第千六百九十八話
エウレカセブンにトラパーがあって、ガンダムだとミノフスキー粒子があって、地獄少女には閻魔あいちゃんがいて、鬼灯の冷徹にはいろんな妖怪と鬼灯さまがいる。漫画、アニメ。いっぱいある。さかのぼるほど、たくさん。不思議だって、たくさん。
江戸時代に葛飾北斎をはじめ、いろんな人たちがいろんなものを描いた。
風景だけじゃない。お店のかわいい女の子だけでもない。妖怪もあれば、春画もある。
美術の授業で学ぶ彫刻たちも、絵画にも、当時の人たちの希望や理想や欲望が凝縮してる部分もあるそうだ。
ミューズ。おお、麗しき女神よ。あらゆる芸術の化身よ。
創作意欲を刺激されるもの。あるいは、描いたときに自然と滲み出るもの。
希望である人もいれば、絶望である人もいるし、新鮮な愛である人も。もちろん他にもいろいろと。
愛だと大変だ。名高き芸術家たちは現代だと未成年となる異性を相手に、不倫をしたり、結婚したり。こどもを成したりもした。
綺麗事ぴかぴかな愛じゃない。もっとエネルギッシュで、もっとドロドロしているもの。ときに自分という人生を肯定するものであり、あるいは断絶を感じるほどに強く否定するもの。
なので愛といっても、ぼっちだったり、お金をせっせと貢ぐだけになっちゃったりもする。あるいは永遠に添い遂げる最初で最後の相手? ううん、テーマに対してなら、そういえるかも?
それはたぶん、春画なんかにも出てきていてさ?
ちびっちゃい子が、情事をぽけーっと眺めるシリーズがあったり。男の人のアレが、やったら大きかったりする。現代だと、お乳論争があるそうだ。おっきいのか、ちっちゃいのか。おっきい場合は、どこまでをありとするか。だけど北斎たちの時代の春画だと、下半身に集中してる。
モチーフを男性にするにせよ、女性にするにせよ、時代ごとに旬や流行りがあるそうだ。
女性のお乳に限らず、男性のアレのサイズも、けっこうばらつきがあるんだってさ。あと、象徴にどういう意味合いを見て取り、どういう風俗、どのような文化があるのかを読み取れるそう。解釈に過ぎないとしても、時代ごとに流行り廃りがあるなんて、なんか面白い。
有史以来、人にとって性愛の対象となる存在の形について、あれこれ語り合っていたなんて!
おかしくない? おかしろいじゃない? ね!
春画だと、これでもかっていうくらい生々しく描かれているけれど。西洋の美術だと、そこまでじゃない。宗教的な違いもあるのかもしれない。
混乱を招く欲を禁じて必要最低限になることを目指すのか。それとも、欲はあるものだから強く囚われるのでも、禁じる禁じないでもなく「ま、そういうもんだ!」と悟りを目指すのか。
細かく、人の生を追いかけるようにして、それぞれの美、それぞれのミューズを探り、学ぶとして、いったいどのような衝動がそこにあるのか調べてみるとか?
単一のテーマをおいても、だれもがまったく同じように捉えるなんてことはないからね!
神はいった! これで済むなら、だれも苦悩しない。そのとおりになって、反するなにかは起こりえない。いやいや、起こりえるが故に神はいったのだ。なんてな具合に、ばらけてく。釈迦のいう悟りも、当時の人たちは「それが救いなのか! ようし、悟るぞう!」と意気込み「苦行だああ! おれ、すっげえ修行したもんね!」「わたし、それよりすっげえから!」と盛りあがっちゃって「いやいや。そうじゃなくて!」と待ったをかけたみたいだし?
希望も絶望も、愛も恋も、数多の欲と願いが潜んでいて、みんなそれぞれに自分のミューズを探し求めた。ときには、現代からみたら「アウトぉ!」と警察に即通報まちがいなしなことさえした。たくさんの奥さんを迎えた人も、大勢の愛人がいた人も、逆にそういう相手に永遠に心を囚われて焦がれた人も。
対象が人だとして、多くあるだろうし?
それはときに神であり、神話であり、宗教であったし? 風景であり、場所であり、季節であったりする。
文章だけじゃない。
それは歌に。それは建築に。それは生き方に。それは学びに。
あらゆる形で築き上げられていく。
たくさんの人が、尊び、ときに囚われ、強く救われ、あるいは縛られ、祝われ、呪われながら過ごしている。長く成るもの。人の心に根を張り、なにかの形として実るもの。
短歌に私はハマりつつあるけど、より少ない文字数で描く俳句だと? 写生・写実の向きが強い印象が私にはあってさ。なにを描き、いかに彩度を高めるか、みたいなところが軸になってんのかなーって考える。逆に私がハマる短歌は、恋愛の感情が強く宿ったものが多くてさ?
