第一章:これを聴いて死ね
柏ALIVEの地下を揺るがす爆音は、中盤のヘヴィなリフへと突入していた。
ステージを縦横無尽に動き回り、観客を煽るボーカルの小鳥。そのカリスマに、フロアのボルテージは最高潮に達している。
インディーズシーンで確固たる地位を築き上げた『METAL THUNDERS』のライブは、今日も成功を収めるかに見えた。
───小鳥の、耳には。
(違う……違う……!)
フロアの熱狂とは裏腹に、小鳥の内面では氷のような怒りが渦巻いていた。
隣でギターを弾く男の、完璧だが魂のないフレーズ。後ろでリズムを刻むドラムの、正確だが感情のないビート。すべてが、小鳥の張り詰めた神経を逆撫でする。
これは、俺が創った音楽じゃない。ただの、手慣れた作業だ。
(───もう、終わりだ)
決断は、一瞬だった。
小鳥は、誰にも気づかれないように、わずかに口の端を吊り上げた。
そして、足元のエフェクターボードに目を落とす。
次の瞬間、ステージ全体を劈くような、耳障りなハウリングが発生した。
「キィィィィィン!!」
それは、機材トラブルとは思えないほど、暴力的で意図的なノイズだった。
小鳥は、まるで本当にトラブルが起きたかのように驚いた表情を作ると、ギターのボリュームノブを滅茶苦茶に回すフリをした。
「……チッ!」
わざとらしく舌打ちをすると、小鳥は演奏を続けようとするメンバーを手で制し、マイクに向かって叫んだ。
「止めろ!音が死んだ!一旦、中断する!」
唐突な宣言に、メンバーは顔を見合わせ、観客からは戸惑いの声が上がる。
小鳥は、何も言わずにギターを肩から外すと、バックステージへと続く扉に一直線に向かった。その背中を、残されたメンバーが呆然と見送る。
楽屋の扉が閉まるなり、小鳥は作り物の驚きを捨て、氷のような冷たい表情でメンバーを待ち構えていた。
後から入ってきたギタリストが、心配そうに声をかける。
「おい、大丈夫か?アンプか?」
「アンプ?違うな」
小鳥は、吐き捨てるように言った。
「死んでんのは、お前らの音だよ」
「……は?」
「さっきのライブ、最悪だった。リズムは走り、グルーヴは死に、ギターソロは練習の成果を発表してるだけ。魂の一欠片もねえ、ただの騒音だ」
そこで初めて、メンバーはこれが機材トラブルではなく、小鳥が仕組んだ「粛清」の場であることに気づいた。
「てめえ、まさかワザと……!」
「じゃなきゃ、どうやってお前らみたいな手合いと話ができる? ステージの上でヘラヘラ笑ってる、腑抜けた偽物と」
小鳥の罵詈雑言に、メンバーの堪忍袋の緒が切れた。
「もううんざりだ!」
ベーシストが叫んだ。「お前の独裁には、もう付き合いきれねえ!」
「結構だ!」ギタリストも続く。「お前みたいな奴とは、もう二度と一緒にやるか!勝手に一人でやってろ!」
怒号が飛び交う中、メンバーは次々と楽屋を出て行った。
「METAL THUNDERSは、今日で解散だ!」
最後に吐き捨てられた言葉と共に、扉が荒々しく閉められた。
がらんどうになった楽屋で、小鳥は深く息を吐いた。
壁の向こうからは、再開を待つ観客の手拍子が聞こえてくる。
すべて、計画通り。
小鳥は、傍らに置かれていた相棒、『スタナー』を静かに手に取ると、再びステージへと続く薄暗い廊下へと足を踏み出した。
観客席に戻った小鳥を待っていたのは、地鳴りのようなブーイングだった。
ステージには誰もいない。ボーカルの小鳥一人が、アコースティックギターを抱えて立っている。何が起こったのか理解できない観客の怒りが、爆発したのだ。
「なんだ、てめえだけかよ!」「金返せ!」
罵声が飛び交う中、小鳥はゆっくりと目を閉じた。そして、その指が相棒『スタナー』の弦を静かに爪弾き始める。
聴こえてきたのは、意外なメロディーだった。
ヘヴィメタルのリフではない。観客の誰もが予想しなかった、あまりにもクラシカルで、あまりにも美しいアルペジオ。伝説のギタリスト、ランディ・ローズが遺したアコースティックの名曲、「Dee」。
