後編
ある夜、ザッハークは再びシャフルナーズの部屋を訪れました。月明かりが石の床に淡い影を落とし、彼女の姿を音もなく照らしていました。彼女は窓辺に立ち、手紙を握りしめています。ザッハークは彼女の背後に立ち、細い肩にそっと手を置きました。
「そなたは何を隠している?」
いつもの威厳あるザッハークの声には、恐々と覗き込むような不安が混じっていました。シャフルナーズは振り返り、彼の瞳を見つめました。
「あなたの民は希望を見ています。けれど、その希望は宮廷の者たちを脅かしている。カシュヤルはわたくしを排除しようとしています」
「民は今や、宮殿の門前でさらなる要求を叫んでいる。なまじ慈悲を与えたせいだ」
「それがカシュヤルの言葉なら、耳を貸してはなりません。ザッハーク様、帝国は転換期を迎えているのです。ですが、流れに従うことを恐れないで。それは必ずしも終焉ではなく、新たな始まりの産声となります。民は必ずや、あなたの正しき道について参ります」
シャフルナーズの声は、静かながらも鋭い鬼気迫るものを含んでいました。ザッハークの胸に棲みつく邪悪な蛇が、ここぞと鋭い牙を剥きました。
――彼女は裏切り者だ。お前を破滅に導く。
と語りかける獣の声は、カシュヤルの過去の進言と響き合い、ザッハークの心を締めつけました。彼はシャフルナーズの手をしっかり握り、邪な囁きにぐっと蓋をするように声を低くしました。
「そなたを信じたい。そなたは俺の心に触れたただ一人の人間だ」
「ならばどうか、彼らの声に惑わされないでください。そうすればきっと、善なる神がわたくしたちをお導きくださいます。蛇の声に従ってはなりません」
女の声に耳を貸すな。揺らぐザッハークの心を蛇は猛毒で制しようとします。
「ああ、俺は……俺は、おまえを失うわけにはいかぬのだ」
ザッハークはシャフルナーズの手を握りしめ、無理やり蛇を封じ込めました。見つめ合う二人のあいだには輝かしい未来への光が芽生え、割り込む影はないかに見えました。
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カシュヤルは薄暗い会議室で同志たちに語りました。
「シャフルナーズの言葉が王を変え、民に希望を与えた。だが、その希望は我々の帝国を脅かす反乱の火種を灯している。遠くの地では、フェリードゥーンなる若者が民を扇動し、武器を取らせている。これは彼女の仕業だ。王にそう信じさせねばならぬ」
彼は偽造した手紙を手に持ち、薄く笑いました。
「この手紙はシャフルナーズがフェリードゥーンと通じている証拠となる。王の心に巣食う蛇が、彼女への疑念を膨らませるだろう」
カシュヤルの陰謀は着々と進みました。彼はザッハークに偽の証拠を提示しました――シャフルナーズがフェリードゥーンと密かに連絡を取り、反乱を企てているという手紙。文字を追う瞳は動揺に揺れ、手紙を持つ手は恐れに震えます。カシュヤルの手下によって偽造されたそれに蛇の声が被さり、ザッハークの心に植えつけられた疑念は増幅されました。
「彼女は裏切り者だ。お前を滅ぼすためにここにいる」
と、蛇は執拗に繰り返しました。
「王座につくのは、あのフェリードゥーンなのだから」
シャフルナーズの偽らざる眼差しを思い出し、まさかそんなはずがない、とザッハークは手紙を握りしめました。しかしあの若々しく雄々しい青年の名が、大打撃となってザッハークの胸をきりきりと締めつけました。蛇は確実に、ザッハークの人として大切な光の領域を狭めていきます。
シャフルナーズはザッハークの変化を感じ取っていました。彼の眼差しに宿る氷の冷たさが、かつての戸惑いや温もりを徐々に覆い始めていました。彼女は彼に訴えました。
「わたくしを信じてください。わたくしの望みは、民の苦しみを終わらせ、あなたの心に光をもたらすことだけです」
愛する者の言葉を信じたい。その思いが強まれば強まるほどに、蛇がザッハークの心臓に巻きつき、両肩に深く牙を食い込ませるようでした。
カシュヤルはザッハークに決断を迫りました。
「シャフルナーズを幽閉しなければ、帝国は反乱に飲み込まれます。フェリードゥーンがすでに軍を率いて迫っています」