それは出会いなのか。別れなのか。それとも、最中なのか。最中なら、どういう状況なのか。
いったい、そのどこに私は強く惹かれるのかに、私のミューズが隠れている気がする。
アニメのね? エウレカセブンにしても、フリップフラッパーズにしても、空をボードで泳ぐの。すごく気持ちよさそうで、めちゃめちゃ惹かれる。
連想するのは、サーフィン。
空を泳げたら、どれほど気持ちがいいだろう。
波に乗るように風に乗れたら? 楽しそうだ。
じゃあ、サーファーのだれもがまったく同じ感覚を、唯一無二のものを目指し、まったく同じように楽しんでいるのかな?
だれもがまるっきり同じ波を愛するのかな?
ど~お?
昭和元禄落語心中、アニメだけしか追えてないんだけどさ。
落語って、同じ内容をたくさんの人が語るじゃない?
まるっきり同じ内容なら、ひとりが語ればそれで済みそうなものじゃん? なんて、全力でケンカを売ってそうな問いだけど、答えはもちろんNO!
私の知識は浅いにもほどがあるので、その前提でのイメージなんだけどさ?
人には人の味がある。
アニメだと、語り部となる八雲さんと助六さんの落語を聞く機会が一期は多くてさ。八雲さんと助六さんとじゃ、人柄がちがう。そりゃ当然だ。人がちがうんだもの。おんなじことをおんなじようにやる必要なんか、まるでない。ちがう味を楽しませてくれよっていうのが、見てる私の欲だった。
けど八雲さんは助六さんの落語がめっぽう好きでさ? しかも面白いの。助六さんのは! 明朗闊達、流暢で小気味よくぽんぽんぽんと弾むの。打ってくれるし、響かせてくれる。でも八雲さんは、色と艶のある人だ。雨に濡れる花のような人だから、助六さんみたいに祭りの太鼓みたいな落語じゃどうにも響かない。
その味さえ、ある意味じゃあ自分のミューズ。あるいは自分の中に隠れた眠れるミューズ。
題材はなに? どこから生じるもの? どのように接するもの? どうやって描かれ、作りだされるもの?
みんなで共同でなにかを作ろうというとき、ミューズはどのように作りあげられるのかな?
旗を振る先導者の思い描くミューズを、みんなで作るの? それとも、みんなで「これにしよう」と決めて、そのとおりになっているかどうかを確認しながら作っていくの?
仮に後者の場合、現場で「こっちのほうがよくね?」となったら、それは採用する? しない? するにせよ、しないにせよ、それはなんで決まるのかな? その決め方には、どんな効果があるのかな? それはどこまで網羅されているのかな?
気になるな~!
味。滲み出るもの。
おダシはなあに?
人生。知識。技術。研鑽。痛みに、願いに、愛さえ。
すべて自分の内側に完結するの?
そんなことない。
まず、いま挙げたものぜんぶ、だれかと交流したり、いろんな場所に行ったりして刺激を得る。お出汁をとるものすべて、ひとりで生きてれば出てくるっていうものじゃあない。
刺激を得る対象だって、外にある。
じゃなきゃ結婚して、こどもがいて、なのに愛人つくったり、さらにちがう場所に引っ越して結婚したりもしないよなあ。
愛する土地も、情景もなければ、四季も関係なく、神さえモチーフにすることもない。
すべて自分個人に完結するのなら?
生まれて作って死ぬ。そんな生活になっていくんじゃない?
逆に言えば、そのときの自分が色濃く出る。
おまけに、作ってそこで自分は停滞するわけでもない。
ついでにいっちゃうなら、停滞を拒んで新たな出会いを求めちゃうくらい、自分の外側の変化はミューズとの出会いや関係性の変化に対して効果てきめんなんじゃない?
環境や場面、道具が変わらなければ、技法に走ってみたりする。カットバックドロップターンみたいなトリックもそうじゃない?
私たちは花を求める。
けれど、求め方は様々。
蝶のように蜜を求めるからかもしれない。生きるうえで必要な栄養が欲しくて、花を求めるのかもしれない。
あるいはこれまで述べてきたように自分の味として、作りたい花を求めるのかもしれない。
幼いぷちたちは、どちらだろう。
いまの私は、どちらだろう。
ううん。待って?
