第三章:共鳴するノイズ
息を切らし、路地裏の壁に手をつく。
カラオケボックスの喧騒はもう聞こえない。心臓が、まだドクドクと警鐘のように鳴り響いていた。
「……ま、マジかよ、小鳥……」
ゲーム仲間の一人が、ぜえぜえと息をしながらも、興奮した目で小鳥を見た。
「いきなり殴るとか、ロックすぎんだろ!」
仲間たちは、恐怖よりも非日常のスリルに酔いしれているようだった。
冬馬だけが、事態の深刻さに青ざめていた。傷害、無銭飲食。自分の人生の記録に、こんな言葉が刻まれる可能性があったのだ。
「とりあえず、どっか入るか。俺、喉カラカラだわ」
仲間の一人が、近くの居酒屋の看板を指差す。
その言葉に、冬馬は我に返って叫んだ。
「だめだ! 俺は未成年だぞ!」
すると、小鳥はきょとんとした顔で冬馬を見た。
「俺もそうだよ?」
当たり前のように返され、冬馬は言葉を失う。この人間の中では、法律や常識など、何の意味も持たないらしい。小鳥は、呆然とする冬馬の肩を叩くと、ニヤリと笑った。
「じゃあ、俺の家で飲むか?」
***
小鳥のアパートは、想像通りの混沌に満ちていた。
玄関には脱ぎっぱなしのブーツが転がり、部屋にはCDの山とゲームのコントローラー、そして無数のケーブル類がとぐろを巻いている。その中心に、年季の入ったこたつが鎮座していた。
仲間たちが、コンビニで買い込んできた酒とつまみをこたつの上に広げる。
小鳥はテレビの電源を入れると、ビデオデッキにテープを押し込んだ。画面に映し出されたのは、WWFの熱狂的なプロレスの試合だった。
「やっぱ、最高だなストーンコールドは!」
小鳥は、まるで少年のような目で画面に釘付けになっている。
試合が盛り上がり、ヒーローであるストーンコールド・スティーブ・オースチンがリングの両コーナーで缶ビールを掲げる。
「いくぞ、お前ら!」
小鳥が叫ぶと同時に、二本の缶ビールのプルタブを開け、激しくぶつけ合わせた。
プシュウッ!という音と共に、泡立ったビールが天井まで吹き上がる。そして、そのまま缶に残ったビールを頭から浴び、喉に流し込んだ。
「うおっ、冷てえ!」「やめろバカ!」
仲間たちと、そして隣にいた冬馬も、盛大にビールのシャワーを浴びてしまった。だが、小鳥はそんなことなどお構いなしに、腹を抱えて笑っている。
画面の中で、もう一人のスター選手、ザ・ロックが必殺技の準備に入る。観客が熱狂する中、小鳥だけが悪態をついた。
「出たよ、ピープルズエルボー。見掛け倒しのプロレスごっこが」
その批評は、音楽に対するものと全く同じ、純粋な「本物」へのこだわりから来ていた。
宴は深夜まで続いた。
やがて、ゲーム仲間たちは一人、また一人と酒に潰れ、こたつの周りで雑魚寝を始める。
小鳥は、まだ酔いが回りきっていないのか、つまみのピスタチオをポリポリと食べながら、眠っている仲間たちを眺めていた。そして、何かを思いついたように、悪戯っぽく笑う。
小鳥は、静かな足取りで眠る仲間の一人に近づくと、そのTシャツの首元から、つまんでいたピスタチオの殻を数枚、背中へと滑り込ませた。
仲間が、寝返りを打ちながら「んん……」と唸る。その反応を見て、小鳥は声を殺して爆笑していた。
その無邪気な姿も、長くは続かなかった。
ひとしきり笑い終えると、急に電池が切れたように動きが止まり、こたつに突っ伏して、そのまま静かな寝息を立て始めた。
嵐が、過ぎ去った。
テレビの音だけが響く部屋で、酒を飲んでいない冬馬は、ただ一人、覚醒していた。
目の前で眠る、小鳥の顔を見つめる。
暴力的なまでのカリスマ、予測不能な行動、子供のような無邪気さ。そして今、目の前にあるのは、すべてを脱ぎ捨てた、静かで、美しい寝顔。
(……惹かれている)
そう自覚してしまい、冬馬は心臓が凍りつくような感覚に襲われた。
この感情は、何だ?
アーティストへの憧憬か。同じゲームを愛する者への友情か。
それとも───。
性別も、常識も、何もかもがめちゃくちゃなこの存在に、どうしようもなく惹きつけられている。その事実が、冬馬を混乱させ、恐怖させた。
考えれば考えるほど、答えは出ない。
冬馬は、頭を振ると、自分の感情から逃げるように、こたつの空いているスペースに身体を滑り込ませた。
テレビの光が、眠る小鳥の顔を静かに照らしている。
やがて、思考の渦も、疲労に呑み込まれていく。
冬馬は、こたつの温かさの中で、ゆっくりと意識を手放した。
次に目を開けた時、窓の外は、もう白み始めていた。