表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

21/54

第13章 『 認めざるを得ない 』

まだ半分眠ったままの頭で、目の前に麗華の幻が現れた。


――僕、そんなに彼女のことを考えていたのか。


夢の中にまで出てくるなんて、さすがに重症だ。けれど、一日中彼女のことばかり気にしていたのだから、そう不思議でもないのかもしれない。


だから、つい笑みを返した。

すると幻の麗華も、わずかに口元をほころばせた。いつもは冷たい印象のその顔が、少しだけ柔らかく見えた。


心臓が跳ねたとか、頬が熱くなったとか、そんな恋愛めいたことを言いたいところだが――嘘になる。


僕は麗華に対して何の感情も持っていなかった。彼女を愛していないし、見た目の美しさ以上のものを感じたこともない。むしろ、ほんの短い付き合いのあいだに、僕は彼女を嫌いになりかけていた。

優一のことも、お母さんのこともそうだ。理不尽な嫌悪――自分でも認めざるを得ない。けれどそれは長く続くものではなく、波のように寄せては返すだけの、あやふやな感情だった。


つまり、僕は彼女をどう思えばいいのか分からなかった。白紙のような心に、これから描かれる一筆が、良くも悪くも僕の感情を決めてしまう――そんな気がしていた。


麗華も同じように感じているのだろうか。最初の印象が最悪だった分、改めて話す機会があれば、何かが変わるのかもしれない。

……まあ、それもただの可能性に過ぎないけれど。


                *********


目が覚めるのに少し時間がかかった。

隣に座った麗華から、ほのかに柑橘系の香りが漂う。夜の冷気とその香りが混じり合い、意識が一気に現実へと引き戻された。


――やばい。もし夢だと思って、変なこと口走ってたらどうしよう。

恥ずかしさが全身を駆け巡った。


麗華は小さく息を吐き、煙草に火をつけた。オレンジ色の火が一瞬だけその横顔を照らす。

この短い間に分かったことがある。彼女が煙草を吸うのは、たぶん緊張している時だけだ。けれど、それを決して表に出そうとはしない。


「何か持って来ればよかったわ」

彼女はぼんやりとした声で言った。


意味が分からず首を傾げると、すぐに続けた。


「ほら、場を和ませるようなもの。飲み物とか、ちょっとしたお菓子とか」


そう言って少し考え込み、手の中の煙草を見つめてから、ふっと笑って僕に差し出した。


「でも今夜はこれしかないの。吸う?」


冗談だと分かっていたのに、何か気の利いた返しをしようとして失敗し、結局うなずいてしまった。


「十八になったらね」


笑っていた口元が一瞬で引き締まり、思わず吹き出しそうになった。そのおかげでようやく肩の力が抜け、自然に言葉が出た。


「れ、麗華さん……」

言葉がたどたどしかったが、なんとか続ける。

「迷惑を……かけました」


本当は、どうしてここにいるのか分からなかった。

優一が教えたのか? それとも――彼女が自分で探したのか?


「どうして……来たんですか」


彼女は手をひらひらさせて軽く流した。


「来る前はね、長々とした独白を準備してたの」


煙を吐き出しながら、少し笑う。


「でも途中で思ったの。『この子、ほとんど喋らないじゃない』って」


僕は条件反射のようにうなずいた。


「だから演説なんてしても無駄でしょ? ちょっときつい言い方だったかしら」


「い、いえ……正直だと思います。ぼ、僕は……本当のことを言う人に怒ったりしません」


その言葉に、彼女の唇がほんのわずか緩んだ。


「じゃあ、一つだけ言わせて。たった一言」


彼女は僕の方を向いた。その瞳には、いつもの冷たさではなく、どこか後ろめたさが宿っていた。


「……ごめんなさい」


その声にも、深い自己嫌悪が滲んでいた。どう返していいか分からず、僕は慌てて両手を振って、壊れたレコードみたいに「いえ、いえ、いえ」と繰り返した。


――麗華が僕に謝ってる? なぜ?


抗議したい気持ちもあった。彼女のせいじゃない、と言いたかった。

けれど、たぶんそれは彼女自身のために必要なことだったのだ。


はぁ……ほんと、勝手な人だ。

でも考えてみれば、僕だって同じくらい勝手だ。


「……僕も、ごめんなさい」

できるだけ同じ調子で言った。

「いろいろと……全部」


彼女の家に勝手に転がり込んだことへの罪悪感もあった。

けれど、それだけじゃ足りない気がした。もう一つ、言うべきことがある。


「じゃあ……言っておきましょうか」


麗華の目をまっすぐ見た。彼女の瞳の奥に、自分の顔が小さく映っている気がした。

逃げ出したい衝動を押し殺して、口を開く。


「それは……間違いでした」


結婚のことを言っている。自分の弱さから生まれた、間違った選択。

彼女に伝わったかどうか分からないが、複雑な表情が浮かんだ。


「わ、私はそんなつもりじゃ――」


「言い訳しても意味がないですよ」と遮った。「ここで嘘をついたら……」


後で後悔するだけだ。正直に言っておく方がいい。

麗華はしばらく黙って僕を見つめ、それから小さくうなずいた。


「……ええ、私もそう思う。間違いだったわ」


本当のことを言う人に、誰が怒るだろう。

その瞬間、彼女の表情が少し緩んだ。きっと僕の顔も同じだったと思う。


「じゃあ、言えたところで」


「責任を取らないと」僕が続ける。


麗華もうなずいた。


「大人として、ね」


僕はまだ子どもだったけど、肩をすくめて黙っておいた。


そのあと、しばらく二人で黙っていた。気まずくはなかったが、もう少し何か話せたらと思った。


「海斗さん」


「は、はい?」


最初の頃よりも柔らかい表情で、彼女は言った。


「これから、うまくやっていけるといいわね」


僕はうなずいた。夜はすっかり更け、もう公園を歩く人影もない。

話はこれで終わりだろう。多くを語らなくても、少しだけ前に進めた気がした。


ふと、昨夜からずっと気になっていたことを思い出す。大事なことだ。


「麗華さん」


「なに?」


「僕の……部屋は、どこですか?」


――さすがに、もうソファで寝るわけにはいかない。


                *********


いつ家に戻ったのかは覚えていない。ただ、通りが静まり返る頃だったと思う。

あの夜の疲れが一気に押し寄せ、昼近くまで眠り続けた。


初めての家出が、こんな形で終わるなんて――情けなかった。

けれど、この小さな反抗が、僕の中に本当の変化を芽生えさせることになるなんて、その時はまだ気づいていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