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シェヘラザードの為に

 ◆


 広大な国土を誇るシバールの中心地たるヘラート。その中央に、聖帝カリフが住まう美花ザフラ・ジャミール宮殿がある。

 宮殿の広さは、東西に一ファルサフ(約五キロ)、南北に半ファルサフ(約二・五キロ)で、三層から成り立っていた。

 

 まず、最下層である第三層は、上級の市民や守護騎士ムカーティラが住み、巨大な寺院モスクがある。故に、第三層の門は普段から開け放たれ、全てのヘラート市民が入ることの出来る宮殿の表層だ。

 第二層は、主に庭園が占める。

 だが、有事の際、この場所には守護騎士ムカーティラを配置して、最終防衛線となるのだ。ゆえに、洗練された細工の施された塔がいくつかあるが、それらは実の所、軍事施設なのである。

 最上層である第一層に、聖帝カリフをはじめ、宮廷人やスルタン達の住居が建ち並ぶ。全体的に半球形の屋根を持つ巨大な建物群であり、回廊にはアーチ型の柱が並んでいた。

 その中でも最も華美を極めたのは、聖帝カリフ専用の謁見の間だろう。大理石の床は磨きぬかれ、中央には水盤すらあった。加えて、色鮮やかなタペストリーが壁一面を覆い、先帝達の偉業を称えている。


 だが、その謁見の間には今、座すべき聖帝カリフの姿は無かった。


 今、この広大な帝国を実質的に指導しているのは、大将軍ライース・アルジャイシュたるシェヘラザードである。

 彼女は、空席となっている玉座の右に立ち、眼下に跪く武官の報告を聞いていた。


「ナセル王、ご謀反にございます!」


 同じく、空席の玉座の左手に立つウルージは、上唇を”わなわな”と震わせていた。


「な、な、あの不埒者! しょ、所詮はテュルク人よ! そ、即刻ナセルめの首を、陛下の御前にっ!」


 唾を飛ばし、文武百官の前で慄くウルージは、実に無様であった。

 武官が謁見の間において報告を述べる前に、大よその者は、ことの概要を知っている。あくまでも、謁見の間において報告をさせ、対処を述べる事は体裁だった。

 だから皆、ナセルの大義名分を知っている。


 ――君側の奸、ウルージを討つ――


 だが、少なくとも、ウルージは奸臣等ではない。しかし、小悪党である事も間違いない事実だった。そして、その事は、謁見の間に居並ぶ武官達ならば皆、知っている。

 だから、皆の表情は、大体が呆れ顔だった。

 ウルージの為に戦うなど、馬鹿馬鹿しいと思ってしまう。さらに言えば、このような状況下ですら姿を見せない聖帝カリフフェリドゥーンにも、愛想が尽きそうだったのだ。


 フェリドゥーンは、齢三百二十歳となる半妖精ハーフエルフ。その娘たるシェヘラザードは、二百歳である。

 フェリドゥーンも百年前までは善良で、英明な君主であったのだ。しかし百年前、シェヘラザードの母であるナディーヤを失ってから、人が変わったように酒色に溺れるようになった。

 シェヘラザードの母は、純血の妖精エルフであったのだから、当然ながら、その死は不慮のモノである。それも、後宮ハレム内の権力闘争に敗れた果てのこと。

 フェリドゥーンとシェヘラザードは、痛く傷ついた。


 だが――

 

 その傷を癒す為に取った二人の行動は、真逆だったのだ。

 フェリドゥーンは、ただひたすら後宮ハレムに篭った。何故なら、ナディーヤを失った理由が、自身の寵愛を失った寵姫達の復讐だと思ったからだ。以後、皆を平等に愛せば、同じ事は起こるまい、と、考えたのである。

 しかしシェヘラザードはその時、人と妖精エルフの大いなる隔たりを理解した。


 若さを失わない妖精エルフが宮廷に留まる事は、人にとって、絶望を意味するのではないか。何故なら、人の身では、妖精エルフの美貌に決して敵わない。まして、人は老化するのだから、尚更だろう。

