陵辱される麻美~救出~梓による治療~エピローグ
麻美陵辱される
麻美は中目黒駅に程近い廃ビルの最上階に幽閉されていた。廃ビルと言っても、それほど古い建物ではない。何年か前に鴇島輿莉子の婚約者の馨が連れこまれ、暴行されそうになったのと同じ建物だった。結局、馨をかどわかした邨田は自分のミスで男性機能に致命傷を負った。
その上チャイニーズマフィアのフロント企業である事がばれた中華料理屋は、輿莉子に命じられたイストたち戦闘メイドによって、たった一晩でチェーン店ごと潰され、メンバーの大半は外事警察の手に落ちた。その因縁深い店の本店だった場所に、麻美は幽閉されていたのだ。
チャイニーズマフィアの拠点の多くは、イストが襲撃した日のうちにもぬけの空になっていた。その後の警察の捜査にも関わらず、邨田の父親である社長や家族の消息は掴めていない。このビルはその後、警察が立ち入り禁止のテープを張りめぐらしはしたが、廃墟化が進み、今は警備の警官もなく、そのまま放置されていたのだった。
邨田はある自治区の山奥で掘り出された吸血鬼のミイラを復活させ、その血を受けることで、自分の性的機能を取り戻そうとした。しかし、その吸血鬼は邨田の血を吸うだけ吸うと姿をくらましてしまった。
邨田自身の身体は一時的に不死身化を果たした。だが肝心の性的機能は損なわれたままだった。もっと悪いことに今は急速に肉体の劣化が始まっている。吸血鬼を掘り出した怪しげな中医は、吸血鬼の眷属の血だけがその劣化を止める唯一の薬だといっていた。つまり麻美は営利誘拐の名を借りて監禁されているが、実際は邨田の崩れ始めた身体を治療する目的で血を奪われる運命にあったのだ。
麻美はザイルで両腕をサッシの手摺に縛りつけられていた。彼女の制服はすべてはぎ取られ、全裸で身体の前面をガラス窓に押し付けられた状態だった。窓の外には目黒川が見える。川の向こう岸はゴルフ練習場だが、ゴルファーが立つ位置は遠すぎる上に、窓ガラスが汚れているので誰も麻美に気づいた者はいないようだ。
この廃ビルに連れこまれた時、麻美は軍用ナイフで制服も下着もズタズタに切り裂かれ脱がされてしまった。もう一人の男に手伝わせて手摺に縛り付ける時も、必要以上に乱暴だった気がする。ナイフの使い方も酷かった。おかげで身体のあちこちに切り傷が出来て、今も出血が止まらずにいる。
麻美はこの姿勢だと、いきなり後ろから強姦されるかも知れないと覚悟していた。だが今のところ縛りつけられた姿を携帯で写真に撮られたくらいで、実質的には何もされていない。
麻美が耳を澄ましていると、隣室で身代金を要求するメールを送ろうとして、何か言い合う声が聞こえてきた。営利誘拐なら、いきなり殺される事はないかも知れない。でも、それならなぜ服を剥ぎ取ったのだろう。麻美はそんな風に状況を冷静に分析しながら相手の出方を待っていた。
麻美の後ろに、梓をバットで散々に殴りつけた方の男が立った。
「気が付いているっスよね?お嬢さん」
麻美は失神から醒めていたが応えなかった。麻美はスタンガンで襲われた時、身体は麻痺していたが、意識は残っていた。ぼんやりとだが、男が繰り返し梓をバットで殴りつけたのも覚えていた。それで男のサディスティックな性癖に気づいていた。
こう言う男は、こちらがなにか反応すると、それをきっかけにいきなり暴力を奮うかも知れない。できるだけ麻痺して何も反応できないふりをしていた方が良いだろう。
「ほう、知らん顔をしておいた方が安全だと思ってるスか?」
背中にひんやりとしたものが押し付けられた。麻美は判断を誤ったかと感じて、一瞬だが視線で背後を伺ってしまった。
「ほうら、黙っていると、綺麗な背中が傷だらけになるっスよ」
男はそう言いながら、軍用ナイフの刃先で麻美の背中に浅く切りつけた。痛みはそれほど感じなかった。ただ鋼鉄の冷たい刃が背中に皮膚をひんやりと入りこみ、そのまま断続的に何度も縦横に滑っていくのが分かった。
男が流れ出した麻美の血をうまそうに啜った。
男の唇が背中に当たり、血を啜られるのは本当に気持ち悪かった。
