66.不機嫌じゃなくご機嫌
今日も陽一の帰りは遅かった。
遅くなるから先に寝てろという陽一からの連絡があったものの、秘書の不機嫌だった理由と問いただそうと、香織は頑張って起きていた。
だが、いつの間にかソファで眠ってしまった。
朝、目が覚めるとベッドの中にいた。
隣を見ると、陽一が寝ている。
(やばっ・・・、寝落ちしちゃったんだ)
昨夜、陽一の帰りを迎えた記憶も無ければ、歩いて寝室まで行った記憶も無い。
陽一がベッドまで運んでくれたのだろう。
(起こしてくれればよかったのに・・・)
口は悪いのに、こうした陽一の優しさに胸がキュンとさせられる
どこまで出来る男なのだろうと感心しながら、そっとベッドから下りた。
朝食の準備を終えると、香織は陽一を起こしに来た。
起こすのが憚れるくらい、よく眠っている。
昨日、そんなに遅かったのだろうか?
そう思いながら、陽一を覗き込んで、肩を揺すぶった。
「朝ですよ、起きてください」
陽一は薄目を開けたと思った途端、香織に向かって手を伸ばした。
「うわっ!」
いきなり首に手を回され、バランスを崩した香織は陽一の上に倒れ込むと、そのままベッドに引きずり込まれた。
「ちょ、ちょっと!朝ですよ!朝!起きてくださいって!」
香織は陽一の腕から逃れようと、胸を押し返した。
だが、ガッチリとホールドされて動けない。
「分かったって・・・。起きるから。ちょっと静かにしろ・・・」
陽一は、目を閉じながらそう言うと、香織の頭を自分の胸に抱え込んだ。
そして優しく髪の毛を撫でた。
(う・・・、朝から何の拷問だ、これは・・・)
朝から陽一の甘い攻撃にノックダウン寸前のところを何とか耐え、香織は無理やり陽一の腕から逃れようとジタバタもがくと、やっと陽一が腕を緩めた。
「も、もう!ホントに起きないとダメですよ!」
手を緩めた隙に、香織は無理やり陽一の胸を押しやった。
陽一は真っ赤な香織の顔を覗き込むと、
「分かったよ、起きるから、ほら」
と目を閉じた。
「う・・・」
「なに?してくれないなら、起きない」
陽一は意地悪そうに笑うと、もう一度目を閉じた。
香織は結局、その笑みに陥落した。
そっと陽一に口づけすると、陽一は満足したように起き上がって、ベッドから下りた。
☆
朝食を取りながら新聞を読んでいる陽一に、香織は今日の予定を聞いた。
「今日も遅いんですか?お夕飯どうしますか?」
「今日は昨日ほど遅くならないから、飯は家で食うよ」
陽一は新聞に目を落としたまま、そう答えると、
「ああ、そうだ。週末の金曜日は会食が入ったから、飯はいらない」
と思い出したかのように付け加えた。
「分かりましたー」
香織は先に食事を終えると、身支度を整えに自分の部屋に戻っていった。
☆
香織は昨日の秘書の件をすっかり忘れていた。
午後になり、部長に書類のお使いを頼まれた時になって、やっと思い出した。
(わ、忘れてた!)
香織は重い足取りで秘書室に向かうと、例の秘書を探した。
彼女を見つけると、恐る恐る話しかけた。
「お疲れ様です。副社長と常務宛の書類です・・・」
「お疲れ様です。お預かりいたします」
昨日の先輩女子社員からの報告とは全然違い、いつも通り礼儀正しい彼女がいた。
香織は思わず、瞬きして彼女をじっと見てしまった。
「??」
そんな香織に、秘書は不思議そうに顔を傾げた。
「どうしました?あ、もしかして、お返しの書類とかあったのでしょうか?何も言付かってはおりませんが」
「い、いいえ!何でもありません。失礼いたします」
香織は慌てて頭を下げて、秘書室を出ようとした。
すると、秘書は香織を呼び止めた。
「あ、そうだ、原田さん。ちょっと待って!」
秘書はそう言うと、自分の席から高級菓子の箱の蓋を開けて、香織に差し出した。
「良かったら、お一つどうぞ。頂き物なんですけどね」
「え?いいんですか?」
もちろんと秘書はにっこり答えた。
これのどこが不機嫌なんだ?
先輩が対応したのは別人だったのではないのか?
香織は不思議に思いながら、差し出された箱からクッキーを一つだけ取った。
「ふふ。実はこのお菓子ね、副社長から頂いたんです。昨日、急な仕事を対応したお礼って」
秘書は満面の笑みを浮かべてそう言った。
それを聞いて、香織はクッキーを落としそうになった。
慌てて、クッキーを掴み直すと、
「へ、へえ!そうなんですね!い、いいんですか?頂いちゃって」
と、上ずった声を出してしまった。
「ええ。いつも書類のお使い、ご苦労様です」
そうにっこりと微笑んだ。
「ははは、ありがとうございます。では遠慮なく頂きます・・・」
香織も無理やり笑顔を作って、会釈した。
心臓にグサリと罪悪感と言う矢が突き刺さる。
行きと同様、重い足取りで階段に向かうと、ダラダラとだらしなく7階まで下りて行った。




