第29話 好きに過ごす、の意味
全70話完結予定です。毎日5話ずつ、7:10/12:10/17:10/20:10/22:10に投稿します。
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朝食の後、ロドリクが言った。
「今日は特に何もありません。好きに過ごしてください」
それだけ言って、書類を持ち、去っていった。廊下の向こうに消えた。足音が遠くなった。
アシュリーは食堂に残った。
「……好きに、ですか」
呟いたが、もう誰もいなかった。シエルだけがいた。
ロドリクに呼ばれるかもしれないと思っていた。城館の案内でも、視察の同行でも、書類の確認でも、何かあるだろうと思っていた。昨日の到着の日もそうだった。夕食の間も、次は何をするのかを考えていた。しかしロドリクは特に何も求めなかった。夕食の話は穏やかだったが、仕事の話ではなかった。領地の植物のことを少し話した。アシュリーは聞いていた。それだけだった。
それで終わりだった。次の指示はなかった。明日の予定も言われなかった。ただ夕食が終わり、お休みなさいと言われ、各自の部屋に戻った。そういう夜だった。拍子抜けした感覚があった。拍子抜けしている自分に気づいて、少し奇妙だと思った。
今日も何もなかった。
散歩でも読書でも、眠っても、とロドリクは言っていた。
その言葉が頭の中に残っていた。眠っても、という部分が特に引っかかった。昼間に眠ることは、宮廷では考えられなかった。やらなければならないことが常にあった。資料を読む、記録をまとめる、次の会合の準備をする。時間は埋まっていた。埋めるものが必ずあった。
宮廷での四年間、アシュリーは一度も手持ち無沙汰になったことがなかった。何かが終わる前に次のことが来た。休んでいる間も頭は動いていた。次は何があるか、何を準備するか、誰に何を言うべきかを考えていた。それが当たり前だった。それが自分の在り方だと思っていた。
今は、なかった。
アシュリーは席を立った。
城館の廊下を歩いた。どこへ行くかは決めていなかった。ただ歩いた。右手に廊下が伸びていた。扉が並んでいた。突き当たりに大きな扉があった。近づいてみた。取っ手に手をかけた。重さがあった。引くと開いた。
図書室だった。
本棚が四方にあった。天井まで棚が続いていた。窓が二つあった。曇り空の光が差していた。部屋の中央に読書用の椅子とテーブルがあった。テーブルの上に何も置いていなかった。誰かが最近使った形跡があった。本棚の前に小さな脚立があった。それが使われた跡だった。
アシュリーは棚を見た。
背表紙が並んでいた。歴史書があった。植物図鑑があった。地誌があった。文学のようなものもあった。分厚い本が多かった。使い込まれた本もあった。新しい本もあった。
一冊手に取った。
薄い本だった。表紙に花の絵が描かれていた。中を開いた。詩集だった。読み始めようとした。しかし目が字を追わなかった。
何を読みたいのか、分からなかった。
本棚の前に立ったまま、アシュリーはその事実に向き合った。好きな本を選んでいい、という状況が目の前にあった。しかし何を選べばいいのか分からなかった。好みがないわけではなかった。宮廷でも資料は読んでいた。しかしそれは必要だから読む本だった。役に立つ情報がある本だった。何かに使える知識がある本だった。それ以外の理由で本を選ぶという感覚が、どこかへ行っていた。
好きなことが何か、四年間考えたことがなかった。
いや、正確にはもっと前からかもしれなかった。宮廷に上がる前から、アシュリーは役に立てることを基準に動いてきた。家のために、与えられた役割のために、期待に応えるために。それが自分の動き方だった。それ以外の動き方を、いつの間にか忘れていた。あるいは最初から持っていなかったのかもしれなかった。
詩集を棚に戻した。他の本を手に取った。地誌だった。北方の地形と気候についての記録だった。開いてみた。読めた。内容が入ってきた。それが自然な流れだと気づいた。役に立ちそうだから読める。それが今の自分の選び方だった。役に立たないものの選び方を、自分はまだ知らなかった。
結局、窓際に移った。
椅子に座った。外を見た。庭があった。木があった。曇り空だった。雲が動いていた。遠くに山が見えた。白い部分があった。雪かもしれなかった。ただそれを見ていた。
何もしていなかった。それが事実だった。役に立つことをしていなかった。誰かの期待に応えていなかった。ただ椅子に座って、窓の外を見ていた。奇妙な感じがした。落ち着かないかというと、少し落ち着かなかった。しかし立ち上がる気にもならなかった。雲がゆっくり動いていた。山の向こうに別の雲があった。それがまた動いていた。いつまでも見ていられた。
しばらくして、シエルが来た。
「探しました。図書室にいらっしゃったんですね」
アシュリーは窓から目を離さなかった。「本を読もうとした」と言った。
「読まなかったんですか」
「分からなくなった。何を読みたいのか」
シエルは少し黙った。その間が意味を持っていた。それからシエルは言った。
「今日は特に何もないんですね。いいですねえ」
いい、という感覚は、アシュリーにはまだなかった。しかしシエルの声は本当にそう思っているように聞こえた。心から言っていた。何もない一日をいいと思えること、それがシエルにとっては普通のことなのかもしれなかった。
何もない一日をいいと言える感覚が、自分にあるかどうか、今は分からなかった。あってもよかったと思った。あってほしいと思った。でもまだそこまでは来ていなかった。
庭の木が風に揺れた。
3日目、アシュリーは城館の庭に出た。




