3日目 10:00〜13:00 取調室でのひとときと、数週間ぶりに食べる牛丼とチキンカツ丼
10:00
ローラとハリエットは、取り調べ室と隣接した、薄暗い部屋にいた。
マジックミラーの向こうには、自分の成果の証である日本人の青年がいる。
魔法使いというだけあり、今朝の傷は、全て治っているようだった。
新品同然のカジュアルなジャケットに穴を開けてしまったことで、少しばかりの罪悪感を抱いていたが、ジャケットの穴は魔法で塞がっていた。
ジャケットに対する罪悪感は、少しばかり薄れた。
日本人青年は、髭は剃ったばかりで、シャワーを浴びたばかりのようだったが、彼にはホームレスの香りが染み付いていた。
有名ブランドにインターンに行った大学からの友人が、ホームレスの香りのする香水を作りたいと言い出したら、彼を紹介すればいい。
ローラのいる部屋の扉が開き、ラシェルが入ってきた。「彼は❓」
ローラは、ラシェルにファイルを渡した。自分で作成した初めての供述調書であり、銃を発砲したことについての始末書、そして、ドアを蹴り破るという、正規の手順を踏まなかったことについての始末書が挟まっている。「重要参考人のアパルトマンにいました。一緒にいたイタリア人女性は白です。心理分析官3人がかりで調べたから間違いない」
「重要参考人は❓」ラシェルは、ローラの渡したファイルに目を向けながら、言った。
「いませんでした。隣人の話によると、アメリカに出張だとか」
「現地警察には❓」
「話を通しておきました。後ほど、あなたから詳しい話があると。こちらの時間で、11時から11時30分の間に開けておくとのことです」
ラシェルは頷いた。「始末書の書き方もお勉強しないとね」
ローラは、頷いた。
ラシェルは、再びうなずいた。「心理分析官たちは、彼のことをなんて言ってた❓」
ハリエットは、口を開いた。「キョロ充で、年齢イコール彼女いない歴だろうって」
「まじめに」
ハリエットは頷いた「まじめに」
「可哀想に……」
ハリエットは、肩を竦めた。「今、キョロ充専門の心理分析官を待ってるんだけど、まだ来ない」
「なぜ」
「この街にはキョロ充が多すぎるからじゃないかしら」ハリエットは、ジェスチャーで、やたらと身振り手振りの多い印象のあるフランス人やイタリア人の真似をした。
ラシェルは、冷たい目をハリエットに向け、何かを思っていたようだが、最終的に、首を横に振るにとどまった。「そりゃ、早朝の4時に、泊まってるアパルトマンのドアを蹴り破られて、側頭部を蹴り抜かれてこんなところに連れてこられちゃ、キョロ充にもなるでしょうよ」言って、ローラを睨むラシェル。
ローラは、その目を見て、たじろいだ。「銃を向けられたために、ターミネーターモードが発動してしまって……」
ラシェルは頷いた。「適切な手順は、捜査や取り調べを、可能な限り円滑に進めるためのシステムよ。今回は、適切な手順を踏まなかったために、適切な手順を踏めない状況に陥った」
「あちらが銃を持っていたんです。あの日本人を昏倒させたのは、自己防衛のためでした」
「ドアは外側から蹴り破られていたようだけれど❓」
ローラは俯き、黙り込んだ。
「適切な手順を踏まなかったために、3人の心理分析官に無駄な時間を使わせ、パリ市警、ひいてはフランスの予算、ひいては、国民の金を、ドブに捨てたことになる。時間も金も無駄になった」
「申し訳ございません」
ラシェルは頷いた。「2度と繰り返さないように」
ローラは頷いた。
「わたしが行くわ」ラシェルは言った。
「勉強させていただきます」
ラシェルが、マジックミラーの向こうに現れた。
あの日本人男性は、ラシェルを見上げた。
その目の動きを見る限り、どうやらキョロ充は卒業したようだ。
「はじめまして。頭はまだ痛む❓」
男性は首を横に振った。「いや」
「部下と、フランス警察に代わって、深くお詫び申し上げるわ」
男性は、肩を竦めた。「それほど怒ってないさ。こちらも誤解を招いた。もっとも、この場合、はじめに誤解を招いたのはそちらだが」
「いかなる場合であろうと、人に銃を向けるものではないわ」
