シェヘラザードの為に
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広大な国土を誇るシバールの中心地たるヘラート。その中央に、聖帝が住まう美花宮殿がある。
宮殿の広さは、東西に一ファルサフ(約五キロ)、南北に半ファルサフ(約二・五キロ)で、三層から成り立っていた。
まず、最下層である第三層は、上級の市民や守護騎士が住み、巨大な寺院がある。故に、第三層の門は普段から開け放たれ、全てのヘラート市民が入ることの出来る宮殿の表層だ。
第二層は、主に庭園が占める。
だが、有事の際、この場所には守護騎士を配置して、最終防衛線となるのだ。ゆえに、洗練された細工の施された塔がいくつかあるが、それらは実の所、軍事施設なのである。
最上層である第一層に、聖帝をはじめ、宮廷人や王達の住居が建ち並ぶ。全体的に半球形の屋根を持つ巨大な建物群であり、回廊にはアーチ型の柱が並んでいた。
その中でも最も華美を極めたのは、聖帝専用の謁見の間だろう。大理石の床は磨きぬかれ、中央には水盤すらあった。加えて、色鮮やかなタペストリーが壁一面を覆い、先帝達の偉業を称えている。
だが、その謁見の間には今、座すべき聖帝の姿は無かった。
今、この広大な帝国を実質的に指導しているのは、大将軍たるシェヘラザードである。
彼女は、空席となっている玉座の右に立ち、眼下に跪く武官の報告を聞いていた。
「ナセル王、ご謀反にございます!」
同じく、空席の玉座の左手に立つウルージは、上唇を”わなわな”と震わせていた。
「な、な、あの不埒者! しょ、所詮はテュルク人よ! そ、即刻ナセルめの首を、陛下の御前にっ!」
唾を飛ばし、文武百官の前で慄くウルージは、実に無様であった。
武官が謁見の間において報告を述べる前に、大よその者は、ことの概要を知っている。あくまでも、謁見の間において報告をさせ、対処を述べる事は体裁だった。
だから皆、ナセルの大義名分を知っている。
――君側の奸、ウルージを討つ――
だが、少なくとも、ウルージは奸臣等ではない。しかし、小悪党である事も間違いない事実だった。そして、その事は、謁見の間に居並ぶ武官達ならば皆、知っている。
だから、皆の表情は、大体が呆れ顔だった。
ウルージの為に戦うなど、馬鹿馬鹿しいと思ってしまう。さらに言えば、このような状況下ですら姿を見せない聖帝フェリドゥーンにも、愛想が尽きそうだったのだ。
フェリドゥーンは、齢三百二十歳となる半妖精。その娘たるシェヘラザードは、二百歳である。
フェリドゥーンも百年前までは善良で、英明な君主であったのだ。しかし百年前、シェヘラザードの母であるナディーヤを失ってから、人が変わったように酒色に溺れるようになった。
シェヘラザードの母は、純血の妖精であったのだから、当然ながら、その死は不慮のモノである。それも、後宮内の権力闘争に敗れた果てのこと。
フェリドゥーンとシェヘラザードは、痛く傷ついた。
だが――
その傷を癒す為に取った二人の行動は、真逆だったのだ。
フェリドゥーンは、ただひたすら後宮に篭った。何故なら、ナディーヤを失った理由が、自身の寵愛を失った寵姫達の復讐だと思ったからだ。以後、皆を平等に愛せば、同じ事は起こるまい、と、考えたのである。
しかしシェヘラザードはその時、人と妖精の大いなる隔たりを理解した。
若さを失わない妖精が宮廷に留まる事は、人にとって、絶望を意味するのではないか。何故なら、人の身では、妖精の美貌に決して敵わない。まして、人は老化するのだから、尚更だろう。
人の娘の絶望が、母を殺したのだとシェヘラザードは理解していた。
その運命は、いずれ自分をも襲うだろう――そう考えたシェヘラザードは、後宮に留まるよりも、権力を手に入れる道を志向した。
後宮に留まれば、いずれ誰かの後宮に入り、母と同じ運命を辿る。それは避けたかったのだ。
だが、同じく宮廷に留まるにしても、武力があれば、自身が恐れられる存在となる。ならば、その方が安全ではないか。
そして自身の武力を手に入れたシェヘラザードは、三十年前にシバール軍最高の地位に上り詰めたのだ。
こうして、大将軍シェヘラザードが誕生した。
――とはいえシェヘラザードは、至尊の冠を望んでいる訳ではない。