どちらも別に、一緒にやっていいし、別々にやっていいことだ。
いまの私の花の基準をぷちたちに押しつけるのは、おかしなことだ。私にできることといったら、いまのところはせいぜい、蜜を味わうことと、自分の味を探り、それを作りだすことまで。
もっと幅を。もっと手段を。
もっと。もっと。
それって朝と夜のお料理を作りながら、昼にあちこちのお店に通っては、作ることと食べることだけに囚われているかのよう。味について考えることはない。どんな食卓か、どんな食器がいいかを考えることでもない。ただただ、食べるか、作るだけ。
花にも、蜜にも、あらゆる環境が彩りを与えられる。
多ければいいわけでもない。
枯山水のような“花”の飾り方もある。
住まいを掃除するのも、なにかで溢れるのも、花。歩き方も。その時間の過ごし方もまた、花。
効率が花なら、非効率もまた、花だ。
変わることも花なら、変わらないこともまた花なんだ。
ならさ?
こどもの頃の私にとって、おうちはなんだったんだろう。
お母さんが作ってくれる料理は? お父さんがしてくれる肩車で見えた世界は? 抱きついて感じたぬくもりは? 真夏のタオルケットの涼しげな香りは。真冬に毛布をかけて、おやすみとなにがあってもかけてくれる声は。
その花は、なんだったんだろう。
補助輪を外した自転車の練習も。満員電車の匂いなんかはね除ける、お母さんの匂いも。お父さんがくれた珈琲の苦さも。
あの花は、いったいなんだったんだろう。
きっと、種類がたくさんある。
数えきれないくらいたくさんの花があって、それはときに私から根を伝って幸せを吸いあげる。代わりに私に痛みを与える。その花を取り除けそうにないとき「こういうものだから」と、だれかの根を放置する。ぷちたちに伸びた花さえ、放置してしまう。自分にしたように。
私には、それがとても恐ろしいんだ。
この子たちが風をボードで捉えて空を飛んだら?
こわくてこわくて仕方ない。
怪我をするんじゃないか。トリックを試して、その出来でケンカしないか。自分の安全基地を見失って、途方に暮れてしまいやしないか。そんなとき、なんの役にも立てないんじゃないか。
ぷちを育てる。
私を、育てる。
それをどうやればいいのか、高校二年生になるのに、私はちっともわからないままだ。
歌も。音も。言葉も。色も。熱も。触れ方も。歩き方も、過ごし方も。もうなにもかもさえ、たったひとつのことも満足には伝えられない。
伝わったことにして、それをレンガのひとつに変えて、積み上げていくことしかできない。
なんて無力なんだろう。
そう項垂れると、あまりに世界が巨大で広すぎて、深すぎて、鮮やかすぎて、暗すぎて、なにも見えない気持ちにさえなるんだ。
だから六花ちゃんが唱える呪文が心を撃ち抜いた。
空を飛ぶレントンを応援せずにはいられなかったし、巨大すぎる存在を相手に挑み続けるルルーシュを追いかけずにはいられなかった。けものフレンズでみんながともだちでいられる情景に惹かれずにはいられなかったし、ガンダムUCでパナージが「それでも」と挑む姿に目頭が熱くなったよ?
歩荷という仕事があるそうだ。
山を舞台にしたとき、手つかずの道さえ整備して、繋いでいく。山小屋に大事な物資を届ける。山を知り、山と生きる。山を行く人たちの生を、繋ぐ。
もし、そういう性質のものだとしたらさ?
じゃあ、私はぷちたちにとって、どんな歩荷であるのだろうと考える。
いっとき未来から訪れた双子ちゃんにとって、どうだろう。
先駆者のようであり。
あるいは整備士のようであり。
ときに配達人でもある。
冒険者だ。言うなれば。
なにもかも整っていて、しっかりしているように見えて、一日、一週間、一ヵ月、一年。積み重ねるほどに「そんなことはねえな!」って気づかされる。そんないまを、これからも過ごしていく。
このとき、私はどんな冒険者でいたいのだろう。
どんな花を求めるのかな? あるいは、どんな花を拒むのだろう。
そこに、私はどんな味を探し求めることができるのだろう。
どうやって調整するのかな? 調理方法は数あるよ?
