第千六百八十三話
土曜日がくる。なのに心がさわぐ。
正確にはもちろん曜日に足は生えないし、とことこ歩いてこない。
もしも曜日が擬人化されたら? 月曜日のとげとげしさ、えげつなさそう。
人によるかな?
サービス業や飲食業のみなさんの土日祝日それぞれのピリピリ度、かなりのものかも。これもやっぱり、人によるかも。
ぷちの親になると決めたいま、いろいろと想像すると?
親のみなさんの休祝日の疲労度、半端なさそう。夏休みなんかさ? たいへんだよね。ずっといるもんね? 親御さんによってちがう、なんて迂闊に言うと、それはそれで問題だ。地雷原。みんなちがって、それぞれの天国と地獄を見ながら過ごしているもの。そこんところは、こどもも一緒。
小学校の頃、一度だけかな? 聞いたことがあるんだ。クラスの子が、ゴールデンウィークも夏休みも、長い休みがだいきらいって。当時はぜんぜんぴんとこなかった。
いまの自分なりに背景を想像すると?
担任教師という立場でなにかできたりしないよなあ。
無理だって。というより、するべきじゃないって。
餅は餅屋。専門家の連携。福祉と繋がる。もちろん、お役所のことね? 宗教じゃないですよーって近づいてくるのは、だいたい危ないのよーって話でもある。
だけど、心が弱っているときは縋りたくなる心理もある。カモネギ狙いの人たちは、その心理を突くべく近づいてくる。で、誘ってくる。こどもの育て方、相談に乗りますよーとか。みんなで集まってサークル活動してるんですよーとかって。
そんなの学問でも福祉でもなんでもない。
だけど、そういう集団があるのも確か。心のくたびれは判断力がぐんと落ちるから、自分たちを守るためにも自衛の術はいろいろ確保しておきたい。
声をかけてくるんだって! おっかないなー。
なんでそんなこと考えるかって?
世界は私が知っているより、いろんないいことやしんどいこと、やなことやたのしいことがやまほどあるんだなーって思ってさ。
最近、ちょこちょこ辞書の引用をしてる。
なんでかって、いるのだ。みょーな解釈をつける人。
なんだろ。バトル漫画で、最強の田中みたいなタイトルを想像するのだ。主人公はもちろん田中。ありという田中という田中がつよつよで、最強の田中を決めるために戦いを繰り広げるとして。田中のなにがどうすごい、みたいな話をする。理想的な田中とはなにか。田中を極める生活スタイルとはなにか。そんなノリ。田中を追求するバトル。弱い田中は排除され、田中でなければ田中になる努力をする、みたいなの。
荒唐無稽でへんてこで、ついでにいえば売れる道筋も思い浮かばない例えをあえてしたけどさ?
もし「最強の田中」を「理想の子育て」に言い換えたら、どれほどえぐいことになるだろう。「我が国の家族制度」でもいいし、明治維新あたりに流行ってた「最強の日の本」なんかでもいいんだけど。途端にやばそうな匂いがぷんぷんしてきません?
自分を救うなにかへの溺愛も、自分か、あるいはだれかに向かう支配も、どちらもおっかないよなー。それにどちらかが上か下かに定まらなければならない、みたいなのもね? きつい。
きついけど、そういう枠組みに生きている人もいるのが事実でさ?
小学校の頃には、想像さえしなかった。
いろんな土曜日があるなあ。
夏休みに対しても、そう。
お祭りをする。そう決めた。日曜日に寮に戻ってくるかっていう確認兼お誘いを受けた。まさに宝島で私が転化を試すそのときが迫っているのだ。
おうちでみんなでUNOをして、お父さんの提案でゲーム合戦をして、お昼にはそうめんをいただく。おばあちゃんたちも今日は宝島に行くらしい。美希さんの提案らしいよ?
