第千七百二十四話
説明を聞き終えたおじさんは、アゴの下を指の腹で撫でた。
音が聞こえる。オヒゲの抵抗だ。
「怨念がおんねん」
「「「 ――……はあ 」」」
ぷちたちさえ含めて、この場にいる全員がおじさんに向けて白けた声をだす。
「ああいや。どういうわけだか、狐憑きが三人。そして娘の春灯ちゃんの式神が大勢。みなおいなりさんときた。となればさ」
一向に気にする様子もなく、おじさんはヒゲを撫でた指先で鼻の下を擦った。
なんとなぁく。やめてほしい。鼻水でてきそうで。
「狐憑き。憑きもの。あるいは、そうしたものの仕業と読み取れる事件について話してみるのもいいのかな、と。といっても、いわゆる民俗学的な話には疎くてね。ここの蔵書を作る過程で知った――……昔、実際に起きた出来事なんだけど」
真夏の怪談かな?
都市伝説的なやつ?
ここへきて唐突に伝奇感を出してくる感じ?
怪談的なの、私は求めてないんだけど!
「長くなりそうだから、椅子だしますか」
「ね。お茶でも飲みながらにしましょう」
美希さんが袂から紙を取り出して、手のひらにのせた。
ふぅ、と。吹いたら、ひらひらと舞う紙が地面に落ちて、にゅっと枝葉を伸ばして椅子に化ける。全員分の椅子を出してくれた。それだけじゃなく、大きなテーブルにティーセットも。
お母さんがカップの上に指をかざした。くるくると回す。カップの底から琥珀色の液体が浮かんでくる。湯気と品のいい香りを立てて。
ぷちたちは迷わず椅子を引っ張って、私のすぐそばに置いた。そうして座る。まだ警戒してるのね。
おとなしく腰掛けて、おじさんの話を聞く。
「たとえば平成二十七年度の行方不明の届け出は、八万二千、飛んで三十五人。内、所在が確認されたと判明している数は、八万、飛んで二百三十二人。つまり警察が確認している、所在の行方が判明していない人数は?」
「千八百三人?」
私が尋ねると、おじさんはにこにこしながらうなずいた。
「そうなるね。じゃあ、これが行方不明になった人の総数なのだろうか」
「そりゃあ、だって。ちがいますよね?」
「なぜかな?」
「警察に提出された行方不明の届け出の数から、行方が判明したと警察が認識している数を引いているから、あくまで警察が把握している行方不明の数に過ぎないです」
「そのとおりだ」
うんうん、いいぞ? と、おじさんがひとりで何度もうなずく。
お母さんも美希さんも、特に構うでもなく、それぞれにカバンからお菓子を出して並べていた。ぷちたちが待ってましたとばかりに集まる。
それでいいかも。いましている話って、私の尻尾の穴についてだもの。たぶん、そのはず。
どうかなあ。おじさん、信用していいのかなあ。やっぱり不安!
「届け出が出されない行方不明者の数を探る術はない。たぶん、ない。ないよね?」
「ないでしょうね」
「身元確認の習慣次第と言えないこともないけど」
お母さんと美希さんが答える。
美希さんのフォローに思うところがあるよ?
たとえば、未成年の場合だ。
ちゃんと学校に通っていたら。学校がきちんと機能していたら。教師たち職員が満足に働けていたら。トラブルに日頃からきちんと対処できていたら。
ほかにもね?
ご家庭に問題がなかったら。問題があったときに対処できたら。対処できないとき、助けを求めて解決できるようになっていたら。
行方不明になる前に、いくつもささやかな止めるポイントがあって。なってしまったとして、それに気づけるポイントもあるとしても? どう考えてもまず、行方不明になる前のポイントで止められる仕組みがやまほどあればよいはずで。
なければ?
ずる、ずると。
戻ってきても歓迎されない、戻ることに期待がないなら戻るはずもない。
日常を大事に。大切に。よく遊び、よく眠ることって、お仕事があっても大事な大事なことだからね。仮に自由な時間、遊ぶ時間、眠る時間、働く時間の四つに分けて、そこにさらにお食事の時間とか、休む時間を足しても、そのバランスは大事。
じゃなきゃ?