いくつになっても続けられるし、いくつからでも辞められる。
盲目的に、誰かの通った道だけを進む人もいれば、立ち止まる人もいる。そのつもりでいたら、つまずいて、はいはいしながら前進する人、さがる人。いろいろだ。ジャンプしてみたら、月みたいに重力ちがうんじゃね? みたいな跳躍をする人もいれば「あれ? 十センチも飛んでなくね?」みたいな人もいる。
どんな人も、一瞬で変わる。いまが永遠なんじゃない。
外部を変えるのは有効。なので、倫理的にどうかはさておき、新たな出会いを求めちゃう人もいる。
肯定する気はさらさらないけれど、暴力に流れてしまう人さえいる。
略奪と侵略が花という時代も、かつてはあった。天下を取るために戦に出るのが花という時代も。武勲を立てて名をあげるのが花という時代さえ、あったのだ。
時代は変わる。移ろいゆく。
花もまた、変化していく。増えたり減ったり、彩りや形を変えたりしていくね? そんな花たちの中で変化せずに維持される、という変化の形もあるよね。
組み合わせによっても変わる。花束はアートだ。花は組み合わせによって、見栄えが大きく変わる。その数によっても。
人生それぞれ、印象深いできごとを料理してコースに仕立ててみせても、ひとつひとつ中身を変えたり、調理法を変えたら? 印象が変わる。おみそ汁の具材が変わるくらいの変化かも? それがすまし汁になるかもしれなければ、潮汁になるかもしれない。麺料理の麺がおそばからうどんになったり、きしめんになったり、ラーメンになったりするかも? それよりもっと単純に、お味噌が合わせ味噌から赤味噌か、白味噌になるかもね? 豆味噌、お米のお味噌。調べて料理に使ってみるほど、意外とちがうことに驚く。
お雑煮のおつゆも、地域によって、ご家庭によって違いがあるじゃない?
それくらい変わるものとしてみたらさ。
どんな花があればいいのか、ますます迷っちゃう。
唯一無二の答えがあって、それをぱぱっと短く教えてくれる人がいて、それを真似っこしてれば楽ちんなら? それで易しく済ませたくもなる。余裕がないときなんかは、特にそうだ。
いまのをこれでもかと繰り返す理由は単純。
それじゃだめだと思っているからだ。
どんな意味をもつのか、花と付き合えるようになっていかなきゃあ、わからない。
易しく済ませていたら、わかることも減っていく。世界がどんどん単純に見えていく。そんなことないのにね? そんなふうに済ませていたら、もったいないことばかりなのにさ!
ショートカットだけで済ませるだなんて!
囚われちゃうし、執着しちゃう。
楽だからなー。一見さ。できないときさえ思考をショートカット相手にして済ませられるから。
おかげでまさにいま、テンパっている。
「ぎゅいいいいん!」
「ぶんぶんぶん!」
「「「 うぇいうぇいうぇい! 」」」
「ひゃっほう!」
ぷちがまたがるのは、赤い出目金マシン。空中に浮かぶ、デフォルメされまくったふわもこ質感のぬいぐるみ飛行機。コックピットをつけてあって、中はブレーキのついたハンドルと、ペダルをつけた。こげば速度が出るし、ハンドルについたブレーキレバーを引けば減速する。
ぽよんぽよんの質感なので、ぶつかってもあまり衝撃はない、はず。
速度もあまり出ないようにした。
出目金マシンのお目々から、レーザービームが出る。ハンドルの中心に発射ボタンを必殺技ボタンをつけて、どちらも押せば出る。必殺技は、ひとまずレーザーの出方だけ反応するようにした。
すべて化け術の応用だ。
金色を化かしてでっちあげ、もとい。作りあげたマシンなので、私の霊子がベースになっている。なもんだから、どんなビームの当て方をしても、マシンの中で「やられたー!」「がんばれー!」っていう私の声が出るだけにしてある。
安全な乗り物になるよう心懸けたから、どんなにぷちたちが盛りあがっても、危ないことにはなるまいと思ったんだ。
すると、それを逆手に取って、みんなして空中でぶつかりあって大興奮。
ぽよんと弾けるようにぶつかる感触が気に入ったみたい。
ストイックにスピードを追求して、ペダルをこれでもかって漕いでる子もいるし? 空から地面に向けて走る子もいれば、地面を相手にぶつかって跳ねる飛び方を試す子もいる。
出目金マシンの尾から金色が噴き出て、あちこちに舞い散る。
みんなして自由で激しくて、見ている私はこわくてこわくて仕方ない。
ビームの打ち合いを試す子が出てきたら、今度は「あっちでかくれんぼしながらやろー」って提案する子が出てきて、私が止める間もなく、あれこれと試し始める。
そして、誰かしらが「ママ、早く行くよ!」と私にぶつかってくるのだ。痛くないように作ったけど、それでも落ちつかないよ! そうでなくても、たまにみてみてって言ってきたり、なんで見てないのって怒ってきたりするんだからさ。気が抜けない!
みんなの遊ぶさまを見ながら、同じような遊びをできるだろうかと問う。
やってみなきゃあ、わからない。
なのに、こわくてやらないことばかり増えてません?
こわいのは、どうして?
こわがり屋さんの花が咲いているのなら、その根は私の心のなにを栄養に育っているのかな?
つづく!




