上
西大陸にある大国――アイハス国。
北東の街はずれに、見習い騎士の宿舎がひっそりと建っている。
しかしその中の一棟は、悪口や罵倒、品性に欠ける笑い声、獣みたいな奇声などが飛び交っていた。
「ねえ誰か!ジャガイモ潰してくんない?」
「任せな!昔あたしを振った男どもの顔をぶっ潰す勢いでやるっての!」
「そりゃあ潰し甲斐があるわね!」
「あっははははは!オラオラァァアアッ!」
剛毅奔放な女たちが働く食堂の調理場である。
すりこぎ棒でジャガイモをバチュンバチュンと潰す音。鍋がカンカンと当たる音や食器がぶつかる音、トントンストトンと包丁がまな板を叩く音。
水道からは激流が流れ、竈の上では湯気が立ち上り、熱した平鍋の中で油が弾け、香ばしい香りが広がる。
彼女たちは若い見習い騎士を美味しい料理で支える、住み込みの従業員だ。
全員で八名いるが、全員もれなく婚期を見送った女である。
婚約破棄された者、相手がいなかった者、あえて独身を選んだと言い張る者など、みなそれぞれに理由がある。
総勢百名ほどの人数の食事を一日三回用意するのは体力勝負。
お揃いの水色のシンプルドレスに白いエプロンはダサいと不評。
さらには、油の匂いが髪や服に染みこむので、わりと不人気な仕事である。
だが、ここで働く女たちはこの場所が好きだった。
若く逞しい男を無遠慮に眺めても、誰も注意しないどころか笑い話の種になる、気楽な職場だからだ。
見習いたちも育て上げた筋肉を誇示したいという妙な欲があり、食堂のおばちゃんなら害もないし見せびらかすか!と無駄にシャツを脱いで歩き回るので、利害一致といったところか。
調理の傍ら裸男子を見ていれば、女たちにはそれぞれ推しなる存在ができあがる。
とはいえ、別に取って食おうと考えるわけでも、本気で恋愛対象として見るわけでもない。
お腹いっぱい食って無事に試験を通過し立派な騎士になってくれよと、密かにそう応援しながら、時々筋肉美をチラッと拝ませてもらい、日々料理に勤しむただの世話好きな女たちである。
ここで働くエリカ・ホスタールも、婚期を逃しつつある女だ。
可憐な顔立ちにもかかわらず、アイハス国では金髪と青または緑の瞳が標準で、彼女の深みのあるこげ茶の髪と瞳は異質とされた。
そのため周囲の評判は芳しくなく、結婚の話どころか恋愛も経験できないまま婚期が過ぎていったのだ。
そして、十八歳から二十四歳が結婚適齢期といわれるこの国で、今年の夏、エリカは二十七歳になった。
母親はアイハス国の者。父親はバンゼル国の者。
長年戦争を繰り返し、憎み合ってきた国同士の男女は、偶然出会い、恋に落ち、やがてエリカが生まれた。
十歳まではバンゼル国で家族三人暮らしていたが、父親が亡くなった後、母親はエリカを連れてアイハス国に戻った。
母親も数年前に病気で亡くなり、その後は仕事を探す毎日。
見た目のせいでどの雇い主も採用を渋り、不採用、不採用、不採用。
途方に暮れた果てにようやく辿り着いたのが、この食堂係の職だった。
ここの雇い主はエリカの見た目のことも、敵国であるバンゼル人の血が流れている事もあまり気にしない寛容な人だった。騎士団の宿舎なのにそんなに緩くていいのか、と心配になるほど許容範囲が広い人だった。
「結婚する予定ありそう?」
そう問われ、迷いなく「ないです!」と答えたら、「なら採用。明日からお願いね」と契約を結んでくれたのだ。
とはいえ最初は女たちに異物のように扱われ、陰口や嫌がらせにさらされた。
しかし文句ひとつなく勤めに励み、器用な手で台所を支え、自分を「姉さん」と呼んでくれるエリカの姿は健気で、やがて女たちの心を打った。
今では喧嘩が強いという理由だけで食堂を仕切るミモレからさえ、一番の信頼を勝ち取っている。
生き辛い人生を歩んできたエリカだが、ここで働きだして数年経った頃から、ようやく自分の居場所を見つけられたような気がしていた。
死ぬまでここで働き続けたいという強い意志もある。
その理由は、男の裸が無料で見れるからではない。
仲間の一人として認識されていることが、エリカにとっては初めての経験で、それが堪らなく心地良いからだ。
◇◇◇
宿舎の周辺に生えるイチョウの葉が黄色に変わりつつある頃。