「今朝からずっと後悔していた。テーザーならよかったなって」
「次からはそうしなさい。本当に、残念ね。旅行中で、日程も予定もあったでしょうに」
「いいや、こちらでは、気ままな時間を過ごさせていただいている」
ラシェルは頷いた。「日本国大使館に連絡をしたわ。あなたの写真と声と血液、それぞれのサンプルのデータを日本に送って、本人だと確認が取れた。学生で、犯罪歴はなし。軽犯罪の過去もなし。好ましくない集団との繋がりもない」
男性は頷いた。「問題や誤解を招くことは避けるようにしてる。アジア人ってことで唾を吐いてくるやつもいたが、唾を吐き返したりも殴り返したりもしない」
「それはとても賢いわ。ドイツで行方不明という話を聞いたわ。現場には、燃えたパスポートがあったと」
男性は頷いた。
「なぜ、すぐに大使館に行かなかったんです❓」
男性は、考えるように、ラシェルの手元を見つめた。「納得の頂ける理由ではありません。それに、信じて頂けるかどうか」
「心配ないわ。わたしは人の心を読める。あなたと同じ魔法使いなの」
「旅行を続けたかったんだ。当時は、2週間後には帰国して、退屈な学生生活に戻らなくちゃいけないタイミングだった。それが嫌で、金がある限り旅行を続けようと思った」
「所持金はすぐになくなっちゃったんじゃない❓」
男性は頷いた。「移動手段は徒歩やヒッチハイク、宿は、ネットや、ヒッチハイクで載せてくれた人の車内や、その人の家や、その人が取った宿にお世話になった。お世話になったお礼に、家事やベビーシッターをしたら、何人かが、別れる時に旅行のための金や、食事をくれたんだ」
「なるほど」ラシェルは、ノートに何かを書き込んだ。「連絡先はわかる❓」
「いくつかは」
「書いて。連絡先とドイツの後の旅行経路を覚えている限り」
男性は、大人しく、ノートにペンを走らせた。
ラシェルは、書類を確認すると、頷いた。「確認をとるわ。ここで待ってて」
「シャワーを浴びさせていただけないでしょうか」
「もう少し待ってくれるかしら。シャワーは浴びさせてあげるわ」
「いつ、旅行を再開できますか」
ラシェルは、首を横に振った。「無理ね。ここを出たら、大使館に行ってもらう。その後は、日本に帰ってもらうわ」
男性は、残念そうな顔で頷いた。
その後、男性からは、さらに詳しい供述を取り、証言に合致した地域の監視カメラの映像を受け、ラシェルは、さらに男性と話をすると、いくつか考えを変えた。
男性にはポテトチップスとサンドウィッチ、サラダ、コーヒーなど、ランチが与えられた。
さらにその30分後、ラシェルは、日本人に、何か食べたいものはあるかと尋ねた。
男性は、ギュードンとチキンカツドンという、彼の大好物らしい日本食の名を口にした。
どちらも、ローラにとっては未知の料理だった。
ラシェルは、庁舎のキッチンに立ち、エプロンをつけると、ネットで調べて、鼻歌を歌いながら、料理を始めた。
その後、日本人は、ラシェルと料理を分け合いっこしながら、雑談をした。
その後、日本人には、アパルトマンの一室が与えられた。
事件が解決するまで、そして、彼に新しいパスポートが発行され、帰国するまでの間、彼が自由に使える空間だ。
順当な手続き。
唯一ローラが引っかかったのは、そのアパルトマンの一室とは、ローラが月300ユーロで借りている家の、すぐ真下にあるという点だった。
「どういうことですか❓」
「現場は体験できたでしょう。次は、捜査の過程で知り合うこととなった協力者の保護と監視をやってもらうわ」
「もう現場には出るなということですか❓」
ラシェルは頷いた。「今回の事件では、捜査に参加することを許可するわけにはいかない。犯人を逃し、犯人に利用されただけの人物に怪我を負わせた。学んだ通りの適切な手順を踏めば避けられたことよ。はじめの事件とはいえ、焦り、軽いパニックに陥り、学んだ通り、教えられた通りの適切な手順を踏めなかった。だから外すわ」
ローラは、ラシェルを見た。
「インターンはまだ続けてほしい。あなたには見込みがある。次の事件では期待しているわ」