第二章:アーケードの好敵手
昨夜の虚無感が嘘だったかのように、空は憎らしいほど青く晴れ渡っていた。
バンドを壊し、見知らぬ誰かに柄にもないメールを送ったことなど、世界の誰も知らない。日常は、何も変わらずに続いていく。
小鳥は、昨日コンビニで買ったカップラーメンの空き容器をゴミ箱に押し込むと、ギグバッグは部屋に置いたまま、着慣れたパーカーを羽織ってアパートを出た。
向かう先は決まっている。
柏駅東口の、雑居ビルの地下にあるゲームセンター。そこが、小鳥にとっての唯一の聖域だった。
重い扉を開けると、生暖かい空気と、電子音の洪水が全身を包み込む。格闘ゲームの打撃音、音楽ゲームのビート、UFOキャッチャーの陽気なメロディ。そのすべてが混じり合った混沌こそが、小鳥の心を奇妙に落ち着かせた。
小鳥は、フロアの最も奥、対戦格闘ゲームが並ぶ一角へと向かう。
お目当ての筐体の前に立つと、百円玉を投入し、使い込まれたレバーを握った。ブラウン管に映し出されたタイトルは『堕落天使』。派手な必殺技や連続技が主流の時代に、リアルな挙動と独特の駆け引きが求められる、あまりにも玄人好みの一作。ほとんどの客が目もくれないこのゲームが、小鳥のお気に入りだった。
慣れた手つきでキャラクターを選び、CPU戦を進めていく。
指先がレバーとボタンの上で踊る。思考は、ゲームの駆け引きだけに純化されていく。昨夜のことも、未来のことも、今はどうでもいい。
数人のCPUを倒した、その時だった。
画面の向こう側、対戦台のモニターに『WARNING! A NEW CHALLENGER HAS ARRIVED』の文字が点滅した。
乱入。
こんなマイナーなゲームに、この時間から挑んでくる物好きがいるのか。小鳥は、少しだけ口の端を吊り上げた。
しかし、対戦は意外なほど一方的な展開になった。
相手の動きは、これまでこの店で戦ってきた誰とも違う。的確な間合い管理、無駄のない差し合い。小鳥が油断していたわけではない。単純に、相手の方が一枚上手だった。
なす術もなく、小鳥のキャラクターがK.O.される。『YOU LOSE』の無慈悲な文字。
「……ほう」
思わず、声が漏れた。
小鳥は、椅子から半分だけ腰を上げ、対面の筐体を覗き込む。
そこに座っていたのは、見慣れない男だった。ブレザーにスラックス。おそらく、どこかの進学校の制服だろう。ゲームセンターの薄暗い照明の中でも分かる、育ちの良さそうな、綺麗な顔立ち。こんな男が『堕落天使』をプレイするとは、到底思えなかった。
面白い。
小鳥は、もう一枚百円玉を投入すると、今度は本気で使うメインキャラクターを選択した。
再び、対戦開始のゴングが鳴る。
二戦目は、壮絶な読み合いになった。
技と技が交錯し、互いの思考が火花を散らす。ミリ単位の駆け引き。一瞬の油断が敗北に繋がる緊張感が、たまらなく心地良い。
だが、最後は小鳥の執念が上回った。画面に大きく『YOU WIN』の文字が踊る。
小鳥は、そのままCPU戦を再開した。
だが、気配で分かる。あの男は、席を立っていない。筐体の向こう側から、じっとこちらのプレイを見ている。
小鳥は、わざと高難度のコンボを決めたり、CPU相手に華麗な立ち回りを見せつけたりした。
全ての敵を倒し、エンディングロールが流れ始める。
小鳥はレバーから手を離すと、椅子を引いて立ち上がり、対面の男の元へと歩いていった。男は、小鳥に気づくと、少し驚いたように立ち上がった。
「お前、うまいな。この店じゃ見ない顔だけど」
小鳥が、ぶっきらぼうに話しかける。
「……君こそ。まさか、このゲームで負けるとは思わなかった」
男──冬馬は、悔しさよりも感心したというような、素直な声で答えた。
「こいつは、駆け引きが全てだからな。他のゲームとは違う」
「ああ、本当に。このリアルなモーションと、シビアなダメージ……素晴らしいゲームだ」
マイナーなゲームの話で、二人の間に奇妙な共感が生まれる。
しばらく立ち話をしていると、小鳥の周りに、いつものゲーム仲間たちが集まってきた。
「お、小鳥! 今日も来てんじゃん!」
「これからカラオケ行くんだけど、お前もどうよ?」
小鳥は、仲間たちに「おう」と短く返すと、冬馬の方を向いた。
「そういうわけだから、俺たちはこれからカラオケに行く。……お前も、来るか?」
それは、ただの気まぐれだった。
この、自分とは全く違う世界に住んでいるであろう男が、どんな反応をするのか。少しだけ、興味が湧いただけだった。
冬馬は、一瞬、戸惑ったような顔をした。
学校のクラスメイトでもない、得体の知れない人間に、こんな風に誘われたのは初めてだった。普段の自分なら、間違いなく断っている。だが、目の前にいる小鳥という存在が、冬馬の常識を麻痺させた。
「……いいのか?」
「俺がいいって言ってんだろ。行くぞ」
有無を言わさぬ口調。しかし、そこには不思議な引力があった。
冬馬は、まるで何かに導かれるように、無言で頷いた。
***
駅前のカラオケボックスの、安っぽい照明がチカチカと点滅している。