「だまれ。それは俺が決めることだ」
愛する者と王国の安定を秤にかけた時、ザッハークは両方を失うわけにいきませんでした。シャフルナーズは新たな始まりの産声と言いましたが、このままでは王国の分裂は避けられない事態です。なんといっても、フェリードゥーンなる男が信用なりません。蛇がもたらす肉体と精神の苦痛にもたえかね、ザッハークはついにシャフルナーズを塔に幽閉する命令を下しました。
「失せるがいい、シャフルナーズ。今はそなたの言葉は不要だ」
連れ去られる間際、そう言い放ったザッハークを見つめ、シャフルナーズは静かに言いました。
「あなたの心はあなた自身が選ぶもの。どうか、闇に飲み込まれないで」
幽閉されたシャフルナーズは、塔の狭い窓から星空を見上げ、故郷を想いました。彼女の心にはフェリードゥーンへの希望と、ザッハークへの未練が交錯していました。一方のザッハークは、彼女を遠くにやったことで蛇の声が一層強まるのを感じていました。彼の治世は再び冷酷さを取り戻し、民の希望は霜が降りたように萎んでいきました。
遠くの山岳地帯、シャフルナーズの故郷の民が集う隠れ里の松明の光の下で、フェリードゥーンは同志たちに語りかけていました。彼の瞳は夜空の火星のようにらんらんと輝き、力強い声は抑えきれぬ決意に満ちていました。
「我々の故郷は、ザッハークの鉄の拳によって奪われた。だが今、希望の光が民の心に灯っている。それは、シャフルナーズ姫の勇気によるものだ」
彼は手に持った一通の手紙を掲げました。それは、シャフルナーズが民へ送っていたメッセージの一つでした。
「彼女はザッハークの心に光をもたらし、囚われながらも我々に希望を与えた。シャフルナーズ姫は今、宮廷の闇に閉ざされている。我々は彼女を救い、ザッハークの呪われた支配を終わらせねばならない」
同志の一人が問いました。
「王女はザッハークを変えようとしていたのでは?」
フェリードゥーンは静かに答えました。
「彼女の光は尊い。だが、蛇はすでにその光をほとんど飲み込んでいる。民の苦しみを終わらせ、彼女を自由にするには、帝国そのものを打ち倒すしかない。我々の故郷を、王女を、そして正義を取り戻すのだ」
松明の炎が揺れる中、フェリードゥーンの声は民の心に響き、反乱の火はさらに燃え上がりました。彼の決意は、シャフルナーズへの敬意と、民の解放への使命感によって固められていました。
フェリードゥーンは軍を率いてザッハークの帝国に迫ります。そしてついに、彼の軍は宮廷の門を打ち破り、ザッハークの軍勢と激突しました。戦いの最中、フェリードゥーンは塔に幽閉されたシャフルナーズを救い出しました。彼女は彼の前に立ち、涙を浮かべながらも毅然と言いました。
「わたくしの民を救ってくれてありがとう。けれど、ザッハークの心にはまだ光が残っていると信じたい」
フェリードゥーンは彼女の言葉に頷き、ザッハークとの最終決戦に臨みました。戦場で、ザッハークとフェリードゥーンは対峙しました。蛇の囁きは彼を完全に支配し、彼の目はかつての人間性を失っていました。激しい戦いの末、フェリードゥーンはザッハークを打ち倒し、その呪われた身を鎖で封じました。勝利の瞬間、シャフルナーズはザッハークの倒れた姿を見て、静かに涙を流しました。
「ああ、あなたは、わたくしの声が二度と届かぬ場所へと行ってしまわれたのですね」
彼女が信じた彼の光は、ついに闇に飲み込まれてしまったのでした。
――――ゆくな、シャフルナーズ! ゆくな!
地に伏したザッハークの叫びもまた、若き英雄に連れられるシャフルナーズに届くことはありませんでした。
シャフルナーズはフェリードゥーンと共に故郷へと帰りましたが、彼女は取り残された者の気配をまとっていました。ザッハークとの関係は、愛と憎しみ、希望と絶望が交錯する悲劇的な破滅を迎えました。
新たな時代を民と共に築き上げた空の上にも、星は変わらずまたたいていました。シャフルナーズは夜空の星を見るたび、かつての宮殿での日々と、蛇に苛まれた男の胸に宿った刹那の光を思い出すのでした。