麻美にとって梓に自分の血を与えるのは、まるで自分の生んだ赤ん坊に乳を与えるような快感があった。だがこの男が血を啜るさまは、まるで地獄の亡者か餓鬼のように感じられた。男が近づくたびに腐臭が漂ってくる気もする。
麻美は自分の全身に鳥肌が立つのを感じた。
「そんななりで、いつまで黙ってるつもりっスか?」
今度は腰骨のあたりを切りつけてきた。段々刃が深く皮膚と肉を切り裂いていく気がする。傷口から流れ出した血が、気持ち悪くお尻から股間を濡らし始めた。
男は麻美の尻に鼻を押し付け、背中から流れ落ちてきた血を麻美の股間に舌を這わせてごくごくとうまそうに飲んだ。
「うまい。これは本当に生き返る気分ッスね」
男の口に収まりきらなかった血が、太腿の内側を伝って床に滴り落ちるのが分かった。だが麻美は黙ってそれに耐えた。
「おいおい、ただの脅しだと思ってるスか?」
そう言いながら男は、麻美の腰骨にナイフの切っ先を突っ込んできた。激痛で背中が反り返った。思わずうめき声が漏れてしまう。腰椎の隙間にナイフの刃先が差し込まれたのだ。
「おい邨田、もうやめろ、身代金を手に入れる前に殺しちまったら元も子も無いぞ」
もう一人の男が、部屋に入って着て男を止めようとした。
「あ~あ、俺の名前を呼んじまうなんて、お前はアホっスか?」
「ああん、どういう意味だ?」
「あんた、誘拐のプロだっていうから雇ったスけど、素人だったスね」
「邨田、お前何を言っている」
「またまた、簡単に名前をばらすような奴を生かして置く訳がないだろうが!」
邨田と呼ばれた男は振り返り、いきなり相手の男に体当たりするように突っ込んだ。
男は声もあげずに刺されてしまった。邨田は自分に抱きつくように倒れかかってきた男を足で押しやった。あおむけに倒れた男の胸には軍用ナイフが深々と突き刺さっていた。
「全く、俺に偉そうに指図なんかするからっスよ」
この男、とんでもない性格破綻者だ。自分の苗字を口にしただけの相棒を簡単に殺してしまった。麻美は邨田と呼ばれた男の行動に改めて恐怖を感じた。
だが今の麻美に何ができる訳でもない。
邨田は男の胸をごつい安全靴で踏みつけ、軍用ナイフを抜き取った。
血が噴き出して、床を濡らしたが、刺された男は既に事切れた後らしく、それ以上の出血はなかった。
邨田はまた麻美の背を痛ぶる行為を再開した。今度は刃を滑らせて、尾骶骨の上に斜めに傷を付けているようだ。新たな傷口から血が流れ出すと、邨田はまたうまそうになめ取り、麻美の生血を啜り続けた。
「おら、怖くねえっスか?ここを刺激されると小便出そうにならないスか?」
今度は刃先で、尾骶骨を突いてきた。麻美は寒くて我慢していたので、思わず少し漏らしてしまった。床に透明な液体が零れ落ちる。
「わ、きったねえ、お嬢様が小便漏らしやがった」
邨田はゲヘゲヘと気味の悪い声を上げて嗤い、麻美の痴態を繰り返し嘲笑った。
麻美はこんな下卑た男に好きな様にされるくらいなら、いっそ舌を噛み切って死んでしまおうかと思った。
だが、彼女には頼りになる家族や友人がいる。きっと彼らが助けてくれる。そう信じて今はひたすら耐えるしかない。恐怖と絶望から思わずもれそうになる嗚咽を麻美は必死で堪えていた。
索敵
リンゴーンと玄関チャイムの鳴る音がした。
「誰か来たみたいだ。おかしいな結界を張ってあるのになぜこの家が分かったんだ」
光が玄関の方を伺いながら、宙に九字を切る。
何もない空中に、ハーレーに跨った黒服白エプロンの少女の姿が浮かんだ。
「メイドさんがバイクに乗って来てる。だれだろう?」
そうルイに告げる。
「多分、イストさんだわ」
ルイが梓に血を飲ませながら陶然と言った。その表情は赤ん坊に乳を与える母親のように優しく満足気だった。
「鴇島家のメイド長か?」
「彼女は鴇島の家の主戦力よ。麻美ちゃんを取り戻すために鴇島家が寄こしたのだと思う」
光が玄関を開けると、ルイが言ったとおりイスト自身が大型バイクでやってきていた。
彼女はバイクのエンジンをかけたまま、いきなり聞いてきた。
「麻美はどこです?」
