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アリシア・バーネット。
昨日、ルースに主体責任を回避したまま、コントロールしようとしてきた少女の名前だ。
ルースの主観としてはそうである。
いささか、ブルーノへのストレスを、彼女に当てつけし過ぎた感は否めず、少しルースは反省していた。だが、自分の発言を、ルースが言わせたように被害者の立場で述べ、思ったとおりの同意を得られなければ、泣いてこちらを加害者にしてきたのは、ルース相手には悪手だった。
他人を思い通りにしようとして、思わぬカウンターを食らったからといって、被害者になるのは全くルースには道理のあることとは考えられなかった。
初対面の相手に、あなたはひどい人間です、と言われて、それを頭から信じるわけがない。斟酌せず、すぐさまその通りですと賛同するのは、あまりにもナンセンスだ。自分のことは、自分が支えないでどうする。指摘が正しいのかどうかは、考慮に値する。だが、無抵抗に態度を反省し、罪悪感に駆られて謝罪するほど、ルースは他人の意のままになるような自我をしていなかった。
こちらを満足させられないなんて、お前はひどい人間だ。指摘には、素直に従え、という際限のない要求に、抵抗せず、謙虚に健気にしていれば、どんどん自分を削り取られるだけだ。そもそも、そんなの、謙虚でも健気でもなんでもない。
自分を侵食してこようとする人間を、不要だと押し返す。当たり前の権利で、それをひどいことだと、罪悪感をたきつけるような真似をする輩は、この国では無限に沸いて出る。抵抗しなければ、唯々諾々と流されて、自分を失くしてしまうだけだ。
おそらく、今のブルーノ相手なら、ルースが淑女らしく我を曲げれば、わが国では平均的なよき夫婦となることも可能だろう。妨げているのは、ルースの強すぎる自我であると周囲からは眉をひそめられているのが現状だ。
ブルーノは以前が嘘のように、勤勉でストイックな人間に生まれ変わり、文武両道の優秀さから、同学年である王太子の学友としても信頼を受けている。卒業すれば、側近に抜擢したいとまで目をかけられているようだ。
もはや、彼に、相続人ルースが必要とは思われない。そして、それはルースにも同じだった。今のルースに、ブルーノは必要ない。
ルースはまだ未成年であるから、国の制度にのっとり、庇護が必要だ。だが、ルールにのっとり、その間に、力をつけようとしている。
成人すれば、ルースは学んだ力で、どこへでも行けるのだ。そこから先、ルースを庇護しようとしてくるブルーノは、必要なかった。そんなものは、いらない。
飛ぶための力をつけようとするルースに、家に入ることを前提として、当たり前のように言ってくるブルーノは、正しくこの国の紳士ではあっただろう。彼は責任を引き受けようとしていた。頼まれもしない、ルースという人間の選択も未来も、庇護しようとしていた。
きっと、おとなしく、謙虚に、ブルーノを立てて、にっこり笑って、家を大切に生きていけば、模範的幸福は得られる。でも、それは、ブルーノにすべて任せるということだ。どんなに健気にふるまっても、もし、ブルーノの好意がよそを向いたら? 彼の意にそぐわなったら? ルースは幸福になれないのだろうか。
ブルーノと結婚するということは、人生の重要な自己決定権を最初から手放し、君の限界はここまでだとする彼に、自分の幸不幸を握らせるということだ。
ブルーノの顔色をうかがい、彼の意に添うように必死と心を砕きながら、一生を送るなんて、絶対に嫌だ。
自分の心も、体も、誰かに支配されたくない。
ルースは、自分の人生のハンドリングを、他人任せにする気は一切なかった。
愛する者は自分で見つけるし、好きな場所に自分の足で行き、自分の目で確かめ、触って、音楽を聴き、笑い、泣き、自分に嘘をつかず、楽しく生きていきたい。
その道中のパートナーに、ブルーノは考えられなかった。
だから、あんたとは結婚しない、と最初から言ってある。成人したらすぐ婚約解消すると。なんなら、男性の側からは、未成年でもそれが可能なため、そうしてもらってもよいと告げてある。どちらを選んでも、成人後に、財産は可能な限り現金化して、均等に分割することも。
成人後、お互いがお互いの道を行けばいい。少なくとも、彼が怪物でないならば。
そのはずだった。
「アリシア・バーネットが自殺したらしい」
そんな訃報を聞くまでは。
そして、アリシアを背にかばった上で、決めつけずに、状況確認をしようとしたブルネットの男子生徒。彼が、厳しい表情で、ルースを訪ねてくるまでは。