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第12章 『 もう一度、やり直そう』 (2)

麗華の視点


 ようやく家に戻ったものの、海斗の姿はどこにもなかった。

 ……まったく、せめて電話番号くらい聞いておけばよかった。


 昨日は気づかなかったが、彼が持ってきた荷物は驚くほど少なかった。

 小さなリュックひとつだけ。

 常識的に考えても、そして彼への礼儀としても、中を覗くなんてことはしなかった。

 本当は話がしたかった。お互いにとって、それが一番良かったはずだ。

 ――けれど、彼は一体どこへ行ったのだろう。


 その時、スマートフォンが鳴った。職場からの電話。

 え、まさか……今日って何曜日?

 二日酔いと焦りのせいで、そんな当たり前のことすら頭から抜けていた。

 木曜日。

 ということは、海斗が家にいないのなら――もしかして、学校に行ったのかもしれない。


 新婚早々、学校に行くなんて。変わった子だわ。


 通話に出ると、

「麗華さん! 何かあったんでしょう?! どうしたの、迎えに行くわ!」

 と、同僚の明日香の声が飛び込んできた。


 私はマイクを指で押さえ、深呼吸をした。

 一度、二度、三度……。

 ようやく冷静な声を取り戻し、答えた。


「明日香さん、私用ができたの。急なことだったから、連絡が遅れてしまってごめんなさい。」

「よかった……でも、麗華さん、本当に大丈夫? ご家族のこと?」


 家族、ね。


「ええ、家の事情よ。でももう対処しているから。

 今日は出勤できそうにないの。ほかの皆には“所用のため休む”と伝えて。

 “問題”とは言わないで。残りの仕事は達也さんに任せてちょうだい。」


 少しの沈黙。


「えっと……麗華さん、それは今日だけ?」

「え?」


 何と答えればいいのか分からなかった。

 頭の中では、海斗、海斗、海斗――その名だけが響いていた。


「分からないわ。」

「えっ?!」

「……月曜に出るって伝えて。」


 それが一番現実的な答えだった。

 彼を探すつもりではいたけれど、どれだけ時間がかかるか見当もつかない。

 どうせなら、明日も休みにしてしまおう。


 だが、明日香は動揺したように声を上げた。

「れ、麗華さん、二日も休むつもりですか?」


 そう言ったつもりだったけど?

「本気で休むの? 体調が悪いの?」

「違うわ。」

「それとも……誰かが亡くなったとか?」

「縁起でもないこと言わないで。」

「じゃあ……本当に、それほど大事な用事なのね。」


 一瞬、足先が小さく床を叩いていた。

 明日香の声が再び聞こえる。


「麗華さん……ねえ、課長。仕事よりも大事なことなの?」


 その問いに、私は息を吐き、

「そうよ。」

 とはっきり答えて通話を切った。


 爪を噛みながら、どうやって海斗を探すか考える。

 それにしても、明日香のあの焦りようは何だったのだろう。

 これまで一度も欠勤したことがないからって、

 別に“仕事中毒”ってわけでもないはず。少なくとも、自分ではそう思っていた。


 スマートフォンを取り出す。ひとつの案が浮かんだ。

 もし彼が学校に行っていないとしたら? 他の場所にいるとしたら?

 確かめるしかない。


 思い当たるのは、藤村夫人――彼の母親だけだった。

 実のところ、昨夜しつこく話しかけられ、勝手に私の携帯に番号を登録されたのだ。


 電話をかけると、すぐに出た。

「まあ、麗華さんじゃないの。」


 さて、どう切り出せばいいか。

 はあ……何も考えずにかけてしまった。

 ――息子さんがいなくなったんです、なんて、どう言えばいいのよ。


「おはようございます、藤村夫人。」

 考えろ、麗華、考えろ。


「実は昨夜、ご挨拶もそこそこに帰ってしまって。

 失礼な印象を与えてしまったかもしれません。」

「まあ、何を言ってるの。あなたみたいな素敵な人、今まで独身だったのが不思議なくらいよ。」


 ……は?


 額の血管がぴくりと跳ね、思わず携帯を握り締めた。

「はは……藤村夫人、ご主人にもよろしくお伝えください。」

「気にしなくていいのよ。」

「いえ、せめてお電話でだけでも。お会いして謝るべきなんですけど、仕事が立て込んでいて。」


 自分でも呆れるほどの白々しい言葉。

 胃の奥が少し痛んだ。


「夫も今は出張中だから、伝えておくわ。」

「ありがとうございます。

 あと、海斗さんのお兄さんにもご挨拶をと思っているのですが、番号を知らなくて。

 もしよろしければ、教えていただけますか?」


 本当は海斗のことを聞きたかったが、

 なぜか口がそれを拒んだ。

 兄なら、もう少し落ち着いて話ができそうな気がしたのだ。


 しかし、夫人はすぐに答えなかった。


「ねえ、麗華さん。」

「はい?」

「ずっと言おうと思っていたの。私の方にも反省すべきところがあってね。」


 しまった、逃げ道を塞がれた。

 ――でも、ここで怯むな、麗華。大人なんだから、乗り切りなさい。


 そう思った矢先、彼女の次の言葉に凍りついた。


「麗華さん、あなたも今日から“お母さん”って呼ぶのよ。だって、もうお嫁さんなんだから!

 あ、でもまず“お義母さん”って呼んでみて。もしそれが気に入らなかったら、“お母さん”でいいわ。」


 舌を噛みそうになった。

 本当にこの人、どうしてこうも神経を逆撫でするんだろう。

 だが、気力を振り絞って、絞り出すように言った。


「……お、お義母さん。」

「なあに、麗華さん?」


 人生でこれほど屈辱的な瞬間はなかった。

 普段なら絶対にこんな挑発には乗らない。

 けれど、これはもう罰だ。自分への業だと思って耐えるしかない。


「義兄さんの電話番号を教えていただけますか?」

「もちろんよ、すぐ送るわ。それとね――」


 想像通り、“愛すべき義母”との会話は、なかなか終わらなかった。

 だが、私は耐えた。贖罪のつもりで。


 やがて、兄――優一さんから連絡が来て、海斗が学校に行っていたことを知った。

 ほっと息をつく。だが、その安堵も長くは続かない。

 優一さんが心配そうな声で、「海斗を迎えに行ってほしい」と頼んできたのだ。

 どうやら二人は言い争いをしたらしい。


 彼に教えられたのは、中心街近くの公園の名前だった。

 ――まったく、今日は本当に疲れる一日だ。


 そして、私はその公園で彼を見つけた。

 ベンチに座り、ぼんやりと空を見上げていた。


「隣、座ってもいい?」

 そう声をかけると、海斗はただ微笑んだ。


 ようやく、私たちがずっと避けてきた“会話”を始める時が来たのだ。

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― 新着の感想 ―
麗華さん、帰宅して点滅してるであろう留守番を聞かないんだ
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