ずる、ずると。
崩れていく。壊れていく。
習慣を育てること。自分を育てること。だれかと育てること。そのための時間も、機会も、意欲もなにもかもが破壊されていく。
単純な話、仕事が忙しくて、しかも夢中だったら、おうちでなにかするどころじゃねーっていう人はけっこう多いだろうし? おうちのこと、自分のこと、大事な人たちのこと、きちんとするとなったら、お仕事を調整できなきゃやってけない気がするし。それができる人って、けっこう限られている気がするし? その理由って、いろんなことが言えるだろうし?
途方もない。
だから、示唆に富んでいる。
「いまからする話も、行方不明になるも、とうとう届け出が提出されることのなかったこどもの話だ」
おじさんが前屈みになり、両肘を両膝において、指先を合わせる。
「その子の母親はね。ある地域で有名な憑きもの筋の娘さんだ。とはいえ、ときは戦後の高度経済成長期。みんなでガンガンいこうぜっていう時代さ。羽振りのいい、迷信など信じない野心あふれる医師と結ばれた。娘さんの身元調査を、彼女のたっての願いでしたうえでね」
「知ってる、その話。美希が鎮めに行ったんじゃないかった?」
「まさしく、私がこの話を聞かされて行きました。麗子がトウヤくんを身ごもっていた時期にね」
うわ。世間が狭いどころの話じゃないぞ?
ふたりの茶々に、おじさんは笑みを崩さない。むしろわかっていて話しているみたいだ。
「そう。美希ちゃんが鎮めに行った頃には、ずいぶん育っていたんじゃないかな」
「苦労したし、麗子に見舞いの品を奮発してもらった」
「ちょ、見舞いとか言うな。涼しい顔して帰ってきて、顔を見せに来てくれたでしょうが」
「あ、そっか。まだもらってないんだったな~?」
「あげません。報酬はちゃんと払ったし、手当ても出したもの」
「けち」
「話を戻そう」
いやいや。待って?
「それって、え? つまり、どういうこと? 美希さんはどこでなにをしたの?」
「人のいなくなった他の県にあるマンション街に、侍隊も気づかないくらい厄介な邪が出ていたから討伐に行ってきたの」
「……はあ。え。まじ?」
「まじ。それこそ高度経済成長期に作られた住宅地なんだけどね。人が居つかなくて、オカルトな噂も絶えず、とうとう取り壊すことになった。すると今度は事故が頻発するっていうんでね? 侍隊の立場もいまよりずっと弱かったし、白羽の矢が麗子に立ったってわけ」
おおおお。
「藁にも縋る思いで、地主さんに頭を擦りつけられたのよ。そのくせ金は渋りに渋りやがったけど」
得意げにお茶を啜っている。
たぶん、お母さんはきちんと取り立てたのだ。
「いたよ。狐が、隔離世に。さ、続きをどうぞ」
美希さんがおじさんに舵取りを戻す。
待ってましたとばかりに、おじさんが語りを再開した。
「そう、狐がいた。それもやまほど。だが、その起源は? 先ほど話した女性に行き当たる。ところで、春灯ちゃん。警察における配偶者からの暴力次案等の相談等件数、というデータがあるんだけど」
DVの相談の件数かな?
前に調べたことがあるよ? 警察のさ? 刑事局捜査第一課の資料にある。
はじまりは確か、平成十三年。そこでの取り扱い件数は思ったよりもずっと少なかったはず。
だけど私が見たのは、対応した件数であって、相談を受けた件数じゃない。
どれくらいなんだろう?
「どれくらいの件数だと思う? データの始まりは、いつからなのかな? そもそも、配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律って、いつ法令として決まったのかな?」
「名前、変わったんですよね」
「お! いいねいいね。そのまま続けて?」
「最初は配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律、で。名前が変わって。要件も変わっていった。平成十三年、つまり西暦二○○一年に施行。暴力の内訳を拡大したり、加害者の行動を制限できるよう、徐々に改正されながら、今日に続いているもの……でしたっけ」
麗ちゃんが家で受けていた加害行為の一件を知ったときも調べたことだ。
配偶者。それには事実婚や、生活の本拠を共にする交際をする関係にある相手なんかも含まれる。このあたりは厳密に情報を知るべきところだから、ちゃんと法令を読んだほうがいいところ。
ところでさ?
こうした法令の知識をきちんと学び、お互いにそうした事態にならないように、よくよく話し合い、お互いの権利を侵害することなく確認して、学び、相手の権利を侵さないよう冷静に対話できるよう備える場合とさ?