うちもうちでご一緒してもいいんだけどね。
宝島と東京観光をしたら、今日にもおばあちゃんたちは帰るみたい。そもそも、うちに泊まることを想定していない時点で、まだまだ緊張状態にあるのは明白。
あと、お母さんが妊娠中なので、様子見にはくるけど、心に障らないよう、ほどほどで、と考えたのかもしれない。私の件が諸々の後押しになって、顔を見にきたついでに、お母さんに言っていた。トウヤのときも、満足になにもできなかったから、今度こそはって。
お父さんによれば、お父さん伝いに何度か打診はしてたんだって。トウヤのときも。私を育てながら苦労していた頃も。なにせ、精神的に弱って誘いをかけてる危ない人たちがたくさんいるご時世は昔からずうっと続いているみたいなので、困ったときには頼ってくれと。相当、不器用な言い回しでお父さんも昔、余裕がなくて気が回らなかったそう。
お父さんに余裕が出てきて、お母さんに提案したら、もうとっくにどうにもならないくらいにお母さんが参っていてさ。お母さんとおばあちゃんの感情がもう、当の二人も含めてお手上げ状態。トウヤのときにはお父さんなりに、いろいろとお願いしたり、橋渡しをしたりと試みた。
だからトウヤが育つにつれて、私はおばあちゃんちに行けるようになったのだとか。
前に聞いた話とちがうような気がする。
さりとて、お父さんもすべては説明できないだろうし? しにくいよなあ。娘に言いにくい話題な気がするもの。
そうするとね?
今度は別の悩みが生じる。
ぷちたちに、なにをどう伝えよう。
トシさんが私にリクエストする歌の歌詞に「いい奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない」っていうのがあってさ?
お姫さまが王子さまと幸せに結ばれました、なアニメの映画のように、どんな状況でも明るく笑って歌ってみせる、なんていうノリで過ごすにはしんどくて。耐えればいいことが起きるわけでもないし? 魔法使いもいなければ、人生を切り開く言葉なんて都合のいいものもない。
あーる・いーず・うぇーる! は大好きな言葉だし、大好きな映画だけど、あの言葉にしたって自分のこわがる心をなだめて「さて、やるぞ」と解決に取り組むわけで、ランチョーと一緒につるんでいたファルハーンもラージューも成績があがったわけじゃない。
がんばれば「成績があがって容姿も素敵になってセンスもよくなって、パートナーと出会えて幸せになれました!」ってなるものじゃない。苦労があれば、努力ができて、素敵な結果を得られるはず! なんて、ないない。まさか!
トシさんの教えてくれた曲にはね? いいことばかりじゃなくて、悪いことばかりでもなくて。そんな感じの歌詞もあった。
よくなる! 悪くなる! 最高! 最悪!
それってどんなの? これこれこうで、こういう感じで~って並べ立ててさ?
いやぁなほうから、いいほうになるためには、これこれこういうことをしましょうね? と並べ立てていく。
こうすれば「いい」から「そのようにせよ」と言うのだ。
教えに「従って」動く。
あるいは教えて「従わせて」動くことを求める。
かくして「神は言った」となるか「我は言った」となる。
さらに言い換えるなら「親が言った」とか「すごい人が言った」となる。
めちゃくちゃ単純化して語っているので鵜呑みにされちゃ困るけどね?
突きつめていくと、そういう行動規範や思想規範にまでたどりつく。
そんなのはごめんだぞ、と思って、一緒に考えてみよっか、と持ちかける。
対話を試みる。
機会を通じて、自分が露わになる。
自分がどう感じ、どう考えているのかを探るとき、自分という人を知っていく。
もちろん、相手についても知っていく。
だけど、その手のコミュニケーションがそもそも好ましいと思うかどうかも人によってちがいがある。知りたいかどうかもね?
私は「従え」なんて無理強いされても到底、承知できない。したくない。けれど、それを好ましく思う人たちがいるのも事実だ。それはなぜかを掘り下げると、内容が濃くなるほど、人によってちがいが生じる部分もまた増えていくんだろうなあと思うんだけどさ?
求める行為のひとつひとつに対する「できる」度合いや「できない」度合いなんかもある。
ウォーキングデッドのニーガンは「できる」の度合いを拡充するべく、いろんな暴力を振るっていた。飴と鞭さえ、ときに使って。フィクションはいろんなものに学んでいる。とりわけ歴史はいい教科書になるのだろう。
ナチスやクメール・ルージュのような虐殺までエスカレートした集団もいれば、農民は幕府に従うべしと過剰な税を取り立てた時期もあって。もっともっとたくさんの例を、学べば学ぶほど知っていくのだろう。
できる、の側にいれば利が回ってくる。利用できる。
そういうケースもざらにある。
下手に「待った」をかけるくらいなら? 利用しちゃえばいい。
変えるのも変わるのも、時間がかかる。
思うとおりにいくとも限らないのだ。
賢く生きるんだよぉ!
