壁を這う
王国でのレイシアの旅は概ね順調だった。
しかし法国へ来て、彼らは異変に遭遇した。
唐突に降ってきた雨。レイシアはそれを見て驚く。
「魔法の雨だわ」
それを聞いてメルルは驚きの声を上げる。
「本当ですか?」
「ええ」
レイシアは馬車の窓を開けると外に手を伸ばし、掌に水滴を受けるとメルルの前に差し出した。すると水滴から青白い光が伸び、王国文字とは違う文字の羅列が現れた。
「私には読めないけれど、これは魔法だわ」
視覚化された術を見て、メルルは目をまん丸にする。
「雨を降らせる際に何処かの水に魔法をかけ、雲にしたのでしょうね……」
黙っていたラガールが言う。
「近くに川があります。誰か……通したくない者がいるのかも知れません」
「通したくない人?法国が?」
ラガールが頷く。
「心配なさらずとも、お嬢ではありません」
レイシアは少し考えてから言う。
「雨で足止め出来るの?」
「この雨には探知魔法も仕込まれている様なので」
レイシアには法国の文字は読めないので分からないが、ラガールは少し読めるらしい。
「推察になりますが、これ程大がかりな術式を使うとなれば高貴な方を探知・足止めする為かと」
貴族籍を失い、王国平民としてベルネア侯爵家の加護を受けているラガール達の様な半魔だけが、国境を申請無しで行き来できる。その方法以外で、異国の貴族が他国に渡るには多くの手続きが必要だ。手続きを踏まないと呪われる事となる。
王国の旅の道中、ラガールからそう教えられた。
「呪われるのを覚悟で他国に行こうとする方が居るという事かしら?」
「はい。それも女性の様です」
探知魔法に女性を探している文言がある様だ。
レイシアが思い浮かべる高貴な女性の筆頭と言えば、王国のベル姫だ。ベルはまだ十四歳ではあるが、立場と役割を心得ており、愛らしいが自分を厳しく律する賢姫だ。
『あなたに親しみや愛情は求めない。その代わり永遠の忠誠を頂戴。私にはそれが必要なの』
幼さを隠し、王女の役目を全うする為にレイシアにそう言った姿は未だに覚えている。
当時、ベルは十歳だった。
『お友達になりましょう』と言いたくても言えなかったのだ。ベルは王族で友達を作れない。それを理解した上での言葉だった。
表向きは無表情で通しているが、本当は喜怒哀楽がはっきりしていて寂しがり屋な姫君。レイシアは何度も彼女の元を訪れた。彼女が求めなくても、こちらが与えるのは勝手だ。レイシアの親友である令嬢も同じ思いだった。
(どうしておられるかしら)
ちなみにディランはベル姫を見た事がない。王子と姫の場合、成人を迎えるまで付き合う貴族は同性に限られているのだ。……王族の伴侶に対する執着の強さ故の決まりであるらしい。
「ラガール、その女性に心当たりはある?」
「いいえ。分かりません」
ラガールも思いがけない状況に困惑している様子だった。
その後も雨は強くなる一方で、強行軍で何とか町までたどり着き宿に入る。
「この宿では、ベルネア商会用の部屋がいつも押さえてあります」
「今回みたいな事に備えて?」
「今までは馬車や馬の不具合程度しかなかったので、こんな事は初めてです」
ラガールがそう告げて、メルルに出されたお茶を飲んでいる。
「お待たせしました」
リオンがそう言って入って来た。御者でずぶぬれだったリオンは着替えたのだ。
「ここに来る前に宿の主と少し話をしてきましたが……どうやらラーナ様がこちらに来られていると」
「まさか……王妹のラーナ殿下の事?」
レイシアが驚いて言うと、リオンは黙って頷いた。
リオンの説明によると、ラーナは法国王であるカシギの年の離れた妹で二十三歳。王位継承権は次席で、法都から出た事は今までないと言う。
「どうして国境まで来られたのかしら?」
レイシアの疑問はその場全員の疑問だった。
「詳しい情報を集めてきます。部屋でお待ちください。メルル、お前は姫様の側に」
「はい」
メルルは素直に返事をした。
情報収集の為にラガールとリオンが出て行った後、メルルはリオンから受け取った荷物の中から何かを取り出した。
「それは?」
「とても強い魔法の加護があるそうです。リオン様からがお嬢の為にと貸して下さいました」
宿で部屋の窓に吊り下げておくと、まず賊に襲われないと言う。
メルルは宿のカーテンを早速取り外し、それに取り換えている。
「窓から誰か入ってくるの?ここ三階よ」
「準備するに越したことはありま……」
言いかけたメルルの言葉が途切れる。顔色が凄く悪い。
「メルル?」
メルルは飛びのくようにレイシアの側に近づき、立ったまま返事をしない。椅子に座っていたレイシアはその視線がカーテンの方を向いているのに気づく。
雨の音に混じり、外からおかしな音がする。それはだんだんと近づいて来た。
ここは三階だ。ガサガサする様な耳障りな音は微妙にずれて何個も重なって聞こえる。何かが複数の足で壁を這ってここを目指して来ているのだ。
「もう……しません。もうしません。お願い、助けて……」
若い女性の声。安易に答える訳にはいかない。
「ああああ、怖いぃぃ」
這い上ってきた何かは、発作の様に叫ぶ。
ベチュ……バチュ……パキパキ……
近くで聞けば、粘着質でいながら何か硬い物が折れるような音がする。
「痛いぃぃ。産まれるぅ……あああああああ」
声は慟哭する。
「ゆるしてぇ。ひめさまぁぁ」
(姫様?)
さっきよりも不快な音がする。
このままでは危険だと思ったレイシアは無詠唱で、宿全部に硬化魔法をかけた。建物を出来うる限り硬く強くする。結果、表面は滑らかに整って、その上を雨水が流れ落ちる事になった。
「見捨てないでぇぇ」
壁に張り付いていた何かが、耐えかねて落ちていく。下でドサリと大きな音を立てた。耳を澄ませば、建物の下の方から叫び声と嫌な音が聞こえて来る。
レイシアとメルルが息を詰めて身動き出来ない中、雷鳴が鳴り響き振動と共に宿の窓が眩しく光る。カーテン越しでもあまりの眩しさと衝撃に、レイシアもメルルも肩を竦めて目を閉じる。
それと同時に、絶叫も嫌な音も聞こえなくなった。
二人はただただ茫然と窓を眺める。カーテンで何も見えない外。気になるがカーテンを開ける気にはなれない。
すぐに焦げ臭い匂いだけは三階まで昇ってきた。雷に打たれた。それは間違いない。……問題はまだ生きているかも知れないという点だ。
「お嬢!ご無事ですか?」
すると下から声がした。レイシアは、窓に駆け寄りカーテンを開けて下を覗く。
「ラガール!」
ラガールは黒焦げの側に立っていた。黒焦げは煙を上げていた。人らしき手は炭化して助けを求めるように空に突き出ている。ラガールが自分の上着を被せているので、それ以上分からないのが幸いだ。
「もう大丈夫です。建物にかけた魔法を解いていただけませんか?」
レイシアの魔法でドアノブが回らないのだ。
魔法を解除すると、ラガールは急いで部屋にあがってきた。
ラガールを見て、メルルがその場に崩れるように座り込む。レイシアは窓際に立ったまま聞いた。
「あの……旅って、いつもこうなのかしら?」
折れそうな心のまま震える声で訊くと、ラガールは慌てて言う。
「いえいえ!本当にこんな事、私も初めてです」
ラガールは困った顔で続ける。
「とんでもない事になりましたな」
それはこのに居る全員の気持ちだった。