繊細で、優しく、そして完璧な技巧で奏でられるその調べは、まるで浄化の光のように、怒号と殺気に満ちた空間に染み渡っていく。一人、また一人と罵声を上げるのをやめ、その信じがたい光景と音色に耳を澄ませた。
わずか数十秒の演奏が終わる頃には、あれほど荒れ狂っていた会場は、水を打ったように静まり返っていた。
静寂。
その中で、小鳥は次の瞬間、まるで人格が変わったかのように、ギターのボディを拳で叩きつけた。
ガッ、というパーカッシブなノイズ。
そして、弦が切れんばかりの力で、ブルージーで歪んだリフをかき鳴らし始める。それは、PJハーヴェイの「Naked Cousin」。
もはやアルペジオではない。魔改造されたアコギ『スタナー』は、小鳥の衝動に呼応し、アコースティックとは思えないほどのノイジーで暴力的な音を吐き出す。
そして、小鳥の唇から、歌がこぼれた。
それは歌というより、呪詛に近かった。
囁くように、何かを吐き出すように、生々しい言葉を紡いでいく。
そして、曲が熱を帯びるにつれて、その声は堰を切ったように解放された。
囁きは、叫びへ。
歌は、ヒステリックなシャウトへ。
ステージの上で膝をつき、髪を振り乱し、まるで何かに取り憑かれたかのように歌い、ギターをかきむしる。それは、計算されたパフォーマンスではなかった。ただ、内側から溢れ出る破壊衝動を、魂を、そのまま音に変換しているだけだった。
技術ではない。ジャンルでもない。
ただ、圧倒的な「本物」がそこにあった。
曲が、弦を引きちぎるような轟音と共に唐突に終わる。
会場は、一瞬、本当に静まり返った。誰もが、目の前で起きた嵐のような出来事を理解できずにいた。
そして、一秒後、それは爆発した。
今日一番の、いや、このライブハウスの歴史に残るであろう、理屈を超えた熱狂と歓声が、たった一人残された小鳥に送られた。
自らバンドを破壊し、たった一人で掴み取った、完璧な勝利だった。
バックステージの出口から、深夜の路地裏に一人で滑り出る。
途端に、まとわりついていた熱気が剥がれ落ち、ひやりとした夜風が汗ばんだ首筋を撫でた。耳の奥では、キーン、という金属音がまだ鳴り響いている。あれだけの歓声を浴びたというのに、今は誰一人そばにいない。
「……結局、あんなもんかよ」
小鳥は、誰に言うでもなく吐き捨てた。
あのメンバーのことだ。今頃、居酒屋で「小鳥は頭がおかしい」だの「あいつの独裁にはついていけない」だのと、傷の舐め合いでもしているのだろう。
「腑抜けた音しか出せねえくせに、文句だけは一丁前なんだよな、凡人は」
夜道に、悪態だけが虚しく響く。
月明かりが照らす道を、相棒の『スタナー』が入った重いギグバッグを背負い、とぼとぼと歩く。さっきまでのステージ上の神がかった姿は、そこにはなかった。ただ、疲労と苛立ちを抱えた、一人の人間がいるだけだった。
煌々と光を放つコンビニの自動ドアが、幽霊のように開いた。
小鳥は、吸い寄せられるように店内に入る。深夜のコンビニは、無機質なBGMが流れる、現実の象徴のような場所だった。
カップ麺の棚を睨みつけ、一番辛そうな商品の蓋を指で弾く。それから、冷気の立ち上る棚から缶ビールを二本、無造作に掴んだ。
無愛想な店員の前に商品を置くと、彼は眠そうな目でバーコードをスキャンするだけだった。ステージ上のカリスマも、ここではただの客の一人だ。それがなぜか、少しだけ落ち着いた。
ビニール袋を片手に、再び夜の闇の中へ戻る。
アパートのドアに鍵を差し込み、乱暴に開ける。
シン、と静まり返った暗いワンルームに、外の喧騒が嘘のようだ。ライブハウスからここまで、耳鳴りはまだ止んでいない。小鳥は、履き潰したエンジニアブーツを脱ぎ捨てるのももどかしく、部屋の中心に相棒の『スタナー』を置くと、そのまま床に大の字になった。
天井の染みが、ぼんやりとした視界の中で歪んで見える。
耳の奥で鳴り響いているのは、オーディエンスの熱狂か、それとも元メンバーの罵声か。あるいは、自分自身の魂が軋む音か。
(……完璧な、勝利)
心の中で呟く。
そうだ、あれは完璧だった。古い皮を脱ぎ捨て、新しい生命が生まれる瞬間のような、美しく暴力的な夜だった。