「いや、すまない、僕らは彼女がどこにいるか分からないんだ」
「じゃあ、誰ならわかるのですか?」
「あたしなら分かります」
グリーンの手術着を着た梓がルイに伴われて玄関にやってきた。
手足のあちこちに包帯を巻いたままの姿だが、ルイの血液をもらった御蔭ですっかり生気を取り戻している。
「梓さん?あなたが?では一緒に来て下さい。さあ後ろに乗って!」
イストが促すと、梓は玄関から高々とジャンプして直接大型バイクの後部座席に跨った。
「どちらに行けばいいですか?」
梓は眼を固く瞑り、眉間に人差し指を当てて一瞬なにかを考えるような仕草をした。
「中目黒、多分、目黒川沿いの廃ビル、そこに麻美は閉じ込められているわ」
「出します。掴まっていて下さい」
イストはそういうと、その場でバイクを半ば寝かし、右足を着くとアクセルを全開近くまでふかしてクラッチを繋いだ。バイクは梓を載せたままスピンターンして、そのまま駻馬の様に大きく前輪を跳ね上げ、勢い良く走り出した。
イストはローギヤで全開のまま走り続け、公園から大きくジャンプして山手通りの対向車線に跳び出して行った。
「あたし達も行きましょう」
「う、うん、でも君は大丈夫なのか?」
「少しくらい血をなくしても、変身して戦うくらいはできるわ」
「ちょっと待ってくれ。街中を狼の姿で走ってくつもりか?まだ日も高いというのに、そんな事したら保健所に通報されてしまう。クルマで行こう」
「ああ、まだるっこしい、早くして!」
ルイはそうは言ったが、光に続き家の前にとめてあったボルボの助手席に乗ってきた。光はルイが焦れるほどていねいにクルマをUターンさせ梓の言った場所に向かった。
「なぜ麻美ちゃんが攫われたか少しわかった気がする」
「どういう事?」
「麻美ちゃんは、吸血鬼にとって、貴重な血の持ち主なんだそうだ。そしてその血は食人鬼や生ける屍も好むらしい」
「じゃあ、麻美ちゃんは餌として捕まったの?」
「そういうことのようだ」
「でも麻美ちゃんも梓ちゃんの力が少しは移っているのでしょう?」
「麻美ちゃんはそんなに吸血鬼化していない。あの子は梓に血を与えるのを止めれば、普通の女の子に戻れただろうに」
「光、あなた勘違いしているわ」
「勘違い?」
「誘拐犯は、吸血鬼にも、その不死性にも興味なんてないのかも」
「どういう意味だ?」
「普通の人間はあなたとは違うのよ。彼らは吸血鬼の存在なんて信じない。彼らは吸血鬼を調べる目的で麻美ちゃんと誘拐した訳じゃないと思う」
「わからん、じゃあ何の目的があって麻美ちゃんを攫ったんだ?」
「だからさっきも言ったように特別な餌として攫ったのよ。それにあの子は鴇島の養女だというけど あの家にとってはあきらかに特別なのよ」
「特別な子?」
「さっきイストさんから電話で聞いたわ。あの子は元大名家、武家の子弟の奥方にふさわしいようにと、特別に養育されていたんですって」
「どう言う意味だい?」
「詳しくは知らない。でも鴇島の家は養子縁組を繰り返して、あそこまで大きくなった家でしょう。麻美ちゃんは、そのための大切な手駒だったんじゃないかしら」
「孤児の女の子を引き取って教育して、大名の子孫に娶らせようとしたのか?」
「そうだと思う。鴇島の家は今までも政治家や警察官僚や著名人の家にたくさんの養子を出している。その延長線上に麻美ちゃんもいた、と言う事じゃない?」
「確かに麻美ちゃんは妙に賢い子だったけど、そうか、あの子にはあの子なりの希少価値があった、ってことか?」
「でしょうね、だから誘拐されてしまったのかも知れない。もっとも今、鴇島家と事を構えるような無謀な奴がいるなんて信じられないけど」
「着いた、あの建物かな」
光は目黒警察と表示された赤いパイロンと立ち入り禁止の黄色いテープを跳ね飛ばして、半ば廃墟とかした中華料理店の駐車場にボルボを乗りいれた。
「行きましょう」
ルイがナース服のまま駈けて行くのに続いて光も後を追う。
レンガ造りの廃墟は、入り口のガラス戸が割れ、中にはイストが乗っていた大型バイクが横倒しになっていた。どうやらバイクでそのまま突っ込んだらしい。