いかにも非効率的だろ?
考えればわかるじゃん。
なので「できる」に参加するだけで、見て見ぬ振りをするというケースもある。
そりゃあ「ナチスが最初、共産主義者を攻撃したとき」なんて言葉が出てくるわけで。
もちろん当たり前なことなんだけど、目先の効率は、長期的な非効率に繋がることだってざらにある。ついでにいえば? それが惨たらしい結果を生むこともまた、往々にしてある。
なんだけど、ね。
じゃあ、どうする?
どうしたらいいんだろう。
具体的になにが浮かぶ?
わからない。
なにせ、ぷちたちと交渉したり、対話したりする時点で経験値のなさがもう!
どうしたらいいのかわからないことだらけ。
目先の「わかる」に「従いたくなる」。目先の「こうなさい」にははーっ! と「従いたくなる」んだ。
さすがにきわどい人の発言だの、やばい集団だのの言葉は信用できないぞ? じゃあ、信用できそうな人の「教え」に「従え」! それはだれ? どういう人?
紆余曲折の結果として「神は言った」や「我は言った」に辿りつかない?
メディアの権威だの、身内で評判がいい有名人だの、本にプリントされた著名人の自画像が「我は言った」の我ポジションについてない?
だいじょぶ?
自分が我ポジになってない? あるいは、なろうとしてません?
自分ならいいんじゃないかって? いやあ。それはどうかなあ。
だって「私は言った! 故に私はそうすべき! 撤回はない!」って、やばくない?
間違えることもあれば、知らないことや気づかないことまみれなのに。自分は常に最良でも備えがあるでもないのに。「撤回はない!」なんて。それはさあ。問題あるじゃんね?
わからないし、やらかすこともあれば、失敗だってする。知らないことがやまほどあるよね。そっちのほうが多いなあ。
大辞林の引用をちょこっとしたけど、中型辞書だと他に広辞苑や大辞泉があるでしょ? さらには日本国語大辞典があって。あれは二十三万円くらい? するんだよね。
全部読んで理解できる? あるいは作る側になって、なにを載せ、どのように作っていくかの判断と、メリットデメリットなんかを説明できる?
むり!
わからん!
テレビ番組の知らない世界に出そうな、日本語の国語辞典コレクターさんがいたとしたら? すべての版の変遷を熱くオタトークしてくれるかも?
その領域で日本語を読み解けるかっていったら? 無理!
タマちゃんが聞かせてくれたじゃない? 夜に。百人一首! そこから連想するとさ? たとえば、かるたのうまい人って上の句で取るでしょ? 漫画ちはやふるの競技かるただと、もうね。超絶上級者の世界。一文字目で取るって、なに! 半端ない……すごい。
ゲーム大会のあとは、お母さんが読み手になって、かるたもやったけどね?
ぷちたち大苦戦!
わあわあ盛りあがる。お父さんと私で判定のお手伝い。
できれば一枚ごとに、どんな内容なのかを話したい。お父さんもお母さんも得意だけど、私はふたりほど内容が頭に入ってない。
短歌。五七五七七。合わせて三十一字。だけど百人一首は、百首のうち、実に三十首が字あまりなのだそう。ネットの記事でチラ見したくらいの知識度、浅瀬よりもずっと手前な私の理解度はゼロに近い。
そういうところでもね?
わからん!
だけど、わからないから、もうだめってものじゃあない。
先がある。
その先って、わかるで終わり?
たとえばさ。
夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに月やどるらむ。
見た。読んだ。はい知った! ってことになる? ならないよね。
そもそも、わかるってどんな状態なのかな?
さっきの百人一首の字余りの数。たとえば私はネットで見て「へえ。三十首が字余りなんだー」って思いはしたけど、自分で丁寧に数えてみたわけじゃない。そこまでは知らない。
じゃあ自分で数えたら、もうじゅうぶん?
そんなことはないよね。
きっとさ? 好きなら好きで、字余りになったのはどうしてかまで考えていそうじゃない?
