03
グルドワグラは魔物の返り血で真っ赤に染まっていたが、元々紅いからそれはあまり目立たなかった。
図鑑で見た通り、基本的な姿はワシとかの猛禽類に酷似している。ただし、翼があるべき部分は決定的に異なっていた。
そこには俺の脚くらいの大きさの針をつけたチューブみたいな腕が複数、翼をかたどるように垂れ下がっていて、その半透明の針の先端には吸引口でもあるのか、地面に溢れた血を啜っていた。それが分かったのは、一部の針の色がみるみると赤く染まっていったからだ。
どうやら、魔物を真っ二つに割いた鋭く分厚いクチバシ以外にも、食事できる器官があるらしい。
反面、本来目があるべき部分には何もなかった。真正面から見た限りだが、この魔物には眼球が存在していない。これは、図鑑に載っていたのとは異なる点だった。
障害を負った個体なのか、突然変異の類か、それとも単純に図鑑の情報不足か。……あれは、浅い部分にしか触れられていなかった入門書のようなものだったので、最後の線が濃厚な気がする。
まあ、どっちにしても、標的である事に違いはないはず。
ないはずだが……それにしても大きい。本からイメージしたものよりずっと、全長六メートルというサイズには絶望感があった。手にしている短剣の心細さを、嫌というほど意識してしまうほどに。
――クゥワァ、クゥワァ、クゥワァ
甲高い、どこか気の抜けるような音が、クチバシに備わっている二つの鼻から鳴らされる。
と同時に、尾以外の、無数の針の腕が剣に似通った形状に変わり――
「――っ!?」
全身に悪寒が走った。
俺は本能に突き動かされるみたいにその場に伏せて、真上を通った風切り音を聞いた。
胴体部分を揺らすとかいった予備動作なんかは一切なしに、刃物になった無数の腕が横なぎに払われたのだ。
凄まじい速度だった。全然スローじゃない。もし判断が少しでも遅れていたら、為す術なく輪切りにされた三体の魔物と同じ末路を辿っていただろう。
――クゥワァ、クゥワァ、クク、クゥクワァ
再び、甲高くどこか甘い音が鳴る。
それはまるで嗤っているみたいで、嬲り殺しにされる予感でもしたのか、虎の姿をした最後の一体がこちらに背を向けて逃げだした。
だが、遅すぎる。
踵を返した時にはもう、グルドワグラの長い長い尾針は伸ばされていて――脳天を貫く、鋭くも鈍い音が響いた。
そして三本の尾針と複数の腕が、死体をグルドワグラの傍に運んでいき、最初に見た光景と同じように、放り上げられた死体を巨大なクチバシが噛み千切り、零れた内蔵を呑みこんでいく。それが済んだら今度は残りを丸呑みして、その腹をずいぶんと大きく膨れ上がらせていた。
……もしかしたら、もうお腹いっぱいで見逃してもらえるかも、なんて馬鹿げた期待が少しだけ過ぎる。
その愚かさを嘲笑うように、グルドワグラの腹から、じゅぅぅう、となにかが溶けるような音が鳴りだした。それから僅か十秒足らずで、膨らんでいた腹は魔物を食う前のスリムな状態に戻る。ふざけた消化機能だ。まだまだ食べ足りないということなんだろう。
ぶらぶらと無数の腕が前後に揺れだす。三本の尾針がそれぞれの刃先を擦らせて火花を散らせる。そして、眼のない顔がこちらを向いた。
直後、左の腕五本が突きだされた。
蛇の如き軌道で襲ってくる刃。真っ直ぐ下がるのは危険だ。こいつの腕や尾はゴムのように伸びて、見た目以上のリーチを持っている。
俺は大きく左後方に飛び退き――待っていましたと言わんばかりのタイミングで迫っていた右腕の斬撃に、左の二の腕を抉られた。
鋭い痛みと熱に顔を顰めながら、俺はさらに距離を取って少しだけ猶予を作り、傷口に視線を向ける。
とりあえず、肘から上はまだ繋がっていた。おそらく、骨で止まってくれたんだろう。
木もろとも魔物を切断した刃物を受けてその程度で済んでいるのは、レニ・ソルクラウという恩恵以外の何物でもないが、出血は酷い。そう何度ももらえない。
ここはいったん退いて体制を整えるべきか? ……いや、この相手に背中を向けるのは自殺行為だ。
やるしかない。これ以上、決断の引き延ばしは許されない。
……踏み込んで、切り払う。
タイミングは相手の攻撃に合わせるのがきっと有効だ。まあ、実際のところはどうか知らないが、状況に合わせて動くなんて高度な真似が出来そうにない以上、攻めるきっかけは無理にでも作った方がいい。
呼吸を止めて、相手の腕に意識を集中する。
グルドワグラは、鳥らしく両足でぴょんぴょんと跳ねて距離を詰めてきた。その本体の動き自体は悠長だが、振り払われた七本の右腕は相変わらず鋭い。
でも、反応は出来た。
それに合わせて、俺は地面を蹴る。
「――っ!」
接近には成功したが、若干踏み込みが甘かった。短剣が届かない。
即座に距離を取ろうとバックステップをするが、地面を這うようにして迫ってきていた左腕の一つが右の脇腹を掠める。
……危なかった。もう少し相手の反応が早かったら、内臓か足を潰されていただろう。
今の行動はよくなかった。虎型の魔物で十分に練習できていないのだ。距離感が必要な選択は失敗のリスクを伴う。
踏み込む、ではだめだ。跳びこまないといけない。相手の中心目掛けて、こちらの身体ごと突き刺す。おそらく、それが最善だ。
短剣を腰に添えるようにして、俺は姿勢を低く構える。
そして、もう一度敵の攻撃のタイミングに合わせて、先程より強く地面を蹴った。
コンマ一秒の体感で到達する衝撃と、タイヤのような弾力をもった肉の感触。
短剣は根元まで深々と、魔物の腹に刺さっていた。
命の危機をまざまざと感じているからか、もはや嫌悪を抱く余裕もない。それよりも、相手の反応にこの意識は向いてくれている。
こちらの攻撃からワンテンポ遅れての反撃。両腕を使った抱擁だ。
背後から迫った死の気配に、慌てて短剣を引き抜き距離を取る。その判断自体は多分正解で、腕の攻撃は紙一重ですり抜ける事が出来た。
けど、真上から迫っていた追撃の方は全く見えていなくて、振り下ろされた尾針が左肩を抉る。
その痛みに呻く間もなく、地面に突き刺さった尾針が跳ね上がり、側面が脇腹に直撃した。
車に跳ねられた時と同じくらいの衝撃。
身体が吹き飛び、左手にあった木に背中から叩きつけられた。
呼吸が止まり、意識も遠のく。
近いはずなのに、やけに遠くからへし折れた木の倒れる音が聞こえた。
――クゥワ、クゥワクゥワクゥア、ククク! クッ、ケケケケッ!
