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トリスタンは苦しみ続けている。
サイモンは水を飲ませようとするが、口に流せば咽り返し、咳のせいでより一層苦しむ。
肩と背中をさすりながら、兄のように慕っている上司に何もすることができない焦燥と無力感に顔を歪めるサイモン。
「どうすればっ…」
エリカが見たその横顔は、遠い昔の、母親の顔と重なった。
エリカはサイモンたちの輪の中に乱入した。手には鞄から急いで取り出してきた注射器。
喉を抑えるトリスタンの手を無理やり掴み、その腕に針をさそうとした。
だが咄嗟に反応したサイモンが、エリカの手首を掴み一瞬で止めた。
「貴様なにをする!」
「これを腕に打つんです!」
「ふざけるな!」
片手で後ろに突き飛ばされ、エリカは尻もちをついた。しかし怯む暇はない。
呼吸困難で苦しむ姿を見れば、素早く体勢を立て直しトリスタンに近づく。
今度はサイモンと三人の騎士がトリスタンとエリカの間に入り、それ以上近づけば切り殺すとばかりに睨みつける。
エリカは必死に訴えた。
「これを打たないと彼は死んでしまいます!副長のその症状はビガナのアレルギー反応なんです!」
「ビガナ?」
ビガナはマメ科の植物で、主に香味料として利用される。
同時に、アレルギーを持つ人も少なくなく、摂取量や体質によっては命に関わる場合もある。
口元に赤い斑点が現れるのは、ビガナ特有のアレルギー症状のひとつだ。
「この薬は症状を和らげます!」
「ビガナは公共の厨房では使用を禁じられているはずだ。なぜそんなものが入った料理が配膳されたんだ!?お前、さては敵の手先か!さっきもあの連中の言葉を、バンゼル語を理解していたじゃないか!」
緊迫する事態に冷静さを失い、サイモンが怒鳴りつける。
胸倉を掴まれたエリカの目には涙が浮かんだが、それは威圧感や恐怖からではなかった。
間に合わないかもしれないという、焦りだ。
「そんなことよりはやくこれを打たないと、副長が死んでしまいます!」
そんな話はあとでやればいいのだ。一刻も無駄にはできない。
悲鳴じみた声をあげたエリカに、サイモンは息を飲む。
言葉通り、トリスタンの荒く苦しい呼吸が容態の深刻さを示していた。
息を吸う事すら痛みに満ちている。
「もしこれを打って副長が死んだなら、その時は私をこの場で殺してください!」
エリカの覚悟に、場の全員が言葉を失った。
そこへトリスタンが震える手を上げる。
「打って…くれ…」
「副長…!」
動揺する騎士たちの中にエリカは一気に駆け寄り、トリスタンの腕をしっかりと握った。
エリカをまだ信用できない騎士たちは、だがどうすることもできず、拳を強く握りしめ、ただ見守るしかなかった。
一刻一刻が、何倍にも感じられる。
エリカ自身も生きた心地がしなかった。
(遅過ぎたらどうしよう…。お願い、効いて…!)