邨田は階下から聞こえてきた破壊音を聞くと、残念そうな口調で麻美に言った。
「もう少し楽しめるかと思ったスけど、相変わらずお宅のメイドさんたちは凄いっスね」
「ムラタさん?」
麻美が痛みを堪えて邨田に呼び掛けた。
「お、何か言い残す事があるっスか?」
「イストが来たら、あなたは殺されてしまうわ。早く逃げた方がいいと思う」
麻美はいつもの男の子みたいな口調ではなく、女っぽいしゃべり方でそう言った。
「はん、この期に及んで、なんでお前は上から目線でものを言うっスか?」
邨田は、軍用ナイフを麻美の背に深々と突き立てた。
「ガハッ」
麻美の口から血の泡が吹き出した。ナイフが肺を傷つけたらしい。
邨田は麻美の口から吹き出した血をうまそうにごくごくと飲み干した。
それでも麻美は話しかけるのを止めなかった。
「逃げるなら今のうちよ、ゴホっ」
「うるせえ!俺はお前らには怨み骨髄なんだ!お前を殺すまでは一歩も引かねえぞ!」
邨田は逆上したようになり、麻美の背からナイフを引きぬくと、繰り返し繰り返し、麻美の背にナイフを突き立てた。
「いい加減にくたばりやがれ!この!鴇島の娘が!」
邨田が逆上したようにナイフを振るっていると、隣の窓が吹き飛び、何かがガラスの破片とともに室内に飛び込んできた。
飛び込んできたのは梓だった。
翼を広げた梓が、空中から窓を破って侵入したのだ。
さすがの邨田も麻美に構う余裕を失くして梓に向かい合った。
無言でナイフを持った手を突き出し、梓に突進した。
邨田にしてみれば、血親であるカーミラを宿した梓を殺せば、助かると思っていたのかもしれない。
だが、血親と身体が腐り始めた生ける屍では力の差は明白だった。
梓は無言で邨田のナイフを持った手を掴むと、重さなどない様に壁に叩きつけた。邨田は鈍い音を立てて壁にぶつかると動かなくなった。
「麻美!麻美!大丈夫なの」
梓が麻美に抱きついて問いかけるが、麻美は何も応えない。
床に大量の血が池の様に溜まって行くだけだ。
階段を駆け上がる音がして、イストが室内に駆けこんできた。
光とルイも続いてやってきた。
「うわ、これは酷い!ルイ、麻美を降ろしてくれ」
「分かった」
ルイがザイルを易々と咬み切り、梓と二人で麻美の裸身を手近なソファに横たえた。
「酷い、めちゃくちゃだ。ルイ、クルマから救急キットを持って来てくれ」
「うん」
ルイは階段を下りるのが面倒になったのか、駐車場側のガラス窓を突き破って跳び出して行った。
「麻美は、助かり、ますか?」
イストが必死な顔付きで光に聞いた。
「分からない。危機的状況なのは確かだけど」
背中の傷口から吹き出す血を両手で押さえながら光が答える。
「麻美は?麻美は助からないの?」
梓が翼を広げたまま祐天寺に詰め寄る。
麻美の背中から断続的に吹き出していた血の勢いがだんだん弱くなっていく。
「なんとかして!」
「光、これ」
ルイが窓から救急キットを投げてよこす。梓はそれを片手で受け取り光に渡す。
「ともかく止血だ」
光は滅菌ガーゼを取り出して、すでに拍動が感じられなくなった麻美の背に当てようとしてふと梓を見た。それから、小さく頷きながら梓に言った。
「梓ちゃん、君には麻美ちゃんを助ける方法が一つだけ有る」
「あたしが?どうすればいいの?」
「普通の方法ではもう麻美ちゃんは助けられないと思う」
「だから、どうすればいいと言うの?早く言って!」
「君にしかできない方法だ。吸血鬼の血をこの子の傷口に注ぎ込むんだ」
「あたしの、血?」
梓は何かに気づいたように大きく頷くと、自分の左手の手首に咬み付いた。自分の腕を絞るようにして血液を麻美の背中に垂らす。
ドロリとした重たげな血液が麻美自身の血液と混ざってゆく。
「これではだめ?血が足りない?」
光が頷くと、梓は再び自分の手首に咬み付き、動脈まで咬み裂いてしまった。梓の脈動に沿ってさらにドロドロした吸血鬼の血液が断続的に噴き出しはじめる。梓はさらに右手首に咬み付き、出血が足りないと思ったのか、自ら手首を咬み切ってしまった。
