8.いざ木登り挑戦
翌日、澄み渡る青空の下。
侯爵家の庭には、小さな少年の姿があった。
「なんだよあいつ。やっぱりあの女とケッコンしておれを追い出すつもりなんじゃないか」
木の上で服が汚れるのも構わず寝そべりながら、ぶつぶつ呟いているのはジークハルトだ。
アマーリエは遠くからその姿を確認し、驚かせないようにゆっくりと近づいていく。
「ケッコンしたら、おれはいらなくなるんだろ。どうせ」
ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。
(今、結婚って……?)
距離がある分アマーリエの耳には聞こえなかったが、結婚というワードだけは聞き逃さなかった。
もしかすると、ジークハルトはアマーリエとリーヴェスが結婚するとでも考えたのだろうか。
さすがにそれはないかと首を横に振り、慎重に声をかける。
「まあジークハルトさん、そちらにおいででしたのね」
わざと足音を立てて近づき、のんびりと間延びした声で声をかけると、ジークハルトはビクリと肩を跳ねて体を起こした。
「な、なんだよ! 降りろなんて言われてもぜったい降りてやんないからな!」
「ええ、そのままで結構ですよ。今日はジークハルトさんにお願いがあってまいりましたの」
「おねがい?」
「私と遊んでくださいませんか?」
アマーリエの朗らかな声に、ジークハルトはぽかんとする。
「はぁ?」
日頃の険しい顔より、こういう素朴な顔の方が年相応で可愛らしい。
「実は私、幼少期から外で遊び回ることは制限されていまして……木登り、一度してみたかったんです! そんなに高くまで登れるなんて凄いです、コツを教えてください!」
これは本当のことだ。
皇女が木登りなんて許されるわけがない。
窮屈なドレスでは外を走り回ることもできず、ジークハルトがしているように外で昼寝なんてもってのほかだ。
アマーリエが期待を込めてきらきらと目を輝かせて見つめれば、ジークハルトは気まずそうに視線を逸らす。
「……変なヤツ」
やはりダメか、と落ち込みかけたが。
「そこ。ちょっと出っ張ってるところがあるから、そこに足をかけて登るんだ」
「こ、こうですか……!?」
「そう。滑らないように、しっかり目を開けて登るんだよ」
不機嫌そうな顔ではあるものの、アマーリエが登るさまを見て、上から的確に指示を出してくれる。
皇女がレースのドレスで木登りなんてしている姿を見たらきっと城の女官たちは卒倒するだろう。
(今の私、すごい格好になってるんだろうなぁ……)
アマーリエも非力ながら、必死に上を目指す。
これが木登りというものかと、新鮮で楽しくて仕方がない。
「ほら、手」
「はい!」
最後は手を貸してもらいながら、なんとジークハルトの隣に着地することができた。
「わあ……! とっても良い長めです!」
「まあ、わるくないよな」
気取っているつもりかもしれないが、たどたどしい口ぶりから照れ隠しなのが丸わかりだ。
「ここは、ジークハルトさんの特等席なんですね」
「べ、別に」
にこりと微笑んだが、そっぽを向かれてしまう。
しかし、本当に良い景色だ。
青空と街の景色が一望でき、暖かな春風も感じられる。
風に揺れる葉の音も耳心地が良い。
(私、いまとっても自由なのね……!)
皇女だった頃には、見るとができなかった景色だ。
本当に、あの時全てをもう一人の自分に譲って良かったと心から思える。
エレストーレ皇家のこれからがどうなっていくのかは分からないが、本物の娘が帰ってきたのだから、皇家にとって最も良い結果になったはずだとアマーリエは信じている。
しばらくそうして景色を眺めていると、隣のジークハルトがおもむろに口を開く。
「……お前、おれの家庭教師になりに来たんだろ」
「お前ではありません。アマーリエです。ぜひ、アマーリエと呼んで」
「アマーリエは、おれの家庭教師なのかって聞いてるの!」
この機を逃さず訂正させれば、ジークハルトは顔を真っ赤にして悔しそうに言い換えてくれた。
「いいえ。私、リーヴェスのお友達なんです。お友達の弟とも仲良くなりたいと思って会いに来ちゃいました」
「ふん。そんなこと言って、おれに勉強させるつもりなのは分かってるからな」
「いいえ、させませんよ。私、大きな仕事を引退したばかりなのでしばらく働くつもりはありません」
「じゃあ、なにしにきたんだよ」
「今日は、ジークハルトさんとピクニックをしようと思いまして」
嫌だと言われたらどうしようかと思ったが、ジークハルトは首をかしげていた。
「ピクニック? なんだそれ」
ピクニックそのものを知らなかったとは。アマーリエは嬉々として説明する。
「こうした、晴れたお天気の良い日に庭で遊んだり、美味しいものを食べたりするんです」
「……ふーん」
「今日は特別に、料理長さんに色々用意してもらったんですよ。一緒に食べませんか? たくさんのフルーツに、ローストチキンに、ふわふわのパンと焼きたてのミートパイもあります!」
「別に。おなかすいてないし」
ぐうう。
ジークハルトがそっぽを向いた瞬間、同時に彼のお腹の音が響く。
「あら、私のお腹がなっちゃいました! せっかくですから、お付き合いしてくれませんか? もうお腹がペコペコなんです」
「……わかった」
アマーリエが誤魔化してくれたのが恥ずかしいのか、ジークハルトは先にひょいっと飛び降りてしまう。
意外と素直で可愛らしいではないか。
ジークハルトが好きそうなものを用意してもらったが、当たっていたようで安心した。
「えーっと、私も今降りますね!」
ジークハルトの真似をして降りてみようかと思ったが、確実に捻挫しそうなので慎重に降りる。
かなり滑稽な姿をしていることだろうが、むしろそれが嬉しく思える。
「さ、ピクニックにしましょ!」
少し離れたところでは、予定通りメイドたちが布を広げて料理の入ったバスケットを運んできてくれている。
なにも、美味しい料理で手懐けようというわけではない。
アマーリエはただ、ジークハルトと一緒に料理を食べてみたかったのだ。
アマーリエは誰かと楽しく料理を食べたことは無い。
けれど昨夜、リーヴェスと笑いながらケーキを食べて思った。
ジークハルトもきっと、昔の自分と同じではないのかと。
一人部屋で寂しく、少し冷めた料理を食べることがどれだけ味気ないことか、アマーリエはもう知ってしまったのだ。




