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94.怒りの矛先

陽一の言葉に励まされて、香織の気持ちはとても軽くなった。

それどころか、軽くなり過ぎたようだ。


『誰にも認められなくたって構わない。どっちにしろ別れるつもりは無いんだから』


この言葉にすっかり心を射抜かれ、フワフワと無重力状態になってしまった。

プロポーズされたわけではないが、この力強い言葉に不安など吹き飛んでしまった。


陽一と一緒ならどんな困難な道でも乗り越えて行けそうだ。

それこそ茨の道など、容赦なくザクザクと踏み潰して進んで行くだろう。


それ以来、香織は無駄に頭を悩ませるのは止めた。


当然、悩むのを止めたところで、事態は変わらない。

だが、悩んでも悩まなくても事態が変わらないなら悩まない方がいい。

いや、悩まない方が前に進める気がする。

香織は気合を入れ直した。



                    ☆



正則の怒りを一身に浴びたのは綾子だった。

綾子も矛先が自分に向くことは重々分かっていた。


正月は幸い、隼人の見合い相手が居たために、彼女に正則の醜態を見せないように、隼人親子がひたすら正則のご機嫌を取っていたので、さほど害を被ることはなかった。


幾ら正則からの誹謗には慣れているとはいえ、流石に、親戚一同の前で罵詈雑言を浴びるのは堪える。

綾子は、恋人を連れてきた隼人には感謝した。


しかし、正則は正月が明けると早々に綾子に電話をしてきた。

呼び出すことさえ、時間が惜しかったのか、電話口で怒りをぶちまけた。


「一体何を考えているんだ!陽一は!」


「お義父様、落ち着いてくださいな」


「落ち着けだと!?お前こそ何を言っている!お前が陽一を言い聞かせることが出来なかったからこうなっているのだろうが!」


「そうですわね。私の不徳の致すところでございますわ」


「そんな言葉ではすまん!いいか!すぐに、陽一に分かれるように説得しろ!あんな遺児の上に農家の娘など、佐田の家に相応しいわけがないだろうが!」


「私も手を尽くしたのですけれども、なかなか上手くいきませんで。それに、もう陽一もいい大人ですから、親の言うことはなかなか聞きませんわ」


「言うことを聞かないのはお前のせいだろう!お前の育て方が悪かったからだ!」


「確かに間違ったかもしれません」


「いいか!すべてお前の責任だ!さっさとあの娘と別れさせろ!正幸と陽一と二代に渡って馬の骨など、冗談じゃない!」


「お義父様、血圧が上がりますわよ、落ち着いてください」


綾子の言葉を聞き終わらないうちに、ガチャンと電話を切る音がした。


「ふう」


綾子は溜息を付いた。


「奥様、電話をお切りしますね」


「ええ、お願い。ありがとう」


一人の女性が、小さなテーブルの上に置いてあった綾子のスマートフォンを取り上げると、スピーカーでの通話を切った。


「ごめんなさいね、騒々しくて。まったく身内の恥を晒してお恥ずかしいわ」


綾子は顔にパックをし、横になったまま答えた。


「いいえ、気苦労が多くて大変でいらっしゃいますね」


綾子の頭をマッサージしながら、一人の女性がにこやかに対応した。

電話を切った女性は、綾子の足元に戻ると、フットマッサージを再開する。

三人目の女性が綾子の手にマニキュアを塗っていた。


ここは綾子の自宅のサロン部屋だった。


施術を受けている最中に電話が来たので、そのままスピーカーで対応したのだ。


「まったくよ、本当に疲れるったら」


綾子が呟いて、目を閉じた。


その様子にネイリストは唖然とし、固まっていた。

ヘッドマッサージとフッドマッサージの女性はもうベテランで、綾子と正則の会話を聞いても、澄ましてマッサージをしている。

だが、ネイリストは若い女性だった。

携帯電話から聞こえる正則の怒号に驚いて手元が狂い、見事にマニキュアを指まで塗ってしまった。

さらに、その怒号や罵声にも臆せず、マッサージを受けながら答えている綾子に、目が点になってしまった。


ベテランエステティシャンに声を掛けられ、我に返ると、慌てて綾子に謝った。


「ふふ、いいのよ。気にしないで。驚かせてごめんなさいね」


綾子がネイリストに答えた。


「それにしても、お怒りでしたね」


ヘッドマッサージの女性が声を掛けた。


「そうね。息子の恋人がどうにも気に入らないらしいわ。嫁に来てくれるだけでも有難いと思って欲しいくらいなのに」


綾子はブツブツ文句を言うと、


「でも、今電話が掛かってきて良かったわ。いくら歳で神経が太くなったとはいえ、一人で暴言を聞くのは気が滅入るもの。あなた方には嫌な思いをさせて申し訳ないけれど」


再び目を閉じた。


普通は聞かれる方が嫌じゃないだろうか?という疑問を飲み込み、綾子の大物ぶりに感嘆しつつ、三人はいつも以上に労いを込めて施術に力を入れた。


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