第37章『 借り 』
優一の視点
夕方六時半ごろ、いつも以上に疲れきった身体を引きずってクリニックへ戻った。今日一日が重かっただけでなく、父にあれこれと細かい用事を頼まれ、無駄に往復させられたせいだ。
本音を言えば、家に帰りたかった。すべてを放り出し、明日の昼まで死んだように眠り込みたかった。はあ、願うだけならいくらでもできる。だが、僕の希望など誰の優先事項でもない。結局、半ば無理やり身体を覚醒させて動かし続けるしかなかった。
受付を通り過ぎ、担当の看護師に声すらかけずに、海斗の病室へと向かった。だが、扉を開けた瞬間、僕はその場に固まった。麗華が、すでにそこにいた。ベッドのそばに腰掛けていたのだ。
精神的にすり減っていたせいか、この時間帯が彼女の見舞いの時間だったことを、すっかり失念していた。
僕は扉に手をかけたまま、しばらく立ち尽くした。麗華は僕に気づいていないようだった。いや、気づいた上で無視しているのだと言われても、驚きはしなかった。小さく息を吐き、彼女の痛々しいまでの無関心に備える。
彼女の視線は宙に漂っていた。しかし、それは海斗に向けられたものではなかった。うまく説明できないが、遠くへ沈み込むような眼差しで、ベッドのどこか一点を見つめ、思考の底に沈んでいるようだった。
僕はそっと扉を閉め、ベッドの足元あたりまで歩み寄った。それでも、彼女は一度も顔を上げようとしない。
「……勘弁してくれよ」
思わず呟いた。
反応はない。ため息が漏れた。
人生で、ここまで露骨に人から無視をされた経験はない。そして、その事実が妙に胸の奥をざらつかせた。その不快感を振り払おうとして、口を開いた。
「さっき医者と話した。電話だけどな。大きな改善はないにせよ、海斗の命に関わる危険は、もうないそうだ」
麗華は沈黙を崩さなかった。むしろ海斗の布団の皺を直し、掛け直すことに集中しているだけだった。僕の試みは、見事に空振りだった。舌打ちしたくなる。
昨日、廊下で口論になって以来、僕たちはずっとこんな調子だった。僕も言い過ぎた部分があった。よく覚えている。
麗華は僕に向かって、こう言った。
「弟を大事にしない無責任な兄さんですね!」
彼女には総合病院に顔の利く知り合いがいて、そちらの方が設備も技術も勝っている、と。調べた限り、それは事実だった。それでも――だからこそ、絶対に譲れなかった。
そこで僕も言い返した。
「物事の深刻さも分からない、甘やかされた子どもみたいなこと言うな!」
どちらも間違ってはいなかったのだろう。そこに飛鳥が居合わせたのは奇跡だった。彼女がいなければ、麗華は僕に平手打ちを浴びせていたかもしれない。
だが――どうしてここまでこじれた?
僕は何をそこまで責められるようなことをした?
彼女の態度、その余波のように残る苛立ちが、僕の中で不公平感を大きく膨らませていた。もう、この茶番じみた状況にはうんざりしていた。
頼むから、せめて僕の存在くらい見ろ。
人に無視されるほど、僕が嫌うことはないんだ。
*********
耐えるしかなかった。その居心地の悪さに、僕はほとんど全神経をすり減らしていた。唯一の救いは、大輝からのメッセージだった。時刻は七時前。
病室は論外なので、また例の消毒液臭い倉庫に向かわざるを得なかった。
僕は、また煙草に火をつけた。
「それで? 今度は何だ?」
「えっと……どう言えばいいかな」
会って以来、彼が言葉を渋る姿ははじめてだった。
「海斗のことか?」
「間接的には、ね」
「はあ……手短にしてくれ。家に帰りたいんだ」
「うん……」
大輝は長く息を吐き、ポケットに手を入れると、何かを握ったまま取り出した。
「覚えてる? でかい借りを返してくれるって言ったこと」
僕はうなずいた。
「ずっと、これを作ってたんだ」
そう言って、手のひらを開いた。
透明な液体が入った小瓶。市販のラベルはなく、手書きのコードだけが貼られていた。
「まだ承認前なんだ」
大輝は声を落とす。
「フェーズⅡ。東京医科大学病院。あそこに借りがあってさ……で、僕はお前に借りがある。海斗に数日だけ使わせてもらえれば、それでチャラだ。リスクは低い。うまくいけば、何週間も早く目を覚ます」
僕は黙って続きを待った。
「深い昏睡の患者なんて、そう簡単に症例が集まらない。それに海斗の脳外傷のタイプだと……成功すれば、神経回復の期間をかなり短縮できる」
「海斗に使いたいってことか?」
大輝は一瞬黙ったが、すぐに早口でまくし立てた。
「頼むよ。数日だけだ。注射を数回。脳波をモニタリングして、反応を見ながら投与量を調整する……侵襲的なことはしない」
「リスクは?」
「最小限だ。慎重にやってきた」
彼は眼鏡を外し、指先で曇りを拭う。
「確信がなければ、こんなお願いはしない」
僕はしばらく彼を見つめた。借りを返す機会であることは確かだった。父に確認すべきかとも考えたが、すぐに否定した。今回の件はすべて僕に任せる、と言われていた。ならば、僕にとって最善とは何か。
僕が逡巡しているのを見て、大輝が言葉を続けた。
「なあ、うちの院長は僕の親父だ。お前と同じで、僕もあれこれ使い走りをさせられる。これは中央大の連中への顔つなぎにもなる。世の中、借りほど価値のあるものはないだろ?」
もちろん、海斗に死んでほしいわけじゃない。そんな兄ではない。けれど……
「これで、お前への借りを返せる」
「……なんだって?」
「はあ、わかったよ。ただし数日だけだ。好きに使え。ただし、二日か三日だけだぞ」
そこは強く念を押した。大輝は満足そうに笑った。
「お前を裏切ったことなんて一度もないだろ。それに、僕の腕はお前が一番知ってるはずだ。僕以上の医者はいないよ」
危うく吹き出しそうになったが、場の空気を考えると笑うべきではなかった。それでもつい、口が勝手に動いた。
「お前についてわかってることと言えばな、大輝。お前は、どうしようもない嘘つきだってことだけだ」




