第二話 タマテボックス
海は、静かでした。
あれほど騒がしかった港も、今は風の音だけが通り過ぎていくだけ。
波打ち際に、ぽつんと一匹の亀が佇んでいました。
「……遅い」
別に待たなくても良いものを、律儀にも待ち続けています。
あの男――浦島太郎を。
「本当に来るのかな……? あの人間……」
ぶるり、と甲羅の奥で身震いしました。思い出すのは、あの機械のような笑み。
優しさと冷酷さが、まるで同じ顔で存在しているような、不気味な男。
「いや……来る。あの目は……来る目⋯⋯」
確信に近い予感。だからこそ、逃げられませんでした。
(逃げたところでどうせ見つかる)
そんな妙な説得力があったのです。
その時でした。
――空が突然歪みました。
「……え?」
ぐにゃり、と。
青空の一部が、まるで布のようにねじ曲がります。
そして――裂けました。
ズズズズズ……
不気味な音と共に、空中に黒い穴が開き、 渦を巻くそれは明らかに自然のものではありません。
「な、なんだ……あれは……」
亀の声が震えました。その瞬間――
ドォン!!
穴の中から、何かが落ちてきました。いや、“降りてきた”と言うべきでしょうか。
黒い外殻。
歪な四肢。
魚にも、獣にも、どちらにも見える異形。
それが一体、二体――いえ、次々と。
「……まさか……」
亀の顔から血の気が引きました。
「予言書の……怪物……!」
龍宮城に伝わる古き書。
“空より災厄来たりて、海を喰らう”――
その記述と、目の前の光景が、完全に一致していたのです。
「そ、そんな……まだのはず……! 出現時期は、もっと先……準備も……何も……!」
亀は勇者として戦うはずでした。
浦島太郎から海の同胞を救うのは肩慣らしの前座に過ぎなかったのです。
しかし、予言よりも遥かに早く“その時”がきてしまいました。
そのための鍛錬も、装備も、何一つ整っていないのです。
それなのに――
怪物は、容赦なく海へと落ちていきます。
バシャアアアッ!!
海面が荒れ狂い、水中で何かが暴れています。
やがて一体が、海から顔を出しました。ギョロリ、と濁った目が亀を捉えました。
「ひっ……!」
(逃げなければ)
そう思った亀でしたが、体が動きません。
勇者としての責務と、圧倒的な恐怖が、体を縛り付けているのです。
「わ、私は……勇者……」
震える声。
「戦わなければ……」
その時でした。
「――随分と賑やかじゃないか」
背後から、聞き覚えのある声。
亀は弾かれたように振り向きました。
そこには――
「待たせたね、亀さん」
浦島太郎が、立っていた。
肩で息をしている。
どうやら急いで走ってきたようです。
その表情は――笑っていました。
「た、太郎さん……! 来てしまったのですか……!」
「来ると言っただろう?」
太郎は軽く首を傾げる。
まるで、この異常事態すら“予定通り”であるかのように。
「それより……」
太郎の視線が、海を捉えます。
怪物がこちらへとにじり寄ってきていました。
「なるほど。あれが“そう”か」
「“そう”……? 知っているんですか!?」
「さあね」
曖昧に笑うと、懐に手を入れました。
「ちょうどいい。試すには」
取り出されたのは、小さな箱。
手のひらに収まるほどの古びた箱でした。
「そ、それは……?」
「タマテボックス、と言ってね」
太郎はさらりと言いました。
「昔、妙な老人にもらったものさ」
カチリ。
躊躇なく蓋を開けました。
――次の瞬間。
光が溢れました。
「なっ……!?」
眩い粒子が、爆発するように広がっていきます。
それは煙のようであり、霧のようであり――でも、確かに“意志”を持っていました。
粒子は太郎の体にまとわりついていきます。
吸い込まれるように、染み込んでいくように⋯⋯。
ギィン……。
硬質な音。
太郎の体を、何かが“構築”していきます。
腕。
脚。
胸部。
次々と装甲が生成されていきました。
「こ、これは……鎧……?」
違う。
亀は直感しました。
これは鎧ではない。もっと異質な――
「……スーツ、か」
太郎が呟きました。
まるで、見慣れているかのように。
最後に、顔が覆われました。
仮面が形成されていきます。
光が収束し、そこに立っていたのは、先ほどまでの男ではありませんでした。
「さて」
低く、響く声。
「少し、片付けようか」
次の瞬間、太郎の姿が消えました。
「え?」
視界から、消失。
遅れて――
ドンッ!!
衝撃音。
海面が、爆ぜました。
怪物の一体が、宙に吹き飛んでいます。
「は……?」
亀には見えませんでした。何が起きたのか、全く。
太郎は、すでに別の怪物の背後にいました。
腕を振ると、それだけで怪物の体が――
“分解”されました。
「なっ……!」
血ではなく、肉でもない。
まるで砂のように、粒子となって崩れていきました。
「データの整合性が甘いな」
太郎が呟くのは、亀には意味の分からない言葉。
しかし、怪物たちは次々と消えていきます。
一方的でした。
戦いですらありません。
ただの“処理”。
数分も経たずに、すべてが終わりました。
静寂。
再び、海は静かになりました。
残ったのは、呆然とする亀と――
ゆっくりとこちらに歩いてくる、異形の男だけ。
やがて装甲が霧のように消え、太郎は元の姿に戻りました。
「……こんなものか」
「……あ……」
亀は言葉が出ませんでした。
目の前で起きた光景に理解が追いついていないのです。
「もしかして……」
亀は震える声で言いました。
「あなたが……本当の勇者……?」
太郎は、一瞬だけ考えるように目を細め――
ふっ、と笑いました。
「さあね」
そして、何事もなかったかのように言いました。
「それじゃあ亀さん」
あの柔らかい声で。
「連れて行ってもらおうか。龍宮城に」
その言葉に、亀はただ頷くことしかできませんでした。