基本的に彼女は、政略の道具として人の妻になる事を拒み、己の身を守っているだけなのだ。無論、気弱な父を気にかけてもいたが、つまるところ、彼女は今以上の地位を望んでいなかった。
だから、ウルージは、そんな彼女を篭絡しようと近づいたのだ。
彼女を妻とすれば、聖帝の地位は望めなくとも、シバールの筆頭王にはなれるかもしれないのだから。
であれば、或いはウルージを君側の奸と呼んでも、あながち間違っていないのかもしれない。
この時、謁見の間に居並ぶ文武百官は、シェヘラザードの一挙一動に注目していた。
もしもウルージを処断してしまえば、ナセルに大義は無くなるのだ。いっそ、それが正解なのではないか、と、居並ぶ者の半数以上が考えていた。
「迎撃する。軍は、私自らが率いる! アフラ! そなたも一軍を率いよ!」
しかし、シェヘラザードはウルージを処断せず、軍を動かしナセルと戦う道を選んだ。
結局、ウルージを処断しても、問題を先延ばしにするだけの事で、今後、ナセルの専横を許す事になる。
専横の先には、簒奪があるだろう。
帝位を簒奪されれば、父はどうなるであろうか? 当然、殺される。
父とナセルを比べて、どう贔屓目に見てもナセルが勝っていると思うシェヘラザードは、だからこそ、ナセルを倒したかったのだ。
だが、これを父に対する愛情だとは、シェヘラザードは考えない。
母も守れず、その後、民をも見捨てた父を、シェヘラザードは決して許してはいないのだ。それでも、父を守るのは、自身の立場を守る為だと、彼女は自らに言い聞かせていた。
そんな内面をおくびにも出さず、右手を高く掲げると、純白の絹衣が僅かにはだけて、白い腕が顕になったシェヘラザード。その姿に見惚れた武将たちが、彼女の宣言に追従する。
「逆臣ナセル、誅すべし! シェヘラザードさまの御為に!」
桃色の小さな口元を綻ばせて、自身の巻毛を軽く指に絡めたシェヘラザード。だが、黒髪の内側から現われたのは、人間として整った、形の良い耳である。
シェヘラザードは、半妖精と妖精の間に生まれながら、その種族最大の特徴を魔法によって隠している。
あくまでも人前では、自身が妖精である事を示さないよう、徹底した配慮をしているシェヘラザードだった。
◆◆
「シェヘラザードさまが出陣なされたのじゃ! なあ、わしは本当に動かんで良いのか? ネフェルカーラ、答えよ! なぁ! わしは、わしはっ!」
自身の執務室をぐるぐると回るファルナーズは、その中心にいる黒髪緑眼の女魔術師に向けて言う。
シャムシールに、あれ程「動くな」と念を押されておきながら、体の芯からウズウズしているのだ。
とはいえ、その様を見てもネフェルカーラは動じない。
「ダメなものはダメ」
ピシャリと言ったネフェルカーラは、現在マディーナにおいて行政官と呼ばれる官職だ。
これは、政治的にはマディーナにおける第二位であるが、それゆえに、決してファルナーズの軍事行動を掣肘出来る立場ではない。
それでも、ネフェルカーラの言葉に、ファルナーズは歯噛みしていた。
何故か、ネフェルカーラには逆らえないファルナーズである。
「ファルー、演習は終わったよー。
でもねぇ、やっぱりボクがウィンドストームに乗っちゃうと、どうしたってボクの軍が過剰戦力になるねぇ。他と差がつき過ぎて、訓練にもならないよぉ」
そんな時に、執務室を警護する奴隷騎士の制止さえ無視して入室してきた者は、ファルナーズ軍における万人将筆頭たるハールーン。
彼は、白い短衣にやはり白のズボンを身に着けている。腰帯に差した曲刀の鞘も、金細工が施されており、ほんの数ヶ月前の身なりから比べれば、雲泥の差で、まさに貴公子然としていた。
「ええい、ならばハールーン! 明日はお前の率いる一万と、残りの四万で対戦すればよかろうがっ!」
「いやぁ、今日、それでやって勝っちゃったんだけどぉ? やっぱり、ファルー、キミが軍を率いないと、全然ダメだよぉ」
「……ふむ」
ハールーンの言葉に、フェルナーズの足が止まる。何かを思いついたかのように、手を”ポン”と打っていた。
ネフェルカーラは相変わらず部屋の中央に座り、口元に掛かる薄布を捲って、つまらなそうに茶を啜っている。
「では、ネフェルカーラ、こうせぬか?