たぶんなんとかなんだろー、愛しあうふたりなら、そんなの知らなくても問題ないない! って、知らずに住ませる場合とさ?
成熟した関係って、どっち?
法律にまつわる知識と、現状の間に距離があるとして、現状について学ぶことと、法律について学ぶことは、それぞれ必要性の面で干渉しない。どちらも大事なことだ。
じゃあ、それを学べる仕組みや枠組みがあるのとないの、どっちが成熟において、備えてる? 起こりえる失敗について、対処の見通しが立てやすい? もしひどく病んでしまうような状態に陥ったとき、どちらのほうが対応しやすい?
そんな概念が整備される前と、あととだと、どちらが失敗が致命的になりやすい?
「性差にまつわる暴力とか、そもそも関係性に生じる暴力とか、そのあたりも注視したいところがありそうですけど。いまのところ、ゆっくりと……ですかね」
「うん」
うなずきで、区切られた。
掘り下げると、実際にいくつもの事件がある。
そこには被害者がいて、止められなかったことも。
警察の対応の不備の指摘。そのときの法律の限界。あるいは法整備があっても現場の担当者の理解と対応の不足。結果として、だれかがだれかに暴力を振るうことを止められない――……。
「じゃあ、平成十三年の相談件数は、実態のすべてを捉えているのかな。それまでに起きていた暴力の実数は、どれくらいなのかな」
「――……」
わからない。
法律が施行されて、相談を計上するようになった。
けれど相談者が警察で門前払いを受けたケースもあるという。
実際に録画の映像を捉えて共有できているわけじゃない。だからどちらの言い分も、その実態を捉えることができない。
たとえば警察に記録が残るようになっていたら。その記録は警察内部で留まるようになっていて、かつ、警察官がだれでもアクセスできるのではなく、担当者が適切にアクセスできるよう態勢が整えられているようになっていたら。加えて相談者と担当者に関係があるかどうか判明するようになっていて、関係がある場合にはアクセスを許可できないようになっていたら。
あれや、これや。
浮かぶ仕組みは、あるのか、ないのか。
加えて相談者の心理的な負担を軽減するべく、相談者の求めに応じた担当者と会えるかどうか。
他にも浮かぶことはある。
けれど、実際に、どこまで仕組みがあるのか。
それは机上の空論になっていやしないか。
担当者が対応しようとしても困難が伴う場合には、警察組織側から、いったいどういった支援があれば、その困難を取り除けるか。
これも机上の空論。
そういうの、運用してみてわかることがある。
ついでにいうとね?
偏見も、自分の配慮の線引きラインも、無視していたり考慮していない排除という前提も、運用して負荷を感じて初めて気づく性質のもの。普段は見えないものだ。
意識的にぶつけているのなら、それは暴力だし。
無意識にぶつけているとして、それも暴力だし。
だから配慮を。だから謝罪を。だから失敗を認め、なかったことにせず、改める姿勢を。
そんなノリで角を生やして追い立てられて、責めたてられても! ってなる人もいる。
私はそれを肯定しないけど。
張りつめて過ごすのは、とてもしんどいのもまた事実でさ?
むずかしい。しんどい。生きづらいよなあ。
やだよね?
そういうのさ。
でも、そういう状況が広がっているのもきっと事実で。
「精神的苦痛も、要件として捉えられるようになった。ということは、そうなる前は、見過ごされていた……から。きっと、多い、です」
「そうだね。実際、そういう本がやまほどある。ここで私が本を作るとき、回収した霊子の年代は様々でね。いろんな年の、いろんな人の霊子を本にしている。死した人のものだけとは限らないからね。たまにまとまったお金が入っては、知り合いの人形作家に頼んで、お手伝いをしてもらえる人形を作ってもらったり、直してもらったりして、運んでもらっては、手直しをしている」
果てがないんだ。ここには、と。
おじさんは楽しそうに話すんだ。
だけど、待って? あまりに果てのない作業じゃない?