もちろん、詠んだ人はもういないのだし、仮にいて話せたとして、当時の、その瞬間の気持ちを一番つよく感じ、その瞬間の思いを一番つよく描いたのは、詠んだ瞬間かもしれず。あるいは、あとからふり返って思うこともありそうで。
それって、やっぱり、確かめようがない。
じゃあもうわからなくて、考えるのも感じるのも意味がない? 百人一首として残ればもうじゅうぶん? まさか! そんな、とんでもない!
だけど当時の人の気持ちなんてわからないんでしょ? じゃあ、わかるってなに? わからないものなら、意味がなくて、もうそこに価値はない? 繰り返す。まさか、とんでもない。
結果が見えていて、わかることが想定されていることにしか価値がないのだとしたら、そこにはもう進歩もなにも望めない。また、臨むことがなくなっていく。どんどんね。
ところでさ。
人はパンのみを食べて生きるにあらず。
バラを求める。
暇と退屈の倫理学という本の帯にある言葉だ。
この本ではさ? 人がそもそも旅をして生きているスタイルから、定住するスタイルに変わって、そこでの変化に眠る欲求の変遷について語っているんだけどさ?
お腹が空く。ならご飯を食べればいい。それで終わり?
毎日、白いお米だけあればいい? ご飯のおかずもお汁も一切なしの、お米だけで。
栄養が偏って無理。味や食感に飽きて無理。お米アレルギーの人は生きられないし? 無理ってなった人も他に選択肢がなくて生きられない。
そういう人はもう無理だから、諦めればいい? まさか! とんでもない!
果実を食べる。野菜を食べる。お肉もお魚も食べる。おいしいものを求める。あれこれと工夫をする。いろいろと試行錯誤をする。中にはお腹を壊しちゃったり、試行錯誤を経て生まれた工程や手段を学ぶ手間が増えていく。
そのとき、味の変化や工程の変更を好むだろうか。あるいは嫌うだろうか。人によって差が出るだろう。なので地域をこえて、国民的な料理が他国に移動したときに起きる変化は、両者にとって、ときに新鮮、ときに奇妙に思えるほどになる。
最初にお肉を焼いた人のそれが答えで、お肉を焼くまでが「わかる」のだとしたら?
私たちはステーキを知らず、ハンバーグも知らず「お肉を焼いたもの」をありがたがるか、きらうかしてたんだろうなあ。
動物のお肉はおおむね、一定の温度を超えて加熱されると堅くなってしまうことも知られることはなかったろうし? 加熱調理の可能性だって、探ろうとしなかっただろう。
お肉は焼くのが答え、じゃあ煮込み料理はできなかっただろうし?
私たちはそれじゃあ満足できないんです。
だけど「焼けばいいや」で済ませたいときもあるから、なんかねー! わがままな生きものなんですよ。欲することには意味がある。あるいは前提があって、あるいは先がある。
その理解を深めようっていうのが、わかろうとするってことで。わかるっていうのは、その段階ごとに生じる「なるほど、ふむ」のひとつに過ぎないんだろうなあって思うわけ。
すると今度は、問いが増える。
私には、わからないことだらけだ。
なのに、ぷちたちとどう接していけばいいのかな?
尻尾の穴はどうすればいいのかな?
わかるわけないぞ? いますぐになんて! とても無理だ。
わかろう、わからなきゃと欲するとき、求めが危急のときほど、早く穴を埋めたくなる。仮にそれが傷ついた瞬間だとしたら、痛みを和らげたくなる。痒くなった瞬間なら、掻きたくなる。
高熱が出て、もうろくに動けない経験があるとさ? あるいは、かなりのやらかしをして、だれかとケンカしたり、ぼっちに陥った経験があるとさ? もうどうにもならないつらさや痛みが予測できて、それを回避したくてたまらなくて、すぐに解決したくなる。
だけど、えらいことになるほど、その対処もえらいことになりがちだ。
わかろうとする。
それを維持できるように備える。
急いで、ただちに、なんとかしなきゃ。ASAP! そういう状況を長く続けないで、安定させながら、わかろうとする状態を楽しめるようにする。
だれかの「我は言った」は参考程度にとどめて。
ちゃんと自分で感じて、考えて、学んでいけるようにするために。
わかろうとするために縮小するんじゃなく。
わかろうとする動きを元気にできるように、傷ついたら治療するし、くたびれたら休むし、頼ったほうがいいときにはしかるべき筋を頼る。そのためには? そういう筋の信頼性が高いのがいい。ずっといい。
役所や省庁、公共に求めるし、そういう行いをしてもらわないとしんどい。
だけどね?
