう。
ここまでくると安心って、執着する対象と直接関係していなきゃだめ? と悩む。
無理じゃね? って思うの。
中学校時代に私が執着していたキラリが、私の思いどおりにしたら安心かって? 笑えない。きつい冗談だ。小学校時代のきつさが変わらないまま、私の思いどおりにみんなが突如振る舞いだしたら落ち着くかって? まさか。
カナタと揉めて、翌日なんにもなかった振りされてもね。そこに安心はない。私が傷ついたら「は?」ってなるし、逆にカナタが傷ついていたら「は?」ってなるでしょ。
執着、ないし安心に直結する人や環境が、自分の都合どおりであればそれでいいっていうのは赤ちゃんの発想だ。泣くのがお仕事、訴えが届いて変わったら御の字。でもそれをいくつになってもやり続けるのはきつい。もっときついのは、だれもが成長過程で「他にやり方があって、いつでもできる」ような学習ができるとは限らないこと。あと、幼い頃に最初に覚える「生きるための大事な技術」だと捉えたら「他にあるやり方」でだいじょうぶだという成功体験もセットで欠かせないものだと気づく。
なのに思いどおりにしたらいいわけじゃないという実感は芽生えるから悩ましい。
見せかけの安心は、心底からの安心には及ばない。ついでにいうなら、それでも見せかけの安心でいいからほしいくらいの厳しい状況だって、世の中にはありえるよね。
世の中って意外と、かなりのどん詰まり。
別にそれでも回る。
今日もどこかでだれかが揉めたり別れたり離婚したり、ひどい暴力が生じたりしているけど。
いちおう、見かけ上で問題となるケースは、社会問題で連日報道や話題が欠かせないくらいの騒動になるほどじゃない、のかもしれないし? そうじゃないのかもしれないし。いずれにせよ、今日の現場でなんとかしようと励む人たちがいる。
あまねくすべての人に安心がある? っていうと、話は別。
だからユリア先輩も、シュウさんも、教授やアダムみたいな人たちにも、安心がいる。
極限状況であろうと日本の日常であろうと、だれもがみな安心への希求を抱えて生きている。
その安心の内訳はそれぞれにいろいろあるんだろうなあ。
多種多様なんじゃないかな。
生活の安心と安全。社会の営みに関わるうえでの安心と安全。重なるところもあれば、そうじゃないところもありそうじゃない?
人と関わるうえでもそう。
執着が強まり渇きに苦しんでいたら? いったん安心できる場所に後退して休めるようにと促せる?
アメリカン・スナイパーでは無理だった。戦地を体験して渇いた心はアメリカに戻って日常を過ごしても癒えるものじゃなかった。
渇きに対する安心の定義は、そもそも渇き自体が多種多様である時点で、どうやらかなりむずかしいもののようだ。まるで渇きの作物を育む苗床ができてしまったかのような状態になる。矛盾している表現だけど、心に苗床ができて、不安や怒りや叱りの果実がいくらでもできる。おまけにそれは渇きに対して直接的なアプローチができるものじゃない。渇けば渇くほど、苗床に生えた作物は元気に育つ。しかし、苗床のある心は多くを栄養として捧げることになる。
苗床はさまざま。寄生する生きもののようでいて、実際にはちがう。心の中に自然と生じるものとして捉えている。執着が土壌を、栄養を整えていく苗床。
映画エイリアンシリーズで卵が並ぶ場所くらい、ぼこぼこ増殖させていく。
和室でカナタに尻尾を渇かしてもらいながら、あくびをかみ殺す。
ファリンちゃんが教えてくれた転化の先の要素分解、感情ひっこぬき。
それは今後でくわすだれかの安心を届ける術にはならない。
すくなくとも、直接的には。
いまはまだ溝がある。
望む結果が手に入らないのに、私は習得する。
執着と矛盾の話はむしろ自分に対する問いかけのつもり。
だれかの心は変えられない。カナタの心も、ぷちたちひとりひとりの心もそう。私自身の心さえままならない。ましてや初対面の相手の心なんて。
自分の安心の定義も見つからないのに、だれかの安心を見つけるのはむずかしい。
あまりにも、難問。
苗床は時間をかけて作られ、整えられていく。
たとえば大河にある平清盛。生まれからして複雑。自分を引き取ってくれた養育者の父はまだしも、母と父の子が傷ついたとき、母がきつく拒絶を示したことが清盛の心に強く残る。父が武士の気概を見せなかったり、つらくあたるときもそう。そうしたひとつひとつの積み重ねが清盛の心にどんな苗床を作っていくのか。どのような作物が清盛の心にできて、乱していくのか。
極限状況に限らず、人生だれしもみな、心にあるもの。
それを読み取り、執着から離れて安心できる安全基地に移動できたらいい。
けど執着にのめりこむほど、そんなの望めない。わからない。感じ取れない。
望む結果が欲しくて欲しくてたまらないときは、特にそうだ。考えたくない、という状態さえ望むんだから。
自分に対してなら?