なのに、胸の内を満たすのは、熱狂とは程遠い、虚無感にも似た静けさだけだった。
小鳥はゆっくりと身体を起こすと、部屋の隅に積まれたCDの山から、一枚のアルバムを雑に抜き取った。
Judas Priest - "Painkiller"。
コンポのトレイにディスクを滑り込ませ、ボリュームのツマミを限界まで捻る。
―――凄まじいドラムのフィルインが鼓膜を殴りつけ、ツインギターのリフが部屋の空気を切り裂いた。
爆音。
これだけ大きな音で満たされなければ、胸に空いた穴から何かが漏れ出してしまいそうだった。
小鳥は、その音の壁に身を浸しながら、時代遅れのブラウン管モニターの電源を入れる。起動音と共に、見慣れたデスクトップ画面がぼんやりと光った。
カチ、カチ、とマウスをクリックし、ダイヤルアップ接続のアイコンをダブルクリックする。
『ピポパポピ……ガガガ……ピーーーーッ』
時代錯誤な電子音が、Painkillerの轟音に混じって響く。テレホーダイの時間だ。
やがて接続が確立すると、ブックマークから一つのサイトを開いた。
そこは、悪意と、才能と、そして本物の孤独が渦巻く、テキストだけの地下世界。
匿名掲示板「あやしいわーるど」。
小鳥は、ビールを呷ることもなく、ただ流れていく膨大なテキストの海を無心で眺めていた。
Painkillerのアルバムが一周し、部屋に静寂が戻る。
掲示板の片隅で見つけた、ありふれた書き込み。
ハンドルネームは、ない。ただ、IDだけが表示されている。
『もう疲れた。学校には行けない。どこにも行けない。早く死んでしまいたい。』
よくある書き込みだ。ネットの海には、こんな叫びが無数に漂っている。普段なら、鼻で笑って読み飛ばすだけの内容。
だが、その書き込みには、続きがあった。
『誰もいない部屋の隅で/ヘッドフォンだけが友達/ノイズ混じりのギターが/私の代わりに泣いている/ワウペダルを踏み込んで/世界の歪みを深くして/こんな歌しか作れない/私が消えても誰も気づかない』
それは、歌詞だった。
稚拙で、荒削り。だが、そこには紛れもない「本物」の魂が宿っていた。
(……俺と、同じだ)
小鳥は、無意識に呟いていた。
この歌詞を書いた人間は、自分と同じ種類の孤独を知っている。
世界のすべてが偽物に見え、自分の内側にある衝動だけを信じて生きている。
だからこそ、こんなにも痛くて、美しい言葉が生まれるのだ。
放っておけなかった。
小鳥は、デスクトップの隅で眠っていた、ピンクのテディベアのアイコンをクリックした。
受信トレイに溜まったライブ告知のメールを無視して、「メールをかく」ボタンを押す。
宛先欄には、先ほどの書き込みの主に連絡するための、簡易的なメールリンクを貼り付けた。
そして、キーボードに指を置く。
どんな言葉を紡ぐべきか。
小鳥は心の奥底から、最も誠実で、最も優しい言葉を探し出した。
件名:君の歌詞を読んだ
本文:
はじめまして。突然のメールで驚いたかもしれません。
掲示板で、あなたの書いた歌詞を読みました。
とても、綺麗だと思いました。
君がどんな部屋で、どんな気持ちでこの言葉を紡いだのか、俺には少しだけ分かる気がします。
ノイズ混じりのギターは、きっと君の代わりに泣いてくれる。
世界の歪みは、君が踏み込むペダルで、美しい音楽に変わるはずです。
だから、死ぬなんて言わないでください。
君の歌を、いつか聴いてみたい。
君が消えたら、それに気づいて悲しむ人間が、ここに一人います。
返信は不要です。
ただ、君の音楽が、いつか生まれてくる日を待っています。
短いメールを打ち終え、小鳥は一瞬、躊躇した。
こんな柄にもないことをして、何になるというのか。
だが、送信ボタンを押す指は、迷わなかった。
ピンクのテディベア「モモ」が、てちてちと歩いてメールをポストに投函する。その愛らしいアニメーションを、小鳥は最後まで静かに見つめていた。
メールがデジタルの海に旅立っていく。
それは、まだ名前も知らない、未来のバンドメンバーの元へと続く、最初の光だった。