人の霊子を回収して、本にする。すべての霊子が、死を迎えて完結した人のものじゃない。いまも生きている人の霊子もやまほどある。だから、回収しては、その都度なおす。そのために、人形たちは本棚を整理する。行っては帰って、また行って。本が移動する。
途方もない時間をかけて、ここは作られていく。育っていく。
国会図書館の話を聞いたとき、素直に「すごっ!」と思ったし、同時に「いつか本棚が埋まるんだろうなあ」と思った。けど、ここの速度はどうだろう。
異様だ。
「正直なところ、本を作り続けるほど人が嫌いになることが多い。それでも求めずにはいられずに本を作る。そんな私にとってはね? 悲劇が心に居つきやすい。件の彼女は、美しい容姿以外はなにもない、退屈な女性だった。少なくとも亭主にとっては」
饒舌だ。
お母さんも美希さんも引いてる。
「私が見つけたのは、亭主の本だ。どこにあるかはわからないけど」
おまけに管理が雑だ!
「でもね。よく覚えているよ」
ほんとかなあ。
「バブル期に左うちわの医師。金だけじゃない。土地も多く所有していた。そういう家に生まれた彼は、心地よく支配し満たされる彼女に焦がれ、娶り、子を成した。が、すべてを受け入れ従う彼女に飽きた。不満はあっても隠す彼女は、耐えるばかりだ。彼はそれを理由として、あらゆる暴力を彼女とこどもに振るった」
支配したい、その意欲を暴力にした。その根拠さえ、彼女に求めた。
「酒でも車でもなく、彼は女に入れあげた。彼をくすぐり、反発し、刺激する女と出会い、満足しては、次の女へ。それぞれにこどもを生ませた」
なんと、まあ。
「その相手がね? なんと、彼の病院の話でね! 女遊びが祟る。バブルが弾ける。彼の住む土地から人も離れる。病院の悪評も広がり、浮気相手に訴えられる。とうとう妻の知るところとなるし、その頃にはもう、彼も落ち目だ。だれが悪いのかは、だれもがわかっていた」
彼も、奥さんも。
「けど、彼は奥さんをなじった。慣れていたからね。迷わず奥さんの素性を理由に叩いた。女遊びはできない。家庭に居場所を作らなかった彼に残された手は少ない」
わあ……。
酒に走って悲劇か。それとも、なんて想像したけど。
「まあ、そうは言っても彼には手に職がある。伝手もあるし、知り合いも多い。地元の風評がさんざんになってもね。新天地で心機一転を図ることにしたわけだ」
図太いなあ。
「ただね。家族は捨てた。なにかと理由をつけて、離婚もせずに。ただ、離れた。口だけの謝罪と、しっかりした生活基盤を整えたら呼ぶと言って、待たせた」
鼻で、ゆっくりと息を吸う。
「ある程度、訴訟の準備を済ませて、彼は新天地から離婚届を郵送した。思い出して、手続きをしようと思い立った。好ましい出会いがあってね。法的に彼女が邪魔になったんだな」
わお。
「残された家で暮らす母と子に金はない。仕送りもなかった。風評が悲惨な土地で暮らすふたりに近所の風当たりがどんなものか。それでも彼女は耐えた。その琴線が、ぷつんと切れたわけだ」
……わお。
「男の本には、こうあった。夢に彼女とこどもが出た。首に縄をくくりつけて浮いている彼女が見ていた。胸に包丁が突き刺さったこどもが、なんでと叫んだ。飛び起きた彼はね? 家で寝ていたのだけど、煙草の不始末で火事を起こしていてね。燃える火の中で焼け死んだんだ」
伝奇っていうより、これはもうドロドロの不倫ドラマかなにかの話では?
憂うつになって気持ちが沈む意味でもね!
絵に描いたような話だ。よくもまあ。
なんの感慨もないのか。家族に。奥さんに。こどもに。
ないからできるのか。
「私が見つけた本では、ここまで。麗子ちゃんに知らせて、どうなったんだっけ?」
「男の特定をした。女を調べた。こどもも。だけど、住んでいる地域までは絞り出せたのに、いないの。しかも男が住んでいた頃に手を出していた看護師も、こどもたちも。だれひとりとしていない。そこで一度、調査をした」
「私が討伐に行く前。麗子が病院に泊まる前にね。お互いこどもがいる身だし、調査が得意な奴に行ってもらったわけ」
お母さんと美希さんが説明を引き継ぐ。
予想したよりもずっと長い段取り。そりゃあ、そうか。
美希さんが話を続ける。
「すこし手こずったけど、どうも男が手を出していた相手っていうのが、同じ団地に集まっていたとわかる。部屋を特定するも、空き部屋。不動産屋を訪ねると、当時の担当者がひとり残らず見つからない。みんな行方がわからない。警察を訪ねるも、行方不明の届けが出ていない」
奇妙な流れになってきた。
「それどころかね? 彼女たちを悪し様に言っていた人、とりわけ男の姿もどうやらなくなっている。代わりに、ある時期を境にして、どうも浮浪者が増えている、という証言が出てきた」
「浮浪者?」
しかも流れ変わってきた?