昼食の準備に勤しむ調理場が、今日はいつも以上に騒がしかった。
しかし、そこに女の会話はない。
みな表情に緊張の色があり、愚痴や昔の恋人の悪口や下ネタなどのお喋りをする余裕がないのだ。
その代わり動作がやたら大げさで、手が震えているせいか普段ならしない小さいミスを繰り返す。
積み重なった鍋を倒したり、包丁を落として隣にいる女をヒヤッとさせたり、調味料の瓶を倒して液体を飛び散らかしたり。
火がエプロンに飛びつき、あわや火傷寸前の女までいた。
そしてもう一つ、調理場のいつもと違う所。
それは普段化粧を全くしない女たちが、エリカを除いて全員、唇に紅をさしているのだ。
それも、ちょっと濃いめのを。
(姉さんたちが緊張するのはわかるわ…。私も胸がドキドキしてる…)
エリカは調理具を洗いながら、いつもより速く打つ脈拍を落ち着けようと小さく深呼吸をした。
食堂係の女たちが強張っている理由。
それは、今日は王都から騎士団副長とその部下のエリート騎士たちがやって来る日だからだ。
宿舎の視察に加え、見習い騎士の中でも成績上位二十名への訓練指導まで行う予定だという。
それだけでも女たちが緊張する理由には十分だが、本当の原因は騎士団副長、トリスタン・カルゼルク。
彼は数々の戦を知略と実力で切り抜け、幾度となくアイハス国の危機を救った国民の英雄である。
凛とした顔立ちに逞しい体躯。三十四歳にして未だ独身。
その存在だけで乙女たちの鼓動は高鳴り、「いつか偶然会えたなら…」と頭の中で妄想を広げてしまう。彼と自分が登場する恋愛小説を密かに書く者も、実は結構いるらしい。
まだ十代の若い乙女たちは、大きい声では言わないが「副長限定で私、歳の差結婚いけるわ!」と宣言するほどだ。
訓練指導が終われば、トリスタン副長は見習いたちと共に食堂に来る予定。
そら女たちは張り切るし、紅も差しちゃうし、ミスをするほど緊張するわけである。
訓練に参加しない見習い騎士たちは二日分の休暇が出ているのに、女たちは全員出勤してきた。トリスタン副長を拝見できるチャンスがあるのに、休んでられっか、という話である。
もちろん、エリカも例外ではない。
もう一度、トリスタン副長に会いたかったのだ。
調理場から空腹を刺激する香ばしい匂いが漂う頃。
ついに訓練を終えた見習い騎士たちが、トリスタン副長らを囲むようにして食堂へやってきた。
誰かが「来たわ!」と言った声に反応して、調理場から食堂全体が一望できるアーチ形の窓へ、女たちが一斉に顔を向ける。
縦に並ぶ木製の長テーブルに向かって歩く群衆の中央にいる人物、トリスタン・カルゼルクに、思わず目を奪われた。
ブーツは黒いズボンの裾まで被り、白いシャツは前ボタンが上から二つまで開いていた。騎士団の軍服である紺色のジャケットには袖を通さずに羽織っている。
肩まで届く波打つ金髪は無造作に頭の後ろでひとつに結ばれ、こめかみから崩れた毛束が螺旋階段のようなカーブを描いて緩やかに落ちる。その髪は目じりに斜めに入った古傷を僅かに隠していた。
背が高く、立っているだけで場の空気を支配するような圧倒的なオーラは、見るもの全てを惹きつける色男のそれだった。
深みのある青い瞳が一瞬食堂へ向けられると、頬を緩ませていた女たちはすかさず手を振った。
肘と腕力で互いを押し合う先輩方に後ろに押されたせいで、エリカは手を振ることもできず、仕方がないので仕上げの調味料を入れたばかりのスープをかき混ぜることにした。
表情には、緊張と期待の色が浮かんでいる。
(あとで近くに行けたらいいのだけど…)
女たちは出来上った料理を配膳し始めた。
トリスタンにお皿を渡すという幸運を見事、公平なあみだくじで勝ち取ったのは、一年前に新人として入ったメアリー。
抽選の結果を知った時は静かにガッツポーズを決め、覚悟を決めたような勇ましい顔をしていたメアリーが、いざ配膳となると今にも泣きそうな顔をしている。
その姿を、調理場からそっと覗いたエリカは、思わず小さく噴き出してしまった。
(メアリーのあんな顔、初めて見たわ)
配膳が終わり、見習い騎士の一人が代表して食前祈祷を捧げると、食事が始まった。
いつもは腹をすかした獣のような勢いでご飯を貪る見習い騎士たちが、トリスタンがいるというそれだけの事実のお陰で、それなりの知性と教養のある青年のようにして食べている。