無意識に握ったトリスタンの手をさらに強く握り、息を潜める。
薬が効き始めると、呼吸の乱れは徐々に落ち着き、口元の赤い斑点が薄まる。誰もが安堵の溜息を吐き出した。
それでも、体の疲労感や僅かな痺れは依然として残り、まだ完全に楽になったわけではない。
「大丈夫ですか、副長」
サイモンが尋ねると、体に残る重さを感じながらもトリスタンはしっかりと頷いた。
そしてその青い瞳の先を、手を握ったまま見つめるエリカに向けた。
頭の後ろでひとつに丸めた、アイハス国では珍しい色の髪は乱れ、茶色い瞳は不安と安堵の入り混じった涙で濡れている。
トリスタンは無意識に、その目元に指先を伸ばし涙を拭った。名も知らぬ女性、だが自分を救ったその女性の涙が、心の奥に熱い衝動を走らせたのだ。
驚いて反射的に後ろにのけ反るエリカに、咄嗟に「すまない」と謝り、すぐに続ける。
「助かった。ありがとう」
トリスタンはアレルギー対応の薬が入った注射器を常に持ち歩いている。
だが、訓練中は邪魔になるので鞄に入れたままにしていて、そのまま食堂に来たため、すぐに打つことができなかった。
もし彼女が持っていなかったら、自分は死んでいたかもしれない。
そう考えると、この奇跡のような偶然に深く感謝した。
だが。
「なぜ俺がアレルギーだと知っている。知る者はごくわずかだ」
そして、なぜビガナに効く薬を持っていた。
助けられたことは感謝するが、不審な点は無視できなかった。
エリカはほんの少し躊躇うようにして答えた。
「私も昔、同じようにしてあなたに助けられたんです」
「俺が…?」
トリスタンは意外そうに眉を上げた。
「覚えていないと思いますが…、十五年前、この街の食事処で私はビガナを食べてしまい、アレルギー反応を起こして苦しんでいたんです。そこをトリスタン様が偶然入ってきて、薬を打って助けてくれたんです」
一緒にいたエリカの母親は娘がビガナアレルギーだと知らず、苦しむ我が子を前にして狼狽え、泣き叫んで助けを求めることしかできないでいた。
だが周囲は助ける事に積極的ではなかった。
娘の父親が憎きバンゼル人だと噂で知る者らもいて、「穢れた血の子なんて放っておけばいい」と冷たく言い放つ声や嘲笑を、エリカは苦しみながらも聞いていた。
気を失いかけた時、野次馬を押しのけ、若い男がエリカのそばに駆け寄った。
それがトリスタンだった。
「すぐに医者を呼べ!」
そう叫んだが、周りの反応は薄い。
「そいつは異国のもんだ。わざわざ助ける必要はない」
「関係ないだろ!」
一喝して、相手を怯ませる睨みをすると、人々は狼狽えた。
口元の赤い斑点に気づき、母親に事情を聞くと、少女がビガナを食べたと知った。
そしてすぐ薬の入った注射器を鞄から取り出し、腕に打ったのだ。
当時のことを振り返りながら、エリカは続ける。
「自分も同じアレルギーを持っているから薬を常備しているんだと、あの時教えてくださったんです…」
話しを聞くうちにトリスタンは思い出したようだった。小さく「あの子が…」と呟き、どこか驚いた様子でエリカを見つめている。
「本当ですか、副長」
サイモンが訊くと、トリスタンは「ああ。本当だ」と答えた。
周囲に安堵の空気が流れたが、サイモンだけはまだ納得できなかった。
「しかし副長。彼女はバンゼル国の言葉を」
「いい加減にしな!」
渇を飛ばしてサイモンを遮ったのはミモレ。
「その子に変な疑いをかけるのはこのあたしが許さないよ!」
「ミモレ姉さん…」
ミモレの後ろでは他の女たちも不満そうな顔をしてサイモンを睨んでいる。
さっきはちょっと言える雰囲気ではなかったから黙っていたが、仲間の一人を疑われたことに憤りを感じていたのだ。
食堂係の女たちの結束を感じながら、トリスタンはようやく慎重に立ち上がった。
「サイモン、今はこの場をどうするかだ」
「そ、そうですよね」
ドアの向こうではまだ山賊がいるのだ。
ずっとドアをバンバン叩いていたし、バンゼル語で叫ぶ声もずっと聞こえていた。
『おいなんか反応しろよ!放置すんなよ!』と言っていたのだが、エリカしか理解できず、そのエリカもまたトリスタンのことで頭がいっぱいで、正直一時忘れていた。