対策は浮かぶ。
段階を区切る。執着する結果が得られなくても、だいじょうぶなんだと思える手を増やす。いくらでもあればあるほどいい。
どれほど大事な相手であろうと、その人の心が手に入らないとしても、いい。ぷちたちが私の願う幸せを手に入られないとしても、いい。私に手に入らない、私が変えられない、私のすべきでない領域は? そのまま。支配せず、障らない。
それでもちゃんと、私はだいじょうぶ。
そう心から思えない限り、しみじみ息抜きして、回復できないと、やっぱりついつい望んでしまう。執着するままに。それじゃあ苗床は作物を育てられる状態のままだ。
安心するなら段階を作る。
スタート、はいゴール! なのか、スタート、ゴールできない! なのか。
どちらにせよ苗床が整っちゃって、きっつい作物がどんどんできちゃう状態になり、執着が増すばかり。
だから、その間を作る。
ボードゲームのマス目のようにね。
最初に設定したゴールにたどり着けなくても別の道がいっぱいある。別のゴールだって。そうやってマス目をいっぱい作っていく。自分を守り、回復できるいまと明日を優先して。
執着が増して苗床ができるほど、作物が実るほど、できることが減ってしまう。頭は働かなくて、心はすっかり参っていて、優先っていわれてもそれどころじゃなくなっちゃうのがむずかしい。
ほんとにとことん、卵が先か、鶏が先か。
なにをするのか。なにができないのか。その整理は気持ちが落ち着かないとできない。執着から回復するのは、安心できる場所で回復してからじゃないかな。
そこで思考が止まっちゃう。
執着は止まらない。アクセルとブレーキをめいっぱい踏んで、かかる負荷が苗床を整備して、作物はますます元気に育っちゃう。安心がいるのに、向かえない。だれかを変えることはできない。
堂々巡りだ。
間に溝があるのなら橋をかける。橋の脚を立てるには不安定な土台ならどうする? んー。たぶん、なにか手はある! 探してどうにかする! そうやってマス目を増やして手が打てる限り、なにかする。それができるのも、当たり前じゃない。
怖いんだ。
わかりやすくそぎ落とされ、加工された情報は氷山の一角。その先にある氷山そのものに触れてもなお、理解するのはとても長い道のりになるじゃない? ドライヤーは使えても、ドライヤーの部品も組み立てもぜんぶ含めて一から作ることはできない。
技術は「知らなくても使えるよ。楽ちん。やったね!」と福音をもたらしてくれる。わかりやすくて刺激的な情報も、それと同じように思えるし? そのノリで済ませていたら、これから先に出会ういろんな存在のあれこれを氷山の一角で済ませちゃう。
怖いだけじゃなくて、恐れてる。
その気持ちは、この苗床は、すぐにはなくならないのだと諦念と共に受け入れようとしている。
悪いことばかりじゃない。
変えられないだれかの気持ちが、振る舞いが、ふと私に優しく触れるとき、それを心から喜べる。そういう選択をする相手を喜べる。もちろん、どんな人が相手でも安心して受け入れることができるほど、穏当な世界じゃないからさ?
さじ加減はむずかしいけどね。
そこまで考えると、矛盾しているかどうかは本当のところはどうでもいいのかも。
学びたいことを学び、感じたいことを感じて、考えたいことを考える。それは苗床を整え、増やすことに繋がるかもしれないけれど、それとは別に意識して行なうことでマス目を増やし、分岐を作って、道を築くことに繋がるかもしれない。
「どうですか、お客さま」
「じょうじょうでーす」
カナタのゆるい問いかけに負けじとゆるく答えながら、足を伸ばす。
氷山の一角。
私自身も、ぷちたちも。もちろんカナタだって、そう。
わかっているのは一角まで。
一緒に居ることで、氷山のいろんな面が見えてくる。
なのに氷山の全体像までは見えない。水面の下はいつだって自分の想像の形しか思い描けないんだ。ついつい忘れて、こういう全体像だと決めつける。それを前提に「こうして」「なんで」と苛立つことさえ多い。
そこから安心までの間が、私の中に見つからない。ろくにない。
「カナタはシュウさんとムムム状態のとき、どうやったら安心できてた?」
「ええ? ううん、そうだなあ」
ムムム状態ってなにげなく言ったけど伝わるのすごくない?