ゴトリと大きな音がして梓の右手首が床に落ちた。手首の切断面から梓自身が絞り出した大量の血が流れ出し、麻美の背に注がれた。
麻美の背に注ぎかけられた梓の血液は、まるで梓の意思に従うかのように麻美の傷口を速やかに覆っていった。一端床に落ちた血液さえも、まるでアメーバのようにソファを這い上り、麻美の傷口に達すると、素早く皮膜を作り始める。
「これは一体なに?」
イストが普段の冷静さを失い、青ざめた顔で光に聞いた。
「何が起こっているの?」
「吸血鬼の血の治癒能力です」
「こ、これで麻美は助かりますか?」
「ええ、多分」
ふたりが会話している間にも、梓は自分の腕をより深く咬み裂き、麻美に血液を与え続けた。梓の血液は麻美の背の傷口を自ら探すように流れては傷口を覆って行く。群体そのものの血液は深い傷を見つけると、まるで意思があるかのように中に流れ込んで行き、見る間に傷口を塞いで行った。
その時、窓の外でドボンと言う大きな水音が聞こえた。
「あ?」
ルイが室内を見回したが、すでに邨田の姿は無かった。
全員が麻美の治療に集中していた隙に、邨田は目黒川に飛び込んで逃げ出したらしい。ちょうど満潮から引潮に変わる時間帯だ。
「アタシが見て来ます!麻美を頼みます」
梓がそう言い置いて、また窓から飛び出して行く。
「この建物って五階建だよね?」
光が呆れたように言う。これだから超人相手はやりにくい。
麻美の身体にかかった梓の血液は、すでにピンク色の肉塊のようになって、麻美自身の血液をむさぼるように取り込み、すべての傷口を覆い隠し始めていた。梓の血液だった肉塊は、麻美の背で脈動を繰り返し、徐々に麻美の背に同化していく。暫くすると、肉塊と麻美の元々の皮膚の境目さえ分からなくなってしまった。麻美の背には、傷跡は一つもなく、ただ、最初にナイフで傷つけられた場所に七つの黒子が残った。
その黒子の位置は、北斗七星の星の並びにそっくりだった。
エピローグ
奇跡的に命を取り留めた翌朝、麻美は一人でベッドから起き上がった。身体が異様に軽い。麻美は昨日、邨田に背中を滅多刺しにされた記憶があったと言うのに。
それから意識を失いそうになる中で、梓が自分を助けてくれたと言うおぼろげな記憶もあった。だが記憶はそこで途絶えていた。
あたしはどうして助かったのだろう?
梓はあれからどこにいったのだろう?
麻美は急に気になり始めた。
ベッドから起き出し部屋の隅の鏡の前に立った。
ネグリジェを脱ぎ捨て、自分の裸身を鏡に映して見た。
裸になって、鏡の前で一周して全身を確認した。
鏡に映った自分の姿を見る限り、麻美の全身には傷一つ無かった。
誘拐される前と何も変化など無い様に見える。
いや違った。
朝日が差し込んで来て、鏡に反射した。その光が麻美の目に当たって青く光った。
麻美は鏡に近づき、自分の目を覗きこんだ。
「あは、梓と同じ眼の色だ、青くなっている」
そう言った癖に、麻美は梓の事を良く思い出せなかった。
「あれ、でも、梓って誰だっけ」
麻美は大けがで生死の境をさまよったせいか、梓が姿を消しても、彼女の事をぼんやりとしか覚えていなかった。さらに梓に対する愛情も友情も以前ほど強くは感じられなかった。
もしかすると、梓の無意識の魅了から開放されたせいかも知れない。
あるいは梓の吸血鬼の血液が、大怪我を負った麻美を治癒する際に、彼女の同性愛の性癖を含め、麻美の身体をリセットしてしまったのかも知れない。
梓は自分のおぞましい姿を麻美に見られたと思い込んだのか、あるいは吸血鬼の自分を恥じたのか、それきり麻美の前から姿を消してしまった。麻美の元には、梓が残した右の手首だけが、まるで生きた女の手首のような新鮮さでずっと残っていた。梓の手はずっと麻美の元にあった。
このてがある内は梓はきっと生きている。麻美はそう信じて、その手を大切にしていた。
だが麻美の中からは梓の記憶が少しずつ消えて行った。それは組み立て終わったジグゾーパズルのピースが、少しずつ失われていく感じに似ていた。
(次のRATBIZに続く)