「副長は普段、どのような訓練をなさっているのですか」
誰かが尋ねると、スープを一口飲んでいたトリスタンは、淡々と、しかしわかりやすく説明を始めた。
見習い騎士は一言も聞き漏らすまいと耳をそばたてるが、憧れの人を目の前にしているせいか、顔は赤くなり、口は乾き、手はそわそわと震えている。
真剣な表情なのにぎこちなく、まるで大型犬に怯む子犬のようだ。
「あの子たちもなんか可愛いわね…」
調理場では女たちが体を寄せ合いアーチ窓から覗いていた。
ある女はレシピ本に副長の横顔のデッサンまでしている。
「何を話してるかわからないけど、口を動かしてるだけでも絵になるんだねぇ…」
食堂係の仕切り役、ミモレがため息交じりに零すと、皆がうんうんと噛み締めるように頷く。
その時、トリスタンの手からスプーンが落ち、首を両手で押さえながら苦しみ始めた。
「副長!」
叫ぶ声が飛び交い、食堂はたちまち騒然となった。
騎士たちが一斉に周囲を囲み、必死に声をかけている。
エリカはその隙間から、息を呑んでトリスタンを見つめた。
口元は腫れ、赤い斑点が広がっている。唇は紫色を帯び、呼吸をする度に喉の奥からシューシューと乾いた音が漏れる。顔も青白くなり始めていた。
エリカはほとんど反射的に、自分の鞄を置いている調理場の端へ駆けた。
だが手が届かぬうちに、吠えるような雄叫びが響き渡る。
今度は何事かと慌てて食堂を覗けば、奥の出入口から、黒髪黒目の容姿に山賊のような恰好をした男たちが一気に侵入してきていた。
剣を片手に構え、見習い騎士たち目掛けてふるっている。
(うそ…!)
苦しむトリスタンに皆が狼狽える中、一瞬の隙に奇襲を受けたのだ。
日ごろ訓練に励む見習いも、エリート騎士ですら、目の前の状況に頭が回らず、咄嗟の判断ができない。
「うわっ!」
叫び声があちこちから飛び、食器が割れる音が重なり騒音はさらに食堂を支配する。
何人かの騎士が腕や肩を切りつけられ、血が跳ねる。
訓練後の食事中だったため武装は緩く、騎士たちは手あたり次第、皿やフォークを投げつけた。
だが狙いが外れていて、手ごたえがない。
そして、敵の数の方が優勢だ。
山賊風の男たちは嘲笑するように笑う。
『見ろ!慌ててやがる』
男たちが発した言葉に、エリカはすぐ反応した。
騎士たちも調理場の女たちも、誰一人彼らの言葉を理解できる様子ではなかったが、エリカには理解できた。
『とにかくトリスタンを狙え!あいつの首さえとれば作戦は成功だ!』
『あいよっ!』
『残りの奴はその後だ。調理場の裏口にも仲間を回した。こいつらに逃げ場はない!』
『ひゃっはは。袋叩きだぜ!』
エリカはアーチ形窓から身を乗り出し、食堂に向かって腹から声を出した。
「彼らの狙いは副長です!首をとれば作戦成功だと言ってます!」
トリスタンが一番信頼を置く部下、サイモン・アイデルクが険しい顔をして振り向いた。
「なぜわかる!」
「とにかく調理場へ!」
説明している場合ではなかった。
今度は調理場の女に声をかける。
「姉さんたち!裏口の扉と全ての窓を封鎖してください!絶対に侵入を許してはいけません!」
普段は大きな声などあまり出さないエリカの指示に、一瞬唖然とする女たちだったが、ミモレに「ボサッとすんじゃないよ!動くんだ!」と一喝されると慌てて動き出した。
いつも夜になると泥棒侵入防止のためにつけている木版を窓に嵌め、つっかえ棒をかけて固定する。
裏口の扉には内側から鍵をかけ、その手前にテーブルや椅子、石臼などを押し付けて、開けられないよう重さを加えた。
エリカとミモレは調理場と食堂を繋ぐドアを開け放ち、見習い騎士たちを「こっちに来て!」と必死に手招きした。
サイモンは脇に腕を通してトリスタンを抱え、その周囲を他の騎士たちが守り調理場へ移動するが、山賊たちが次々と襲い掛かってくる。
トリスタンの前で大皿を盾にして防御するエリート騎士たちは、三方向から狙い撃ちにされていた。
流石、副長直属の部下というべきか、果物ナイフで山賊がふるう剣を見事受け止めて横に流しているが、敵の数に圧され、片足を踏み外す者や、肩を切りつけられる者もいる。
(あのままじゃ危ないわ!)
