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56.仕事が早い男

香織はソファに座ると、目の前のローテーブルのを見た。

数種類の新聞と数冊の経済雑誌が無造作に置かれている。

雑誌には幾つものポストイットが貼られていた。


気になって一冊とってみると、ポストイットが付いているページには、記事に丸が付けられたり、文字が書き込まれたりしている。

他の雑誌も新聞もそうだ。

ただ目を通しているわけではなく、隅々まで読み込んでいる様子が伺える。


(うっ・・・。経営者っぽい・・・)


香織はますます自分との格差を感じた。

やっぱり、自分は不釣り合いだという思いに襲われる。


どんよりとした気持ちになっている香織の前に、トンっとコーヒーが置かれた。


「飯食ったら、買い物に行くぞ」


香織の気持ちなど気が付かない陽一は、自分もコーヒーを飲みながら、澄ました様子で、もう一度新聞を広げた。


「買い物?何を買うんですか?」


「日用品。お前の」


「はい?」


香織は訳が分からず、瞬きをして陽一を見た。


「すいません。言っている意味が分からないんですけど・・・」


「だから、お前が一緒に住むのに必要な日用品を揃えるって言ってるんだよ」


「・・・」


「今日からここに住めばいい。空いている部屋もあるし」


「・・・」


「会社もお前の家からよりずっと近いしな」


「・・・」


思考回路が一時停止になったまま、香織は陽一を見つめた。


「何?何か不都合でもある?」


陽一の問いかけに、香織はやっと思考が動き出した。


「ちょ、ちょっと!何言ってるんですか?いきなり一緒に住むって本気ですか!?頭大丈夫ですか?!」


立ち上がって叫ぶ香織を、陽一は新聞越しに見上げると、


「本気だけど?頭も至って普通」


と澄まして答えた。


「いやいやいや、おかしいでしょ?どう考えても!いきなり同棲って!」


香織の動揺など気にも留める様子もなく、新聞に目を戻すと、


「まあ、確かに少し早いとは思うけどな。でも、今のタイミングが丁度いいんだよ」


新聞をめくりながら、平然と答えた。


「何で?!」


食い下がる香織に、陽一は新聞を畳むと、テーブルに置き、香織を見上げた。


「これから、暫く忙しくなるんだよ。多分、すれ違いも多くなる。でも、住んでいる家が一緒なら、必ず毎日顔は見れるだろ?」


「・・・っ」


香織は予想外のまじめな返答に言葉を詰まらせた。

てっきり王子様的な自分勝手の独占欲で、大した理由もなく言っているのかと思っていたのに。

これから先の二人の事を考えている陽一に、香織の胸はキュンと音を立てた。


「で、でも・・・」


とは言え、二つ返事でOKしていいものなのか?

おじいちゃんもおばあちゃんも昭和の人間だ。

結婚もしていない男女が一緒に住むことなど許してくれるとは思えない。


それ以前に早すぎる!

思いが通じ合ってから、たった1日しか経っていないじゃないか!


それに、まだ解決していない問題だって山積みだ。

綾子との約束を反故した件も、湊の件も・・・。


頭を抱えたまま、いつまでも首を縦に振らない香織に、


「何?俺と暮らすのそんなに嫌?」


頬杖を付いてじっと香織を見た。


「い、いや、そういう問題じゃ・・・」


「じゃあ、どんな問題だよ?」


「あるでしょう!いっぱい!お母さまの件だって・・・。そもそも『同棲』ということの倫理的な観念が・・・」


「お前、いつの時代の人間?」


「私というより、祖父母の概念ですよ!昭和ですよ、昭和!」


陽一は派手に溜息を付くと立ち上がった。


「分かったから。その『いっぱいある問題』とやらは、全部俺が何とかするから気にするな」


(くそ~、なんて男前な回答・・・)


香織は言葉に詰まった。


「で、でも!」


「あー、分かった、分かったって」


陽一は両手を上げた。そして香織の傍まで来ると、


「『俺が毎日お前と一緒にいたいから、一緒に住んでください』。これでいいか?」


そう言って香織を覗き込むと、チュッと音を立ててキスをした。


「!!」


甘い言葉といきなりの口づけに、真っ赤になって目を丸めている香織を可笑しそうに見つめると、


「それに、もう手配しちゃったんだよね」


とスマホをチラつかせた。


「手配って・・・?」


香織は恐る恐る訊ねた。


「引越し。お前のアパートから俺のマンションへの」


「!!!」


香織は目玉が飛び出そうなほど驚いた。

もう言葉が出ない。


(さ、さっきの電話って・・・。もしかして・・・)


陽一は口をパクパクさせている香織を見下ろすと、ニヤリと笑った。


「俺、仕事早いんで」


その時、チャイムが鳴った。


「ウー●ーイーツでーす」


モニター越しに爽やかな声が聞こえる。


「飯、来たぜ」


呆けている香織を残し、陽一は玄関に向かった。

香織はガックリとその場にへたり込んだ。


(全然太刀打ちできません・・・)


香織は再び頭を抱えた。


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