グルドワグラは、はしゃぐように鳴いている。
鳴きながら、その身にある全ての針をこちらに向けてゆっくりと近づいてくる。
これは、もう駄目かもしれない。
「……くっ、は、はは」
どうしてだろう、こんな状況なのに嗤えてきた。
自分が馬鹿らしくて仕方がなかったのだ。
本当、どうして自分はこんなところで、殺されようとしているのか? まったくもってまともじゃない。
くだらない感傷に振り回されて、見積もりもろくに出来ていなくて……考えてみれば、ギルド関係はもとより売買関係も全部アウトで、この行為が一銭にもならないどころか違法に触れる可能性だってまだ残っているのに見切り発車するのだってどうかしてるし、だいたいリッセに大金をふっかけられた時点で諦めるのが自然だ。なんとかしようとしたけど無理だった、で十分納得できたはずだった。少なくとも普段の自分なら、そこで自己完結していただろう。
それが出来なかったのは、多分自棄になっていた部分もあったからなんだろうけど、それだって中途半端だ。
どうしようもない理不尽に殺されて、よく分らない世界とよく分らない誰かのコピーの中に押し込められて、なにもかも意味不明で、もうどうにでもなれって気持ちがあって。でも、だったら最後までやりきってしまえばいいのに、それも叶わず。その所為で今こんなにも嘆いていて、人間死んだってそんな簡単に変わらないって事を思い知らされて。そのくせ、今からでも逃げてしまえばいいって頭の中には過ぎってるのに、それも嫌で……。
本当、ころころと変化するグチャグチャな思考が、気味の悪い万華鏡みたいだった。
『……万華鏡は、綺麗だから許されるのに』
不意に、母の言葉が過ぎる。
大切だった、たった一人の家族。
もしあの世というものがあったとして、この異世界で死んだ俺は、はたして同じ場所に行けるんだろうか……?
「……嫌、だな」
ぽろりと零れた言葉に促されるように、俺はよろよろと立ち上がる。
別に、死ぬことが怖いと思えるほどの何かがあるわけじゃない。げんに、俺が俺であった世界ですら、俺は自分が死ぬことに何も感じる事が出来なかった。失うのが怖い、なんて思えるようなものを抱えてはいなかった。
ここでも、似たようなものだ。
がらんどうで、地に足がついていなくて……でも、今死ぬの御免だった。
今死んだらそれこそ大馬鹿だ。ダサいし惨めだし、なにより恥ずかしすぎる。
こんな状況で、羞恥心が一番生きることを主張しているなんてのもおかしな話だけど、案外そんな理由の方が気軽で、頑張れる気がした。
だから踏ん張る。敵の射程圏内に入るより先に、動ける状態を取り戻す。
そして、もう一度前に。魔物の腕が振るわれたその瞬間に、俺はとびこんだ。
朦朧としている意識の所為か反応は遅れたが、懐にさえ入れればなんだっていい。
「――ぐぅああああ!」
右の太腿と左の鎖骨を刺した刃の痛みに絶叫をあげながら、俺はグルドワグラの腹にもう一度ナイフを突き立て、今度は突き立てたそれをありったけの力を込めて振り抜いた。
痺れるほどの手応え。
この瞬間、僅かだが形勢が逆転したのを、大きく後ろに飛び退いたグルドワグラの姿を見て、俺は理解した。
腹に開いた二か所の穴とクチバシから血を溢れさせて、同じくらいに苦しそうだ。
……このまま、流れに乗って仕留める。
だが、その意志をいなすように、グルドワグラはさらに大きく後ろに飛び退き、それと同時に二つの尻尾を左右の木に巻きつけた。
そして、ゴムのように伸縮する尻尾の力を使い、自身の身体を空高くに射出して――弓から放たれる矢のように物凄い勢いで、俺の頭上を飛び越えていく。
無数の枝葉を蹴散らす音を追いかけるように振り返るが、すでに巨体は消えていた。
「…………嘘だろ、おい」
逃げられた。その事実以上に、ぶっ飛んだ光景に唖然としてしまった。が、そんな感情に翻弄されてなんていられない。ここまでやって逃げられたなんて冗談じゃない。
俺は痛む右足に鞭打って、グルドワグラの後を追って駆けだした。