 人の娘の絶望が、母を殺したのだとシェヘラザードは理解していた。

 その運命は、いずれ自分をも襲うだろう――そう考えたシェヘラザードは、後宮ハレムに留まるよりも、権力を手に入れる道を志向した。

 後宮ハレムに留まれば、いずれ誰かの後宮ハレムに入り、母と同じ運命を辿る。それは避けたかったのだ。

 だが、同じく宮廷に留まるにしても、武力があれば、自身が恐れられる存在となる。ならば、その方が安全ではないか。

 そして自身の武力を手に入れたシェヘラザードは、三十年前にシバール軍最高の地位に上り詰めたのだ。

 こうして、大将軍ライース・アルジャイシュシェヘラザードが誕生した。


 ――とはいえシェヘラザードは、至尊の冠を望んでいる訳ではない。

 基本的に彼女は、政略の道具として人の妻になる事を拒み、己の身を守っているだけなのだ。無論、気弱な父を気にかけてもいたが、つまるところ、彼女は今以上の地位を望んでいなかった。

 だから、ウルージは、そんな彼女を篭絡しようと近づいたのだ。

 彼女を妻とすれば、聖帝カリフの地位は望めなくとも、シバールの筆頭(スルタン)にはなれるかもしれないのだから。

 であれば、或いはウルージを君側の奸と呼んでも、あながち間違っていないのかもしれない。


 この時、謁見の間に居並ぶ文武百官は、シェヘラザードの一挙一動に注目していた。

 もしもウルージを処断してしまえば、ナセルに大義は無くなるのだ。いっそ、それが正解なのではないか、と、居並ぶ者の半数以上が考えていた。 


「迎撃する。軍は、私自らが率いる! アフラ! そなたも一軍を率いよ!」


 しかし、シェヘラザードはウルージを処断せず、軍を動かしナセルと戦う道を選んだ。


 結局、ウルージを処断しても、問題を先延ばしにするだけの事で、今後、ナセルの専横を許す事になる。

 専横の先には、簒奪があるだろう。

 帝位を簒奪されれば、父はどうなるであろうか? 当然、殺される。

 父とナセルを比べて、どう贔屓目に見てもナセルが勝っていると思うシェヘラザードは、だからこそ、ナセルを倒したかったのだ。

 だが、これを父に対する愛情だとは、シェヘラザードは考えない。

 母も守れず、その後、民をも見捨てた父を、シェヘラザードは決して許してはいないのだ。それでも、父を守るのは、自身の立場を守る為だと、彼女は自らに言い聞かせていた。

 

 そんな内面をおくびにも出さず、右手を高く掲げると、純白の絹衣が僅かにはだけて、白い腕が顕になったシェヘラザード。その姿に見惚れた武将たちが、彼女の宣言に追従する。


「逆臣ナセル、誅すべし! シェヘラザードさまの御為に!」


 桃色の小さな口元を綻ばせて、自身の巻毛を軽く指に絡めたシェヘラザード。だが、黒髪の内側から現われたのは、人間として整った、形の良い耳である。

 シェヘラザードは、半妖精ハーフエルフ妖精エルフの間に生まれながら、その種族最大の特徴を魔法によって隠している。

 あくまでも人前では、自身が妖精エルフである事を示さないよう、徹底した配慮をしているシェヘラザードだった。


 ◆◆


「シェヘラザードさまが出陣なされたのじゃ! なあ、わしは本当に動かんで良いのか? ネフェルカーラ、答えよ! なぁ! わしは、わしはっ!」


 自身の執務室をぐるぐると回るファルナーズは、その中心にいる黒髪緑眼の女魔術師に向けて言う。

 シャムシールに、あれ程「動くな」と念を押されておきながら、体の芯からウズウズしているのだ。

 とはいえ、その様を見てもネフェルカーラは動じない。


「ダメなものはダメ」


 ピシャリと言ったネフェルカーラは、現在マディーナにおいて行政官ハーシブと呼ばれる官職だ。

 これは、政治的にはマディーナにおける第二位であるが、それゆえに、決してファルナーズの軍事行動を掣肘出来る立場ではない。

 それでも、ネフェルカーラの言葉に、ファルナーズは歯噛みしていた。

 何故か、ネフェルカーラには逆らえないファルナーズである。


「ファルー、演習は終わったよー。

 でもねぇ、やっぱりボクがウィンドストームに乗っちゃうと、どうしたってボクの軍が過剰戦力になるねぇ。他と差がつき過ぎて、訓練にもならないよぉ」


 そんな時に、執務室を警護する奴隷騎士マルムークの制止さえ無視して入室してきた者は、ファルナーズ軍における万人将筆頭たるハールーン。

 彼は、白い短衣にやはり白のズボンを身に着けている。腰帯に差した曲刀の鞘も、金細工が施されており、ほんの数ヶ月前の身なりから比べれば、雲泥の差で、まさに貴公子然としていた。