革張りのソファはところどころが擦り切れ、テーブルには前の客が残したであろうドリンクの跡がうっすらと残っていた。小鳥のゲーム仲間たちが、我先にとリモコンを奪い合い、流行りのJ-POPを次々と入れていく。
冬馬は、そんな騒乱から少しだけ距離を置き、部屋の隅で黙ってグラスを傾けていた。場違いな空間であることは、自分が一番よく分かっていた。
やがて、小鳥の番が来た。
仲間の一人が「よっしゃ、待ってました!」と叫ぶ。
小鳥が入力したのは、Black Sabbathの「War Pigs」。重苦しいギターリフが鳴り響いた瞬間、さっきまで騒いでいた仲間たちの熱が、わずかに冷めたのを冬馬は感じた。彼らは、この曲を知らないのだ。
小鳥は、そんな空気など意にも介さず、マイクを握りしめる。
反戦を歌う重い歌詞を、地の底から響くような声で歌い上げていく。それは、カラオケで盛り上がるための歌ではなかった。魂の叫びそのものだった。
だが、その本気のパフォーマンスとは裏腹に、仲間たちは手持ち無沙汰にタンバリンを叩くだけだった。
一曲歌い終えた小鳥は、汗を拭いもせず、冬馬の隣にどかりと腰を下ろした。
「……どうだ、今の」
「すごいな。魂がこもってるのが分かった」
冬馬が素直な感想を述べると、小鳥は少しだけ満足そうに笑った。
「お前の番が来たぞ」と、仲間の一人がマイクを冬馬に差し出す。
冬馬は、慌てて手を横に振った。
「いや、俺はいい。歌は苦手なんだ」
「なんだよ、ノリ悪いなー」
「俺は、曲を弾く専門なんだ」
冬馬がそう答えると、小鳥は興味深そうに冬馬の顔を覗き込んだ。
「へえ。……じゃあ、今度聴かせてみろよ」
その言葉に、冬馬の心臓が小さく跳ねた。
小鳥は、仲間たちの方へ向き直ると、リモコンを掴んで言った。
「悪かったな、さっきのは。じゃあ、お前らが好きな曲、歌ってやるよ。確か、『逮捕しちゃうぞ』が好きだったろ?」
仲間たちが「え、マジで!歌えんの!?」と沸き立つ。意外な選曲だった。普段の小鳥からは、アニメソングを歌う姿など想像もできない。
画面に表示された曲名は、寺田恵子(SHOW-YA)の「Thank you, love」。
イントロが流れる。
そして、小鳥が歌い始めた瞬間、冬馬は息を呑んだ。
心のままに生きて 無茶な事してるけど
強いだけじゃ 淋しすぎる
手が届くほどそばに あなたを感じるのに
ただひとつの 言葉がでない
胸の奥のきもちが こわれそうで
何も言わなきゃ 始まらない……
さっきまでの、重く引きずるような声ではない。力強く、それでいてどこまでも伸びやかで、女性的とも言える美しいハイトーンボイス。
それは、冬馬が子供の頃に聴いていたクラシック音楽のような、完璧な音程と、魂を揺さぶる表現力を兼ね備えていた。
(……なんだ、これ……)
この人間は、一体何者なんだ。
悪魔のように歌ったかと思えば、天使のように歌う。
冬馬は、グラスを握りしめたまま、動けなくなった。小鳥という存在に、完全に心を奪われてしまった。
歌い終えた小鳥が、得意げに冬馬に笑いかける。
「寺田恵子、良いだろ? これでも、日本のロックの女王なんだぜ」
そう言うと、小鳥は続けざまにIron Maidenの「The Trooper」を選曲した。
だが、あの有名なギターリフが始まった途端、小鳥の眉間に深いシワが寄る。
「……チッ。音が軽すぎんだよ、この店は」
スピーカーから流れるペラペラなサウンドと、壁の向こうから微かに漏れ聞こえてくる、隣の部屋の下手くそな歌声。そのすべてが、小鳥の逆鱗に触れた。
「我慢ならねえ。おい、お前ら、ちょっと待ってろ」
そう言うと、小鳥は部屋の隅に置いていた自分のギグバッグを開け、中から小さなアンプとシールドを取り出した。そして、部屋のテレビの音声出力端子に、無理やりアンプを接続する。
「な、何やってんだよ小鳥!」
仲間が慌てて止めるが、もう遅い。
小鳥は、どこからともなく取り出した愛器『スタナー』をアンプに繋ぐと、ボリュームをフルにして、「The Trooper」のギターリフを爆音で弾き始めた。
ズガガガガガッ!
カラオケボックスの一室には到底似つかわしくない、本物のディストーションサウンドが炸裂する。テーブルの上のグラスが、振動でガタガタと音を立てた。
その時だった。
ガンッ!ガンッ!
部屋の扉が、外から乱暴に叩かれた。
「うるせえぞ、てめえら!」
扉の向こうから、野太い怒鳴り声が聞こえる。
小鳥は、ギターを弾くのをやめると、忌々しそうに舌打ちし、乱暴にドアを開けた。
そこには、いかにも柄の悪そうな男が、仁王立ちになっていた。
「あんだ、てめえ……」
男が言い終わる前に、小鳥の拳が、その顔面に叩き込まれていた。
男は、呻き声一つ上げることなく、廊下に崩れ落ちる。
仲間たちが、呆然とその光景を見ていた。
小鳥は、そんな彼らを一瞥すると、スタナーを背負い直し、叫んだ。
「───逃げるぞ!」
その一言で、全員が現実に引き戻される。
一行は、崩れ落ちた男を跨ぎ、料金も払わず、カラオケボックスから駆け出した。
冬馬は、訳も分からないまま、ただ必死に小鳥の背中を追いかけていた。自分の人生が、今、とんでもない方向へと転がり始めたことだけは、確信していた。