そうでもない? どっちでもいっか。
「兄さんのこと忘れていられるのは、そば打ってるときかなあ」
まさかのそば打ち!
さすが学生寮にそば打ち道具を持ち込む男!
「ラビがいたずらしてたり、ユウリがあほなことしてるときとか? カズマとクリスがふたりであまあましているときとか」
気が逸れたのかな?
「だれかと話していたら、地雷に触れない限りは忘れていられないか?」
「ああ、ね。で、地雷は人には見えないっていう?」
「なんなら自分でもよくわからないし、わかっている地雷にしたってだれにでも話せるかっていったらそうでもない」
わかるう。
それで怒ったら理不尽の塊になる。相手にしてみたら、たまったものじゃない。
なんだけど、それはそれとしてきついよねって話。
「だからいったん爆発すると、相手にぶつけないようにするんだけど」
それは大事!
「それはそれとして、次から話すときに身構えてしまうから、なんてことない馬鹿話とか、いたずらとか、そういうわかりやすいのがうれしかったなあ」
安心できるとわかること。
それはたしかに大事だよなあ。
「そば打ってるほうが確実だし、兄さんに比べることなく楽しめる唯一の趣味だったからさ」
そ、そっかあ。
唯一の趣味でしたか。
「刀鍛冶の鍛錬も、剣術の稽古も欠かさなかったけど。兄さんがちらついてつらくなってきたら、だいたいそば打ってたかなあ」
高校三年生にして「ストレス解消はそば打ちです」っていうの。
そうそう。カナタはそういう人だった。
習慣に、趣味。ひとりの領域っていう安心もあるんだなあ。
お風呂場で私はけっこう歌う。ひとりで入っているときは、ね。
キラリは散歩に靴選び、オシャレもあれば、新しいお菓子チャレンジも。トモや狛火野くんは自己鍛錬だし、岡島くんはお料理作りに食べ歩き。
トシさんは行きつけのお店をいくつも持っている。バイクのドライブに、仲間との演奏とか、いくつになってもやるおばかな遊びとか。ナチュさんもカックンさんも含め、三人とも好きな格好して楽しんでいる。そこはキラリと一緒。ぷちたちにしても、大好きな作品のプリントが入ったおパンツとかけっこう気に入って履いている。キャラグッズの力、すごい。でも私も覚えがある。
他にもさ? 行きつけのお店っていうのも、自分の安心に繋がるものなのかも。
舞浜のテーマパーク大好きな人たちたくさんいるけど、そういう場所があるっていうのも安心の一歩なのかも。
それか、安心の先にある、回復に導いてくれるものなのかな?
ふたりで話してみると、私ひとりで見るより世界が広がってみえる。
ほんとになにげないことでも、大事なんだ。
「最近うってないなあ。ぷちたち誘って打ってもいい?」
粉まみれになるぷちたちと作業場が一瞬で想像できた。
けど、ご飯を作ってみる体験を楽しめたらラッキーだ。
だめならだめで私たちでやればいいし。
「明日ね?」
「よしきた!」
寮からいろいろ持ってくるかな。それとも近場で買おうかな?
うきうきしながら後ろで語るカナタさん、回復してません? ただいま絶賛、元気でてきてません?
わくわくできる具体的な目的が見えるだけでも、けっこう救われるね。
私も明日のご飯を考えるの、ひとつ減って助かるし!
なんでもいいと放るより、あれがいいと点を打ちたい。
なのに頭ほど心はおしゃべりじゃないから、どれほど耳を傾けてもわからないときがある。
焦らずにいられないときほど、焦らずに腰を落ち着かせて。
矛盾しているけれど。
それでもなお、自分の地続きに点を打って。
できるかぎり、わくわくできる点を。
せっかく心に作物が実るのなら、食べておいしいものにしたいの。
旅をするのなら願わくば、潤い満たす水の喜びを分かち合う人と一緒がいい。
つづく!