「そう。仲間が現地の人に聞くと必ず見たという。その浮浪者はみんな、火事で死んだ男の顔にそっくりだったとか。絵に描いてみてもらうとね? 実際、みんな同じ顔を描くの」
俄然、怪談らしくなってきた……っ!
同じ顔を描くかあ。似たようなの、日本の刑事ドラマでなかったっけ。
だるまと呼ばれる男の絵を描いちゃうの。MOZUだったかな?
「それが、ある日を境に見なくなった。ちょうど、男の命日に。代わりに、次は迷子が増えたんだって。翌年は迷子が野良犬に。翌年は徘徊する老いた男に。命日を境に、変わる。そして、見かける数は増えていく」
「そんな土地に住めるわけないから、加速度的にゴーストタウンになっていったわけ」
気味が悪いどころの騒ぎじゃない。
オカルト雑誌が取り上げたり、怪談の場所を撮影してひとやま当てたい人が集まりそうな場所だ。
「調査に行った人は大丈夫だったの?」
「それを聞くまで一日かかってないからね。その時、仲間が見たのはネズミだったそう」
ひえええ……。
「当時はまだ、現世に霊子が少ない頃。逆にいまみたいに現世に霊子が満ちていたら? 怪異はどうなっていたか、想像もつかない」
ま、まさかの黒輪廻の影響!
黒い私が集めていた猟師が、もしも放たれていたら?
えげつない被害が出ていたかもしれない。
「離れた場所へと逃れて、隔離世を見た仲間がおびただしい数の妖狐を発見したという。なので、私が討伐に行ったというわけ。麗子の代役でね」
「ちゃんと仕事としてお任せしました」
「そして無事、完遂した、と。ついでに霊子を採取して、彼に渡した」
おじさんを見ると、お茶を堪能していた。
たっぷり話して疲れたのか、すごくおいしそうだ。
まるでお酒をちびちびやっているかのような、えびす顔。
「彼女と、そのこどもの本は――……このホールにあったと思うよ? 読むのに勇気がいる本は、だいたいここにある」
カップの液体を見つめながら、おじさんは呟く。
「世界というのは恐ろしい。私には、外で生きる勇気など持てない。そんな私にとって、この蔵書がだれかの役に立つことを喜ぶべきかどうかも、判断できない」
わかる限り、その人の視点で記された人生の記録。
本当にそんなものが存在するとして。図書館のように、ひとりがどれほど周囲から見て脅威的な速度で蔵書を増やしてみせるとして。
それがどれほどの意味を持つのか。
私にも、わからない。
「私は臆病で卑怯だから、ここで本を作る。それしかできないことにして、そればかりしている。多くの霊子に触れてきたけれど、御珠を宿した人と出会うのは初めてだ。本を作ったこともまだない。キミなら、本を見つけ、そこから学び取ることができるかもしれない」
唐突にすごい振りしますね!?
めちゃめちゃ重たいハードルですよね!
そういうのばっか……っ!
「討伐を実行した彼女から聞く話によれば、対象は明らかに狐憑きだった」
「隔離世だけの存在でもなかった――……丁重に弔った」
ずっとちゃんづけで呼んでいたのに、おじさんは呼び方を変えた。
そして、美希さんは明らかに説明を省いた。
隔離世に跋扈する数多の妖狐。現世に生じた異変。男の命日に姿を変え、日に日に数を増やしていく生きもの。その末路。
届け出のない行方不明者たち。弔ったという言葉の持つ意味。
考えれば考えるほど、たしかに読めない本だった。
三人とも、私も、重い顔。だけど、そばにぷちがいて、気鬱になっている暇はない。
ので、はっきり言っちゃえ。
「チェンジで」
「えっ」
「あの。なるべく軽くて、なるべく明るくて、なるべく元気が出るやつありません?」
「ええええええ……こういうの、好きなんじゃないのぉ?」
「いまの私にはまだ、そこまでの力がないので。あなたにないのなら、私にはもっとないですよ?」
「ああ、そう?」
「そうです! ここはもう、ずばっと、成功例をください!」
「そ、そう? そうかあ……願いがあるわけだ、キミにはちゃんと」
「いや、そういうんじゃないですけども。そりゃあ、なんとかできるほうがいいですけど。それって、私がやるんじゃなくて、みんなでやることなので」
「はああ……」
呆気にとられた顔をして、私をしみじみと眺めるとね?