わしは動かぬ。されど、シェヘラザードさまに万が一の事あらば、シバールが滅ぶ。ゆえに、ハールーンの一万のみ、ヘラートへ派遣する」
「却下。
そもそもヘラートへ着く前に、オロンテスがありましょう。
ナセルは、各都市に五万の軍を残している。そこをハールーンが一万を率いて通過しようとするなど、餌にしかなりませぬ。
……ここは、シャムシールの帰還を待つほかありませぬな」
ネフェルカーラの口元を覆う黒絹が、その語調に合わせて僅かに揺れる。
ネフェルカーラの下には、日々シャムシールからの連絡が入っていた。そこには、闇隊から齎される、あらゆる最新情報も含まれているのだ。
それを鑑みれば、決してファルナーズはマディーナを動くべきではない。
いざ動いてしまえば、ネフェルカーラといえども彼女を守りきれるか、不安なのだ。
それに、今、このマディーナにおける最高戦力は自身とハールーン。ならば、ハールーンを送り出す事も得策とは言えなかった。
だが、ファルナーズとしては、そこまで割り切れるものではないのだろう。
銀髪の小鬼は、シェヘラザードを敬愛していた。だから、彼女の危機に、自身が何もしない、という事が出来ないのだ。
「ボクも、シャムシールが戻るのを待つ方が良いと思うよぉ。それに、シェヘラザードさまが敗れてシバールが滅びるなら、それも面白いんじゃないかなぁ」
腕組みをすると、ハールーンの褐色の肩が盛り上がる。彼の着ている服には袖が無い。
最近のハールーンは、鎧さえ着ようとしていなかった。
本人なりの理由としては、力の強いテュルク人に対しては、そもそもどんな重装備も引き裂かれるのだから意味がないのだし、だったら、身軽な方が良い。魔法に対しては、鎧よりも防御魔法を付与した服の方が効果的、というものである。
考えてみればネフェルカーラが鎧を身に着けない理由と同じなのではあるが、彼の部下から見れば、この考えは異常だし、軽侮の対象になり得る。
しかし、ハールーンは竜騎士になる事により、それさえも畏怖に変えたのだ。どうやらこの男もシャムシールと同様に、妙な所で運が良いらしい。
「なっ、なっ! シバールが滅びても良いと申すか! ハールーン!」
そんなハールーンの言葉に、細眉を吊り上げたファルナーズ。彼女は勢いよく、ハールーンに掴みかかった。
緑眼の魔術師は、そっと目を細め、オレンジ髪の万人将に同意を示しているようだ。
「聖帝フェリドゥーンに帝国を統治する意志なし。これはもはや周知のこと。だからこそ、ナセルは立ったのでしょう。また、このことは、亡きサーリフも理解していたはず」
ネフェルカーラの静かな声が、響いた。
視線を下に下ろしたファルナーズが、赤い瞳に怒気を宿す。
「ネフェルカーラっ! いくらお前でもっ……! 第一、王になるには帝国がなければならぬではないか! 父上が、聖帝を否定するなどっ!」
「違うよ、ファル。王に必要なのは、民と奴隷騎士、そして、彼等に愛された聖帝だよぉ」
「そう、そしてそれは、もはやフェリドゥーンでは無い。だからこそサーリフは、いや、エルミナーズ……貴女の母上は変革を求めていたのだ。わかるかな? ファルナーズ」
ファルナーズは、もとより決して暗愚ではない。
どちらかと言えば、父であるサーリフよりも聡明だった。ゆえに、ハールーンとネフェルカーラの言葉の意味を理解したのだ。
ナセルと戦わない理由は、敗北を恐れてのことだけではない。幾重にも重なる理由が存在するのだ。そして、その理由を、ファルナーズは解りたくなかった。
今まで掴んでいたハールーンの胸倉から右手を離すと、ファルナーズは溜息をついた。
