04
足場の感触が変わったと気付いた時、追いかけていた対象の気配はもう止まっていた。ついでに、森の印象もさらに変化したようだ。
ここはさながら湿地帯だった。地面がぬかるんでいて、生えている草木も様変わりしている。幸い、靴がいいおかげか滑る心配はなさそうだが……はたしてこの森には一体どれだけの顔があるのか。
余計な好奇心を抱きつつ、俺はグルドワグラとの距離を縮めていく。
追跡を始めて大体十分程度。夕刻は過ぎ去り、あたりは暗闇に浸されようとしていたけど、この眼に特に支障はない。まあ、それは昨夜目が覚めた時、真っ暗な部屋の中でも鮮明にルノーウェルさんの寝顔を捉える事が出来た時点で解っていたことだけど。
「……妙だな」
グルドワグラはやはり動かないが、こちらの存在に気付いていないという感じはしなかった。
なんというか、気配に緩みがない。
最初は逃げ切ったと油断しているのだと思っていたけど、どうやらそんな簡単な話にはならなそうだ。
より一層に気を引き締めながら、俺は足場全てを埋める膝ほどの高さの草木をかき分けていき……視界に、標的をおさめた。
真っ赤に染まった池の中に下腹部を沈めて、グルドワグラが佇んでいる。
池の深さは一メートル弱くらいだろうか、広さの方も学校のプールくらいはありそうだ。
踏み入れば、間違いなくこちらの行動は制限される。まったくもって、いやな場所を陣取ってくれたものだ。
この時点で、グルドワグラはただ逃げていたのではなく、自分にとって有利な場所に俺を引きこんだのだというのが解った。
だとするなら、ここでやりあうのは得策ではないんだろうけど、仕切り直しが出来る状態でもない。出血が止まっていないのは俺も同じだからだ。
池に侵入できないのなら、滑空するようにグルドワグラに接近する必要がある。そしてグルドワグラの身体を踏み台に、再び池に入らずに離脱するのがベストだろうか。
レニの身体能力なら十分可能だと思うが、不安なのは負傷している右足だ。
痛みを堪える事ができたとしても、全力で肉薄できるのは多分二、三回程度。
さっきは思い切りが功を奏したけど、今は勝機を計る慎重さと冷静さが明暗を分ける気がする。
……が、そんな駆け引きの間を与えてくれるつもりはないらしい。
グルドワグラが左右の針の先端をこちらに向けてくる。互いの距離はおおよそ四十メートル程度、いくらゴムのように伸びるとはいえ、ここは射程外だ。腕も尻尾も届かない。
でも、だからこそ、この怪物は水場を選んだんだろう。
針は血を啜っていた。つまりは吸う機能を持っているということだ。なら、吐く機能をもっていたとしてもなんら不思議ではなくて。
「――っ!」
圧縮された血と水が弾丸となって、右耳を掠めた。
咄嗟に首を曲げたからその程度で済んだが、動かなければ眼が潰されていただろう。そして此処に留まっていればハチの巣になるのは必至だった。
弾丸を発射した針が水に浸かり弾丸を装填する傍らで、残りの針たちが音のない連射を開始する。
それをなんとか掻い潜りながら、俺は手近にあった大木の後ろに隠れた。
弾丸の威力はそれほど高くはない。木は盾としての役割を果たしてくれている。これで少しは――
「――がっ!?」
息をつく間もなく、背中に凄まじい衝撃がはしった。
踏ん張りが効かず、前のめりに倒れる。即座に身体を反転させると、大木に大穴が開いているのが見て取れた。尾針だ。腕より大きな針から放たれた水の大砲が、こちらの盾ごと抜いてきたのである。
威力が緩和されていなければ、致命傷になっていたかもしれない。
これでは悠長に身を隠す事も出来ない。かといって前に出るのも厳しいだろう。
場所が変わっただけで、この有様だ。
打つ手が見当たらない。純粋に詰まされているような敗北感。
それに思わず視線が沈みそうになった時、右側で音がした。ぴちゃっとなにが跳ねる小さな音。
瞬間、水の弾丸がそこに殺到した。
なにがいたのかはわからない。もはや原型も留めてはいないだろうから、知る術もない。
ただ、今のは不可解な行動だった。
だって明らかな隙だ。もし俺が荒事に長けていたのなら、無駄撃ちに合わせてなにかしらのアクションを起こしていただろう。
仮にも手傷を負わせた相手が目の前にいるのに、グルドワグラは余計な事をしたのだ。それはなぜか?
そう考えた時、俺は重大な点を思い出した。
この魔物には眼がないのだ。ということは、こちらを補足しているのは嗅覚か聴覚ということになる。もちろん、レニ・ソルクラウのように魔力感知という第六感が備わっている可能性も十二分にあるが、それがあったとしても、この二つのうちのどちらか、或いは両方が重要な役割をもっている筈だ。
それはある意味で、弱点といってもいい特性なんじゃないだろうか?