おじさんが不意に、豪快に笑い出した。
「あっはっはっは! いやあ、そうだね。失礼をして、ごめんなさい」
目尻に涙を浮かべて、突然びしっと固まったかと思うと「お腹が、胸が、いたたた」と呻く。
久々に大きな声で笑って、筋肉痛でも起きたのかな? つっちゃった?
さすがにそれは運動不足にも程があるので、お外でたほうがいいと思うの。
憮然とする私に、おじさんはぎくしゃくと強ばった動きで背筋を正すと、ゆっくりと頭を下げたんだ。もう一度、ごめんなさい、と。そうはっきり言った。
「あ、あの。いいですけど。そんな、あの」
あわてる私の前で、おじさんは顔をあげる。
すまなそうな顔で、さみしそうに私を見つめる。
「きっとキミは見つける。私はもう、それを書いた。キミは願いを言葉にした。それは縁となって、キミを本へと導くはずだ」
「……え、と?」
「案内できればいいのだけど、なにせ本が多すぎて。私は悲劇に、痛みに誘われすぎて、キミに紹介できる本がここにないんだ」
お父さんよりも、お母さんよりも、なんなら高橋先生やリエちゃん先生よりも年上に見える。
いい年の、おじさんが、こどもみたいに素直に申し訳なさそうな顔をする。なのに、皺も、顔立ちにも、加齢が見える。だからすごくねじれて見えた。感情は素直。だからこその、ねじれ。
よく、わからないもの。
いやじゃない、けど。今日の話に似た、救われないなにかに触れた気がした。
「ホールにあるのは、いつか読まなきゃいけないと誓いながら、キミが違うと言った、つらすぎる話ばかりなんだ」
お母さんも美希さんも、目を伏せてお茶を飲んでいる。
多くのぷちたちも「触れんどこ」と距離を取って黙っている。
私も、かける言葉が見つからない。そんな中で、ユメがぼそっと呟いた。
「それって、楽しいお話が読みたいんじゃないの?」
みんなして黙っちゃっていたから、ユメの呟きははっきり聞こえるくらい、よく響いた。
どうすればいいのかわからないのに、さらにどうすればいいかわからないことを言うものだから! あわてる私とちがって、おじさんは虚を突かれたように目を見開いてから、再び豪快に笑う。膝を叩いて「その通りだね!」って、嬉しそうに叫んでさ?
「いたたたた!」
よせばいいのに!
身体中がボキボキ鳴ってるわ、筋肉が引きつって痛そうだわで。
たしかに、へんてこな人だ。
悲劇を身近に集めて、なのにそれがしんどくて、救いを求める。
わからなくもない。なんなら身近な欲求だった。
だけど、それって暴力だ。いまなら、わかる。
その矢印は、周囲にだけ向いているわけじゃない。自分にだって、しっかり向いている。
おじさんが話した人たちの立場でどうか、考えてない。まだ。
直接、お話を聞けるわけでなし。判断に困る。本人から聞ける材料がなくて。
結局のところ、よくしていくだけでしか、先はなくてさ?
そのとき、だれかを傷つけることが前提となっていて、無自覚なままでいるのが恐ろしい。
おじさんは、気づいたのかもしれない。
私は?
気づいた。
けど、知らず、気づかず、わからないまま、傷ついてしまうことが多すぎる。傷つけてしまうことが、多すぎる。
臆病だとおじさんは自分を評した。
卑怯だとも。
私たちは、なにかに追われ、なにかに責めたてられることなく、自らだれかと笑いたいと願うとき、どうして歩き出せるのかな。
知りたいな。
できなくなったとき、具体的に実行する術として。
おじさんは、知らないんだ。
知らないまま、この孤独な図書館を広げ続けている。
孤独な本の王国。
神保町の古書は、だれかが求め、触れてくる。手入れされてもいるだろう。
けど、ここはちがうのだ。
ここにある本たちは、待っているのだろうか。
ここの魚たちは、まるで標本のようだ。
泳ぎたくはないのだろうか。
私にはまだ、わからない。
つづく!