「ええい、ならばハールーン! 明日はお前の率いる一万と、残りの四万で対戦すればよかろうがっ!」


「いやぁ、今日、それでやって勝っちゃったんだけどぉ? やっぱり、ファルー、キミが軍を率いないと、全然ダメだよぉ」


「……ふむ」


 ハールーンの言葉に、フェルナーズの足が止まる。何かを思いついたかのように、手を”ポン”と打っていた。

 ネフェルカーラは相変わらず部屋の中央に座り、口元に掛かる薄布を捲って、つまらなそうにチャイを啜っている。


「では、ネフェルカーラ、こうせぬか?

 わしは動かぬ。されど、シェヘラザードさまに万が一の事あらば、シバールが滅ぶ。ゆえに、ハールーンの一万のみ、ヘラートへ派遣する」


「却下。

 そもそもヘラートへ着く前に、オロンテスがありましょう。

 ナセルは、各都市に五万の軍を残している。そこをハールーンが一万を率いて通過しようとするなど、餌にしかなりませぬ。

 ……ここは、シャムシールの帰還を待つほかありませぬな」


 ネフェルカーラの口元を覆う黒絹が、その語調に合わせて僅かに揺れる。

 ネフェルカーラの下には、日々シャムシールからの連絡が入っていた。そこには、闇隊ザラームから齎される、あらゆる最新情報も含まれているのだ。

 それを鑑みれば、決してファルナーズはマディーナを動くべきではない。

 いざ動いてしまえば、ネフェルカーラといえども彼女を守りきれるか、不安なのだ。

 それに、今、このマディーナにおける最高戦力は自身とハールーン。ならば、ハールーンを送り出す事も得策とは言えなかった。

 

 だが、ファルナーズとしては、そこまで割り切れるものではないのだろう。

 銀髪の小鬼は、シェヘラザードを敬愛していた。だから、彼女の危機に、自身が何もしない、という事が出来ないのだ。


「ボクも、シャムシールが戻るのを待つ方が良いと思うよぉ。それに、シェヘラザードさまが敗れてシバールが滅びるなら、それも面白いんじゃないかなぁ」


 腕組みをすると、ハールーンの褐色の肩が盛り上がる。彼の着ている服には袖が無い。

 最近のハールーンは、鎧さえ着ようとしていなかった。

 本人なりの理由としては、力の強いテュルク人に対しては、そもそもどんな重装備も引き裂かれるのだから意味がないのだし、だったら、身軽な方が良い。魔法に対しては、鎧よりも防御魔法を付与した服の方が効果的、というものである。

 考えてみればネフェルカーラが鎧を身に着けない理由と同じなのではあるが、彼の部下から見れば、この考えは異常だし、軽侮の対象になり得る。

 しかし、ハールーンは竜騎士になる事により、それさえも畏怖に変えたのだ。どうやらこの男もシャムシールと同様に、妙な所で運が良いらしい。


「なっ、なっ! シバールが滅びても良いと申すか! ハールーン!」


 そんなハールーンの言葉に、細眉を吊り上げたファルナーズ。彼女は勢いよく、ハールーンに掴みかかった。

 緑眼の魔術師は、そっと目を細め、オレンジ髪の万人将に同意を示しているようだ。


聖帝カリフフェリドゥーンに帝国を統治する意志なし。これはもはや周知のこと。だからこそ、ナセルは立ったのでしょう。また、このことは、亡きサーリフも理解していたはず」


 ネフェルカーラの静かな声が、響いた。

 視線を下に下ろしたファルナーズが、赤い瞳に怒気を宿す。


「ネフェルカーラっ! いくらお前でもっ……! 第一、スルタンになるには帝国がなければならぬではないか! 父上が、聖帝カリフを否定するなどっ!」


「違うよ、ファル。スルタンに必要なのは、民と奴隷騎士マルムーク、そして、彼等に愛された聖帝カリフだよぉ」


「そう、そしてそれは、もはやフェリドゥーンでは無い。だからこそサーリフは、いや、エルミナーズ……貴女の母上は変革を求めていたのだ。わかるかな? ファルナーズ」


 ファルナーズは、もとより決して暗愚ではない。

 どちらかと言えば、父であるサーリフよりも聡明だった。ゆえに、ハールーンとネフェルカーラの言葉の意味を理解したのだ。

 ナセルと戦わない理由は、敗北を恐れてのことだけではない。幾重にも重なる理由が存在するのだ。そして、その理由を、ファルナーズは解りたくなかった。


 今まで掴んでいたハールーンの胸倉から右手を離すと、ファルナーズは溜息をついた。


「わしは、聖帝カリフになろうなどと、大それた野心など持たぬ。もしも母上が、父上にそこまでを望まれていたのだとしても、到底、わしには無理じゃ……さりとて、ナセルがその位に付くのを認める事も、断じて出来ぬ」