エリカの処置で復活したトリスタンは、エリート騎士と見習い騎士を集めた。
反撃の作戦を練るつもりなのだが、ここで食堂係の女たちが出しゃばった。
「あたしらも戦うよ!」
「あなたがたの働きには心から感謝している。お陰で命拾いをした。だが本来なら我ら騎士団が前に立つべきであり、女性を危険に晒すなど、我が身の恥と心得ねばならない」
「そんなことっ」
ミモレは反論しようとしたが、スッと前に出てきた無骨な手に制される。
「どうか、我々にあなたがたを守らせてくれ」
トリスタンの真摯な言葉に、その場にいたすべての食堂係の女がときめいた。今、久しぶりに乙女扱いされた気がする。
しかし守るとはいえ、この狭い調理場もそのうち戦いの場になってしまう。
「どこか隠れられる場所があればいいのですが…」
サイモンも目を配らせていると、ミモレが言った。
「あたしらが戦いの邪魔になるっていうんなら、地下に身を隠すよ」
トリスタンが僅かに目を細める。
「地下?」
「ああ、食料保管室だよ」
ミモレは壁際を指さした。
転倒防止用の柵に麻袋が掛かっているため気づきにくいが、その奥に地下へと続く階段が覗いていた。
「それは食堂にも出入口があるのか?」
「ずっと前はあったんだけど、今は閉じられてるよ」
見習い騎士たちが女たちの見ていない隙に食料を盗んで部屋で食べるという事例が相次いだため、今では出入口は調理場のみになっている。
「通じればやつらの背を突けるか」
「見てきます」
サイモンに頷いたトリスタンだが、ミモレはすぐに首を振る。
「南京錠をかけているんだけど、鍵は行方不明なんだ」
ミモレがうっかり寝床に持ち帰ってしまい、管理を怠ったせいで紛失したのが、悪びれる様子は砂一粒ほどもない。
「鎖もガチガチにかけてるしね、ありゃ開かないよ」
断言されるとトリスタンは余裕のある微笑を向けた。
ミモレは色男のその表情に耳から湯気が出る。
「鍵の施錠にかかれば、このサイモンの右に出るものはいない」
行け、と命を下されたサイモンは、褒められたことに照れながらも、得意げな様子で地下へ降りていった。
その間も、扉の外からは山賊の太い声がし、板戸が激しく震える。
トリスタンは調理場全体を見渡し、静かに思考を巡らせた。
そしてその目が、アーチ形の窓へ向き、その手前にある竈に移る。
「副長…?」
騎士の誰かが声をかけた時、トリスタンは女たちへ顔を向けた。
「もう少しだけ力を借りたい。竈に薪をくべ、ありったけの香辛料を投げ込んでくれないか」
女たちは一瞬唖然とし、次には瞳を輝かせた。
「あいよ!」
「任しときなっ!」
何をする気なのかはわからないが、頼られたことが嬉しくてやる気に溢れる。
腕をまくり、無駄に首や手の骨をボキボキ鳴らし、これから喧嘩をしに行くような雰囲気を纏って歩み出した。
エリカも動き出そうとすれば、トリスタンに肩を叩かれ制された。
「君はバンゼル語がわかるだろう?」
「は、はい」
「扉の向こうにいるやつらの声を聞き取ってもらえないか。なんでもいい。情報があれば役に立つ」
「わかりました!」
「だがあまり扉に近づきすぎるな」
「はい」
エリカが耳を澄ませている間、トリスタンは騎士たちに今後の動きを伝え始めた。また、手の空いた女たちに武器になりそうな調理道具を集めるように指示も出す。
「理解できたか」
作戦の全貌を伝えきると、騎士たちは「はい」と返事をした。
同じとき、サイモンが地下から戻ってきた。
「副長」
「鍵は開いたか?」
答える代わりに外した南京錠を見せびらかすが、表情は苦いものでも噛んだよう。
「板の上に何か乗ってるのか、持ち上がらないんですよね」
「食器棚を置いてるので。いくら男性の力でもあれは無理ですよ」
発言したのはメアリーだった。
いつも天真爛漫なメアリーは、顔は青ざめ、両手はひどく震えている。さきほど女たちが暴れていた時も、メアリーは調理場の陰に隠れていた。
物怖じしない他の食堂係の女とはまるで違うが、この状況下ならむしろこのような怯えた反応が普通だろう。
「サイモン、どう思う?」
「そうですね…。一人では無理だと思いますが、何人かで一斉に押し上げればなんとかなるかもしれないです」