「わしは、聖帝になろうなどと、大それた野心など持たぬ。もしも母上が、父上にそこまでを望まれていたのだとしても、到底、わしには無理じゃ……さりとて、ナセルがその位に付くのを認める事も、断じて出来ぬ」
「ふはは。ナセルに帝位の簒奪を許さず、民にも、奴隷騎士にも愛される男が、一人いるでしょう? だから、心配することは無い」
ネフェルカーラは立ち上がり、肩を落としたファルナーズの頭を撫でながら、言った。
時に、母を早くに失ったファルナーズを娘の様に扱うネフェルカーラ。しかし、本人はその慈愛に気が付いていない。
だが、ネフェルカーラがファルナーズの成長を、心から喜んでいるのもまた事実。
ネフェルカーラの唯一とも言える親友は、ファルナーズの亡き母、エルミナーズだったのだから。
「ははは、そうだねぇ、本人は嫌がるかもしれないけどねぇ。アイツなら、良い聖帝になると思うよぉ」
陽気に笑いながら、ハールーンが頷いている。
「シャムシール、か。
……ふむ、そうかもしれん。今回、サーベを無血で奪還したと聞く。ならば、その功で間違いなく王となろう。となれば、確かに聖帝さえも手が届く。
だが、その時、シェヘラザードさまはどうなるのだ? むざむざナセルに殺させるというのか?」
ネフェルーカーラとハールーンが言う人物は、シャムシールの事だろう。
事実、ファルナーズにしてもシャムシールの人柄が好きだし、どうしてだか、彼の下に付く者達を見て、羨ましいとさえ感じていた。
だから、もしもシャムシールが聖帝を目指すならば、諸手を上げて賛成するし、手助けもするだろう。
しかし今の問題は、だからといって、シェヘラザードを見殺しにするのか? ということである。それだけは、ファルナーズにとって譲れない問題なのだ。
そうであれば二人を見据えて、ファルナーズは、それに関して一歩も退かない構えを見せる。
「だったらさぁ、ボクが二百騎を率いてこっそり戦いを見守ろうか? 戦局までは左右出来ないと思うけど、万が一の時に、シェヘラザードさまを助けるくらいなら出来ると思うよぉ」
「うむ、それなら良かろう。ウィンドストームでいけば、このマディーナに戻るのも早い。それに、二百騎ならば、此方の戦力を大きく割くわけでもないからな」
ファルナーズの想いに、ハールーンは出来る限り応えようとした。
なまじ、かつて共に育っただけに、彼女の感情がよくわかるハールーン。理性以外の部分で、ファルナーズを援けたいと思ったのだ。
それは、ネフェルカーラも同様だった。だから、ハールーンの提案に同意したのである。
それにしても――
ネフェルカーラがシャムシールを聖帝にしたいと明言したのは、この時が初めてだった。
当初、どうせ後宮に入るなら、いっそシャムシールには聖帝にでもなってもらおうか? と考えたのが始まりで、考えれば考えるほど、彼女にはそれが名案に思えたのである。
もとよりネフェルカーラの思想は、人と魔の融和。
さらに、妖精や砂漠民が差別される事の無い社会を作りたい、という、意外と真面目な信念もある。
かつて、ネフェルカーラとエルミナーズは、そんな国を作りたいと心から願った。
願っていたのだが、そんな時に、エルミナーズとサーリフが恋に落ちた時は、どうしてくれようかと思ったものだ。
しかし、それは過ぎ去ったことなので、もう良い。
それよりもネフェルカーラは、シャムシールがそれら全てを体現している事に気が付いたのだ。となれば、もはやシャムシールを聖帝にせねばならない、と考え始めた。
だからこの日、もしもファルナーズが自身の考えに反対したら、どうしようかと思い悩んだ。或いは、いつか戦う可能性さえ思い描いた。
しかしそれは、ネフェルカーラの杞憂に過ぎなかったようだ。だから彼女は薄絹の奥の口元をそっと綻ばせ、今、微笑んでいた。