「ふはは。ナセルに帝位の簒奪を許さず、民にも、奴隷騎士マルムークにも愛される男が、一人いるでしょう? だから、心配することは無い」


 ネフェルカーラは立ち上がり、肩を落としたファルナーズの頭を撫でながら、言った。

 時に、母を早くに失ったファルナーズを娘の様に扱うネフェルカーラ。しかし、本人はその慈愛に気が付いていない。

 だが、ネフェルカーラがファルナーズの成長を、心から喜んでいるのもまた事実。

 ネフェルカーラの唯一とも言える親友は、ファルナーズの亡き母、エルミナーズだったのだから。


「ははは、そうだねぇ、本人は嫌がるかもしれないけどねぇ。アイツなら、良い聖帝カリフになると思うよぉ」


 陽気に笑いながら、ハールーンが頷いている。


「シャムシール、か。

 ……ふむ、そうかもしれん。今回、サーベを無血で奪還したと聞く。ならば、その功で間違いなくスルタンとなろう。となれば、確かに聖帝カリフさえも手が届く。

 だが、その時、シェヘラザードさまはどうなるのだ? むざむざナセルに殺させるというのか?」


 ネフェルーカーラとハールーンが言う人物は、シャムシールの事だろう。

 事実、ファルナーズにしてもシャムシールの人柄が好きだし、どうしてだか、彼の下に付く者達を見て、羨ましいとさえ感じていた。

 だから、もしもシャムシールが聖帝カリフを目指すならば、諸手を上げて賛成するし、手助けもするだろう。

 しかし今の問題は、だからといって、シェヘラザードを見殺しにするのか? ということである。それだけは、ファルナーズにとって譲れない問題なのだ。

 そうであれば二人を見据えて、ファルナーズは、それに関して一歩も退かない構えを見せる。


「だったらさぁ、ボクが二百騎を率いてこっそり戦いを見守ろうか? 戦局までは左右出来ないと思うけど、万が一の時に、シェヘラザードさまを助けるくらいなら出来ると思うよぉ」


「うむ、それなら良かろう。ウィンドストームでいけば、このマディーナに戻るのも早い。それに、二百騎ならば、此方の戦力を大きく割くわけでもないからな」


 ファルナーズの想いに、ハールーンは出来る限り応えようとした。

 なまじ、かつて共に育っただけに、彼女の感情がよくわかるハールーン。理性以外の部分で、ファルナーズを援けたいと思ったのだ。

 それは、ネフェルカーラも同様だった。だから、ハールーンの提案に同意したのである。


 それにしても――

 ネフェルカーラがシャムシールを聖帝カリフにしたいと明言したのは、この時が初めてだった。

 

 当初、どうせ後宮ハレムに入るなら、いっそシャムシールには聖帝カリフにでもなってもらおうか? と考えたのが始まりで、考えれば考えるほど、彼女にはそれが名案に思えたのである。

 

 もとよりネフェルカーラの思想は、人と魔の融和。

 さらに、妖精エルフ砂漠民ベドウィンが差別される事の無い社会を作りたい、という、意外と真面目な信念もある。

 かつて、ネフェルカーラとエルミナーズは、そんな国を作りたいと心から願った。

 願っていたのだが、そんな時に、エルミナーズとサーリフが恋に落ちた時は、どうしてくれようかと思ったものだ。

 しかし、それは過ぎ去ったことなので、もう良い。


 それよりもネフェルカーラは、シャムシールがそれら全てを体現している事に気が付いたのだ。となれば、もはやシャムシールを聖帝カリフにせねばならない、と考え始めた。


 だからこの日、もしもファルナーズが自身の考えに反対したら、どうしようかと思い悩んだ。或いは、いつか戦う可能性さえ思い描いた。

 しかしそれは、ネフェルカーラの杞憂に過ぎなかったようだ。だから彼女は薄絹の奥の口元をそっと綻ばせ、今、微笑んでいた。

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