「わかった。では作戦は変更せず遂行する。サイモン、力が強そうなやつを三人、一緒に連れていけ。開ける時は合図をしろ。無理ならすぐに戻れ」
「はっ」
サイモンは早速、見習い騎士に目を向けた。
今日の訓練の様子を思い出しながら、瞬発力のある力仕事が得意そうな男を三人、すぐに選出した。
その後ろで女たちは鍋に唐辛子や胡椒を豪快に放り込んでいく。
「よし。君たちも地下へ行き、身を隠していてくれ」
女たちはなおも「でも戦えるよ?」と力こぶポーズをしてみせるが、トリスタンは笑顔で首を横に振る。
渋々地下へと降りる様子を見たあと、エリカに声をかけた。
「なにかわかったか」
「はい。おそらく食堂には三十二人。調理場の裏口にいるのは五人のようです。それから宿舎の西側に、逃走用の馬車を用意しているみたいです」
「そうか。ありがとう」
役に立てている事が嬉しくて、エリカはもっと情報を聞こうと再び扉に耳を傾けようとした。
「君も地下へ行ってくれ」
「でもまだ」
「ここは危険だ」
短くも強い調子で言い切られ、エリカはハッと顔を上げた。
射抜くような眼差しに言葉以上の意志を感じる。
(ここに私がいればただの足手まといになるわ…)
「わかりました。…トリスタン様、どうかご無事で」
そう告げてから地下への階段へ駆け出すエリカを、トリスタンは見つめる。
なぜか目を離すのが惜しいような、胸の奥をそっと突かれるような妙な感覚だ。
だが今は考えている場合ではなかった。
白い煙で竈の上が霞始めたことに気づき、トリスタンは短笛を一度短く吹いた。
それは作戦開始の合図。
事前の指示通り騎士たちは包丁や鍋、陶器の食器を持ってそれぞれの持ち場につく。
食堂を見渡すアーチ形の板を僅かにずらし、扇で風向きを調整。さらに調理場の窓にも小さな隙間を開け、風の流れを重ねた。
その結果、竈からのぼる白い煙はアーチ窓の隙間から外へ流れ出し、敵だけを包みこむように漂っていった。
扉や窓を突破しようとしていた山賊たちは、流れ込んできた煙にせき込み、バンゼル語で悪態を響かせる。
「煙は上にたまる。腰を落として構えろ」
トリスタンが素早く言うと、次には短笛を口に運び、連続で二度鳴らした。
これは攻撃の合図。
食堂につながる扉とアーチ窓を一気に開け放ち、騎士たちが一斉に陶器の食器を投げ飛ばした。
それは煙に視界を奪われた山賊に次々と当たり、悲鳴が上がる。
その隙を突き、トリスタンを先頭に扉から飛び出した騎士たちは、煙を吸わぬよう注意しながら、目を開けられずに狼狽える山賊を調理具で打ち据える。
だが優位だった時間はほんの僅か。
食堂は視界が利かず、数の上では騎士たちが劣勢。
白煙の中から無差別に振り下ろされる刃を、平鍋で必死に受け止めるのが精いっぱいで、香辛料を含んだ煙は容赦なく目を刺してくる。
その刹那、食堂の入り口付近から長く伸びる短笛の音が響いた。
サイモンからの合図だ。
答えるようにトリスタンが短笛を吹き返すと、床下に潜んでいたサイモンたちが一斉に床板を突き上げた。
棚が傾き、食器が雪崩れ落ち、派手な割れ音が食堂に響き渡る。
『な、なんだ!?』
山賊たちが目を白黒させる間に、雄叫びと共にサイモン率いる四人の騎士が飛び出し、その背後へ襲いかかる。
「火を消せ!」
トリスタンの号令に、調理場に残る騎士が竈と鍋に水をぶち込み、激しい蒸気が上がった。
作戦通り騎士らが窓を次々と開けていくと、白煙が外へと逃げていく。
視界が晴れてもまだ続く目の痛みにまともに前が見れず、正面からも背後からも叩かれ、山賊の隊列はたちまち瓦解した。
そこへ調理場組が援護に回る。
熱湯や熱い油をぶちまけ、とにかく目に入った器具を投げつける。
お玉、木べら、缶詰、など。
武器程の攻撃力はないが、当たると地味に痛そうだ。
「調理器具やべぇ…!」
意外に戦えることに、投げつける騎士たちは思わず笑いそうだった。
混乱極まる戦場の中心で、トリスタンは頭目を捉える。
出刃包丁の柄の方を振り落とすと、急所に見事命中。
首領は白目を剥き、床へ崩れ落ちた。
静寂の中に残ったのは、勝利の息遣いと焦げた香辛料の匂い。
調理場という即席の要塞で、彼らは見事に逆転を成し遂げたのだった。