たとえば、そう、突然大音量が予期せぬ範囲から響いたとしたら、怯むほどの事はないにしても、今みたいに注意を向けさせることくらいは出来るかもしれない。
そしてその状況を作り出せる物が、俺の手元には一つだけあった。
森の入口で貰った信号石だ。
感知の大本が嗅覚だった場合はなんの効果もなさそうだけど、聴覚であったのなら、これは勝負の手に使えるかもしれない。もちろん、信号石にそれを成立させるだけの強い効果があればという前提になるが……なんにしたって、無理矢理打開策を用意しなければ死ぬだけなんだから、ここから先はギャンブルだ。
次弾が装填される前に再び大木の陰に逃げ込み、俺は短剣を左脇に抱えてポケットから信号石を取り出した。次に、ぬかるんだ地面を抉るように爪先で蹴って、土塊を適当にばら撒いてみる。
……装填は済んでいる筈だが迎撃はなし。かといって、今の小細工を無視して俺だけを狙ってくるという事もなかった。
多少は釣られてくれたということだろう。一定の警戒を示したのだ。
ということはやはり、グルドワグラには対象がなんなのかを正確に把握する能力がないという事になる。ただ、先程と違い、土塊に対して一発も誤射をしなかったというのは気になった。
考えられるのは、心音や呼吸音を感知している可能性だ。一定のリズムを刻んでいるなにかを、生体反応として捉えている。これはあり得そうだ。つまり、直撃の危険さえなければ、信号石に注意を向けられることもない。
確実とはいえない読みだけど、これで憂いの一つは消えてくれた。
なら、あとは自身の最善に結果が報いてくれるのを信じるだけだ。
俺は短剣を挟む左脇と、両足に力を込めて大木に背中を預け、次の大砲に備える。仕掛けるのはそれを受けたあとだ。
大砲はあえて喰らう。躱す事は考えない。もちろんただでは済まないだろうけど、致命傷にさえならなければ、最低でも肉薄するまでのあいだ、その脅威は無視できるようになるからだ。
歯を食いしばって、衝撃を待つ。
グルドワグラは、俺が痺れを切らせて出てくるのを待っているんだろう。なかなか撃ってこない。
ここでもし駆け引きに付き合っていたら、さぞかし今の状況に神経が擦り切れた事だろうが、こちらの腹はもう決まっている。恐怖はあるが、焦りはコントロールできる範疇にあった。
そして想定通りの衝撃が訪れる。
それを無事に耐えきってすぐに、俺はグルドワグラの側面に回り込むように駆けだした。
尾針が池に沈み、腕の針が一斉にこちらに向けられる。
その動きに眼を向けながら、俺は信号石を池の目前に向かって投げつけた。
瞬間、夜に眩いばかりの光が解き放たれる。
光は巨大な柱のように空高くまで伸び、同時に鼓膜が破れかねないほどの大音量の鈴の音色を響かせた。
グルドワグラの腕と尾が、慌てるように小刻みに震えだす。
これは効いている。今なら近づける。この好機はこちらが思い描いたものだ。見逃がすわけもない。
俺は短剣を手に、グルドワグラ目掛けて一直線に跳びこんだ。
妨害はなかった。もちろん、短剣も深々と刺さってくれた。
でも、まだ足りない。
無数の腕が蠢いている。肉薄してきた獲物の息の根を止めようと、震えながらも針をこちらに向けてくる。
それに構わず、俺は短剣をグルドワグラの中に走らせた。
どの道、この身体はもう池の中だ。回避という選択肢は死んでいる。だから、ここで殺しきるしかない。
頭を出来るだけ振って、身体全体を使って、全霊を込めて短剣を揮う。
聴覚がまだやられているからか、一番の急所が動いているため狙いが付けにくいからか、突きだされた針はどれも軽傷しか生んでいない。
今だけだ。一秒後はわからない。
だから、早く、早く、早く止まってくれと、俺はがむしゃらに返り血を浴びながら、グルドワグラの身体を奥に奥にと切り開いていき――
「――っ!?」
一際、硬い感触。
それでも構わずに短剣を力一杯に振り抜いて――そこで刀身が根元からへし折れる音が響いた。
最悪だ。やってしまった。これは致命傷だ。
自身を奮い立たせていた熱が急速に冷えていく。目を逸らしていた痛みが、鬱憤を晴らすように騒ぎ出す。
諦めが連れてきた正常さ。もう、これ以上は戦えない。
前のめりになっていた重心が、後ろに折れる。
いよいよ出血もボーダーラインを越えたのか、意識が朦朧としてきた。
…………おかしい。これだけ無防備なのに、トドメがこない。
その疑問に惹かれるように俺は顔をあげて、ぐらり、とグルドワグラの身体が左に傾くのを目の当たりにした。
そして、その巨体はゆったりと池に倒れ込む。
派手な水飛沫が上がった。俺は髪までずぶ濡れで、発生した波に追い出されるように、よろよろと二、三歩ほど後退して。そこで改めてグルドワグラを見た。
「…………やっ、た?」
実感のわかない呟きだった。
だけど、きっとその通りで、怪物はもうピクリとも動かなかった。
終わった。終わったのだ。
俺は生き延びて、怪物は死んだ。
余韻として残ったのは、そんな当たり前の感想だけで、しばらくのあいだ俺はただ呆然としていて……
「……これは、驚いたな」
不意に、誰かの声がした。
声の方に視線を向けると、そこには入口で出会った冒険者たちがいた。
大剣を持った彼は神妙な顔をしていて、眼鏡をかけた青年と緑髪の女性は汗だくだった。もしかすると、救援の信号を前に大急ぎで駆けつけてくれたのかもしれない。
「まさか、グルドワグラを狩っているとは思わなかったぞ。しかも盲目の亜種とはな。……信号石が効いたのか?」
「……ええ。おかげさまで」
「そうか。亜種にも効いたのか。そいつはよかった」
大剣の彼の表情が、ぱぁ、と明るいものに変わる。
そして彼はグルドワグラの死体に視線を向けて、ふむ、と一つ頷いてから、
「で、俺たちはこのあとどうすればいい?」
「え?」
「こうして駆けつけたんだ。無駄骨は淋しいだろう?」
そう言って、悪戯っぽく笑ってみせた。