ぷちたちみたいな式神も。
士道誠心に通う私たちみたいな隔離世の侍や刀鍛冶も。
そのへん正直、弱いんだ。求められる場所がなくて。
隔離世協会は、だって、公的な機関じゃない……のかな?
少なくともシュウさんもウィザードも教授でさえも、ろくに頼れる先がなかった。
黒輪廻も、黒い私が自分の次元に凱旋するための準備組織だったわけで。それじゃあ教授は救われず。ワトソンくんが所属してる教団も、ユニスちゃんが縁をもつ魔術師協会も、わりと身内に閉じたコミュニティで。
そこには、いろんな「ありき」が潜んでいるような気がしてしまう。
こわいのかなー。
お母さんとおばあちゃんみたいに。
わかろうとする動きでさえ、もうなんか熱でちゃうほど大変になっちゃってるのかな?
ぷちたちのだれかがケンカしたり、泣いたりするだけで、私はなるよ? 熱でちゃうほど大変な私に、いくらでもなる。
直ちにどうにかするためのなにかをわかりたくなる。あるいはもっと余裕がないと、いますぐわからせたくなる。
きみが騒ぐと私が大変なの! って。
これがどんなに横暴か。
落ちついているときにはちゃんとわかるんだ。
だけど、ショックを受けると、わからなくなる。
それって、どれくらいわかっていることになるの?
さっぱりわからないぞ?
『人をもし、人も恨めし、あぢきなく』
世を思ふゆえに物思ふ身は。
いいタイミングでどんぴしゃなのくれるね? タマちゃんは!
『味わい深きときゆえな』
だね。ぷちたちもいつか、短歌に思いを巡らせるときがくるのかな。
ほんと、あじきなしと思えちゃうときがある。気がしてるだけかな。わからないや。
尻尾の穴を初めて見たときには、小野小町の一首を浮かべたよ?
花の色はうつりにけりな、いたづらに。わが身世にふるながめせしまに。
金色さえ曇ってしまったような思いさえ重ねた。
季節がひとつ巡り、気づけば尻尾も馴染んで、いずれ花散るように朽ちてしまうようで。
桜に重ねた夢も散れば青々とした葉が、枝葉の元を辿れば見える頼もしい幹が、根が、いまも力強く生きているというのに。
目を奪われること、気を散らされることにばかり意識が向いてしまって。
あぢきなきことなんです。
休みなのに心騒ぐ土曜日だから?
それとも「あぢきなしとわかったなら、さあ次だ!」と踏ん切りがついたから?
どっちかな~?
ただ、おとといよりもきのう、きのうよりもきょう、すこしずつわかってきたことがあるの。
お母さんの大好きな「クリスマスなんていらないくらい日々が愛のかたまり」って歌詞がしみるくらい毎日を楽しめちゃえるように、わかろうとしたいよ。
世界を知る真理への樹木は根を張り、枝葉を伸ばし、先へ先へ、太く、強く、艶やかに生きている。ひとりの一生で追い切れないほど育っている。季節がめぐり、生存戦略を探りながら育ち続ける。営みによって得られることは利益だけに限らない。
成長をどこまで見ていられるか、どこまで知れるのかもわからない。
私にできることがあるとしたら、自分のことくらい。
私に見れるものがあるとしたら、身の回りのことくらい。
それをあぢきなしと感じないでもないけれど。
春は曙。夏は夜。秋は夕暮れ。冬はつとめて。
いまは夏。
蛍を見にいきたい。星空の暴力的な光に見惚れたい。大輪の花火を見たいし? 夏の美味って、いろいろあるじゃない? 海で遊ぶのも、山の涼しさを全身に浴びるのもいい。
そういうように、知っていきたい。わかろうとしたいよ。たくさんのことを。
私はどう育つのだろう。
ぷちたちはどう育つのだろう。
そばで、わかろうとしていたいよ。
わかって終わりだなんて、とんでもない!
もったいないじゃない?
つづく!




