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『また従妹に譲ってくれ』が四十八回目だったので、儀礼台帳を白紙に戻しました  作者: ヲワ・おわり


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40/70

第40話 北方で過ごした時間

全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。

少しでも続きが気になりましたら、評価・ブックマークで応援していただけると励みになります。

 夜になった。


 アシュリーは寝る前に窓を開けた。少し開けただけだった。冬の空気が薄く入ってきた。冷たかったが、刺すほどではなかった。星が出ていた。北の空の星は多かった。王都で見る星とは密度が違った。雲がないと、星が重なるように見えた。


 窓枠に手をかけて、しばらく空を見た。


 一ヶ月だった。


 ノルディアに来てから、一ヶ月が経っていた。王都から馬車で三日かけてここに来た日のことは、まだはっきりと覚えていた。城館に着いた時の空気、石造りの廊下の音、ロドリクが正面で出迎えた時の表情。あの日からちょうど一ヶ月が経っていた。


 一ヶ月前と何が変わったか、と自問した。


 「役立たなければ」という焦りが、少し薄れていた。王都にいた頃は、何かを消化しなければという感覚が常にあった。儀礼の準備が遅れていないか、台帳の記録が漏れていないか、誰かに迷惑をかけていないか。起きている時間の大半を、その焦りが占めていた。ここではそれがない。ないというより、誰もそれを求めていなかった。求められないことに、最初はどこか落ち着かなかった。今は少し違った。焦らなくていい時間の在り方が、ようやく体に馴染んできていた。


 ロドリクという人を、信頼していた。


 それも一ヶ月前にはなかったことだった。名前だけ知っていた人だった。辺境の侯爵、王都から遠い北の城館の主、それだけだった。会ってみると、予想と違っていた。静かな人だった。少ない言葉で話す人だった。何かを押しつけない人だった。急かさなかった。封書を開けるよう急かさなかったし、笑うように求めなかったし、この城館に慣れろとも言わなかった。ただそこにいた。それが今は、理由もなく安心できることの根のように感じていた。


 信頼というのは、何かをしてもらったから生まれるものだとアシュリーは思っていた。王都にいた頃はそうだった。相手が何かを差し出して、こちらがそれを受け取って、対価として信頼が生まれる。そういう順序だと思っていた。しかしロドリクに対して感じているものは、その順序ではなかった。何かをしてもらったというより、何もされなかったことの積み重ねだった。急かされなかった。侵食されなかった。余計なことを言われなかった。その「なかった」が重なって、いつの間にか根になっていた。それが信頼というものなのかもしれないと、今は思っていた。


 シエルがよく笑うようになっていた。


 これは変化として分かりやすかった。あの侍女は最初の一週間、ずっと表情が固かった。知らない土地に連れてきてしまった申し訳なさが、アシュリーの胸にあった。しかし今のシエルは城館の使用人たちと話して笑っていることが増えた。食事の席で目が合うと、笑って戻ってきた。それを見るたびに、少し胸が緩んだ。


 しかしまだ、自分がここにいる理由がわかっていない気がする、と思った。


 何かをしているわけでもなかった。特別な役割を担っているわけでもなかった。ここにいることの意味を、誰かから与えられているわけでもなかった。それでいいのかと問うと、答えが出なかった。以前の自分なら、意味のない時間は無駄だと感じただろう。今は無駄という言葉が浮かばなかった。ただ、まだ分からない、という感覚だった。


 あるいは、理由がなくてもいいのかもしれない、と思い始めていた。王都では常に理由が必要だった。ここにいる理由、この仕事をしている理由、この場所に立っている理由。すべてに根拠を用意していた。根拠のない自分はいてはいけないと、どこかで信じていた。しかし一ヶ月経って、その信念がずいぶん緩んでいた。緩んでも、自分はここにいる。崩れていない。それが少し不思議で、少し安心だった。


 ふと、昼間のことを思い出した。


 午後に、城館の門で使者が来ていた。短い滞在だったが、ロドリクに何かを伝えていた。アシュリーは廊下からその様子を見ていた。使者が去ってから、ロドリクがアシュリーの方を見た。何かを言いかけて、夕食の時に話しましょうと言った。そして夕食の席でロドリクが言った言葉を、今思い返した。


「来月、エドワルド殿下が直接来られるようです。使者からの前触れでした」


 アシュリーは窓の外の星を見続けた。


 それを聞いた時、胸の中に何が来たのかを確かめていた。怒りではなかった。恐れでもなかった。ただ、来るのか、と思った。それだけだった。波が立たなかった。来訪の事実を受け取っただけだった。怒ることも、身構えることも、逃げることも、今の自分には必要なかった。


 夕食の席でロドリクは続けて言った。「正式な書状はまだ来ていません。前触れだけです。どう対応するかは、届いてから一緒に考えましょう」。そう言って、それ以上のことは言わなかった。食事の話に戻った。アシュリーもそれに応えた。押しつけがましくなかった。それがいつも通りだった。


 ここにいる、ということは確かだった。


 帰らない、ということも確かだった。エドワルドが来ようと、来まいと、その点は変わらなかった。一ヶ月前に感じていたものと、今感じているものは違った。あの頃は怒りと傷と、何か整理のつかないものが混在していた。今は静かだった。静かであることは弱さではなかった。静かなまま、ここにいることを選んでいた。


 それだけは分かっていた。


 星が瞬いていた。雲が一つ流れて、また星が戻った。北の空は広かった。


 窓を閉めた。


 翌月、エドワルド殿下の来訪予告が正式に届いた。ロドリクが書状をアシュリーに差し出して、こう言った。「どうするか、あなたが決めていい」

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