エリカは思わず平鍋を持って調理場を飛び出した。
「エリカ!なにやってんだい!戻りな!」
ミモレの必死の呼びかけを無視して突っ走り、無我夢中で鉛の平鍋を振り回す。
技術も腕力も足りないが、一心不乱に鍋を振り落とせば、騎士を切りつけようとしていた剣をその太い腕ごとぶん殴ることができた。
『この女っ!死にたいなら殺してやる!』
『こんなことして、どういうつもりなんですか!』
刃を向けてきた山賊は同じ言葉を発したエリカに虚を突かれた。
周囲にいた他の山賊たちも思わず反応すると、その一瞬の間に、ミモレの怒号が響き渡る。
「かかれーっ!」
エリカの勇ましい姿に触発された女たちが、ミモレの合図で調理器具を持ち、興奮した牛の群れようにドドドーッと調理場から飛び出してきた。
「ちょっと!おばちゃん達!隠れててくださいよ!」
見習い騎士たちは叫ぶ。
だが、誰一人立ち止まろうとしない。
ミモレは言い放った。
「ふんっ、アイハスの女は肝の据わり方が並みじゃないのよ!舐めてもらっちゃ困るね」
アイハスの女というか、この食堂係の女限定だろう。
毎日三回料理するだけの日々に、男の裸体以外でも刺激が欲しい女たちは、新入りが入る度に『通過儀礼』と称して、壮絶ないびりをしてきた。
それに対し調理器具という名の武器で応戦した喧嘩のできる女だけが、この食堂で生き残ってきたのだ。
エリカの場合は例外で、小さいころから迫害続きで忍耐力があったせいで、いじめる側も飽きてしまい、しかもなんか健気で可愛いしで、喧嘩もせずに通過儀礼を終わらせている。
だが、迷わず調理場から飛び出した辺り、肝は確かに並み以上に据わっている。
「戻れ!」
騎士たちは戦いながらも何度も言うが「あたいらの推しがピンチなのに隠れてられっか」と女たちは聞く耳を持たない。
時には赤唐辛子粉や胡椒を振り撒いて山賊の目を潰し、太い麺棒や酒瓶を振り回し、鍋の蓋をブーメランのようにして戦う。
女たちの戦闘能力は高く、訓練でも受けているかのように手際のいい動きだった。
山賊もここの女たちが戦力になるとは思っておらず、想定外の出来事に戸惑っている。
『え…アイリスの女、怖くね…?』
『男の三歩後ろを歩くような女って話じゃねーのか?追い越してるぞ…?』
『妖怪じゃねーのか…?』
折角塗り込んだ口紅は汗と皮脂で溶け、口周りを赤く汚していたため、山賊には生血を啜った化け物が暴れているようにも見えていた。
山賊が怯むその隙に、騎士たちはトリスタンを運び、なんとか調理場に入ることができた。
女たちは山賊たちが侵入しないように熱い湯を撒きながら、見習い騎士全員が調理場に退避するまで扉を守り抜いた。
閉めた扉にはテーブルや樽を押し付け、突破を防ぐ。
だが、向こう側からは体当たりが連発される。
作りは頑丈とはいえ、そう長くは持たない。誰の目にも明らかだった。