第13章 『 認めざるを得ない 』
まだ半分眠ったままの頭で、目の前に麗華の幻が現れた。
――僕、そんなに彼女のことを考えていたのか。
夢の中にまで出てくるなんて、さすがに重症だ。けれど、一日中彼女のことばかり気にしていたのだから、そう不思議でもないのかもしれない。
だから、つい笑みを返した。
すると幻の麗華も、わずかに口元をほころばせた。いつもは冷たい印象のその顔が、少しだけ柔らかく見えた。
心臓が跳ねたとか、頬が熱くなったとか、そんな恋愛めいたことを言いたいところだが――嘘になる。
僕は麗華に対して何の感情も持っていなかった。彼女を愛していないし、見た目の美しさ以上のものを感じたこともない。むしろ、ほんの短い付き合いのあいだに、僕は彼女を嫌いになりかけていた。
優一のことも、お母さんのこともそうだ。理不尽な嫌悪――自分でも認めざるを得ない。けれどそれは長く続くものではなく、波のように寄せては返すだけの、あやふやな感情だった。
つまり、僕は彼女をどう思えばいいのか分からなかった。白紙のような心に、これから描かれる一筆が、良くも悪くも僕の感情を決めてしまう――そんな気がしていた。
麗華も同じように感じているのだろうか。最初の印象が最悪だった分、改めて話す機会があれば、何かが変わるのかもしれない。
……まあ、それもただの可能性に過ぎないけれど。
*********
目が覚めるのに少し時間がかかった。
隣に座った麗華から、ほのかに柑橘系の香りが漂う。夜の冷気とその香りが混じり合い、意識が一気に現実へと引き戻された。
――やばい。もし夢だと思って、変なこと口走ってたらどうしよう。
恥ずかしさが全身を駆け巡った。
麗華は小さく息を吐き、煙草に火をつけた。オレンジ色の火が一瞬だけその横顔を照らす。
この短い間に分かったことがある。彼女が煙草を吸うのは、たぶん緊張している時だけだ。けれど、それを決して表に出そうとはしない。
「何か持って来ればよかったわ」
彼女はぼんやりとした声で言った。
意味が分からず首を傾げると、すぐに続けた。
「ほら、場を和ませるようなもの。飲み物とか、ちょっとしたお菓子とか」
そう言って少し考え込み、手の中の煙草を見つめてから、ふっと笑って僕に差し出した。
「でも今夜はこれしかないの。吸う?」
冗談だと分かっていたのに、何か気の利いた返しをしようとして失敗し、結局うなずいてしまった。
「十八になったらね」
笑っていた口元が一瞬で引き締まり、思わず吹き出しそうになった。そのおかげでようやく肩の力が抜け、自然に言葉が出た。
「れ、麗華さん……」
言葉がたどたどしかったが、なんとか続ける。
「迷惑を……かけました」
本当は、どうしてここにいるのか分からなかった。
優一が教えたのか? それとも――彼女が自分で探したのか?
「どうして……来たんですか」
彼女は手をひらひらさせて軽く流した。
「来る前はね、長々とした独白を準備してたの」
煙を吐き出しながら、少し笑う。
「でも途中で思ったの。『この子、ほとんど喋らないじゃない』って」
僕は条件反射のようにうなずいた。
「だから演説なんてしても無駄でしょ? ちょっときつい言い方だったかしら」
「い、いえ……正直だと思います。ぼ、僕は……本当のことを言う人に怒ったりしません」
その言葉に、彼女の唇がほんのわずか緩んだ。
「じゃあ、一つだけ言わせて。たった一言」
彼女は僕の方を向いた。その瞳には、いつもの冷たさではなく、どこか後ろめたさが宿っていた。
「……ごめんなさい」
その声にも、深い自己嫌悪が滲んでいた。どう返していいか分からず、僕は慌てて両手を振って、壊れたレコードみたいに「いえ、いえ、いえ」と繰り返した。
――麗華が僕に謝ってる? なぜ?
抗議したい気持ちもあった。彼女のせいじゃない、と言いたかった。
けれど、たぶんそれは彼女自身のために必要なことだったのだ。
はぁ……ほんと、勝手な人だ。
でも考えてみれば、僕だって同じくらい勝手だ。
「……僕も、ごめんなさい」
できるだけ同じ調子で言った。
「いろいろと……全部」
彼女の家に勝手に転がり込んだことへの罪悪感もあった。
けれど、それだけじゃ足りない気がした。もう一つ、言うべきことがある。
「じゃあ……言っておきましょうか」
麗華の目をまっすぐ見た。彼女の瞳の奥に、自分の顔が小さく映っている気がした。
逃げ出したい衝動を押し殺して、口を開く。
「それは……間違いでした」
結婚のことを言っている。自分の弱さから生まれた、間違った選択。
彼女に伝わったかどうか分からないが、複雑な表情が浮かんだ。
「わ、私はそんなつもりじゃ――」
「言い訳しても意味がないですよ」と遮った。「ここで嘘をついたら……」
後で後悔するだけだ。正直に言っておく方がいい。
麗華はしばらく黙って僕を見つめ、それから小さくうなずいた。
「……ええ、私もそう思う。間違いだったわ」
本当のことを言う人に、誰が怒るだろう。
その瞬間、彼女の表情が少し緩んだ。きっと僕の顔も同じだったと思う。
「じゃあ、言えたところで」
「責任を取らないと」僕が続ける。
麗華もうなずいた。
「大人として、ね」
僕はまだ子どもだったけど、肩をすくめて黙っておいた。
そのあと、しばらく二人で黙っていた。気まずくはなかったが、もう少し何か話せたらと思った。
「海斗さん」
「は、はい?」
最初の頃よりも柔らかい表情で、彼女は言った。
「これから、うまくやっていけるといいわね」
僕はうなずいた。夜はすっかり更け、もう公園を歩く人影もない。
話はこれで終わりだろう。多くを語らなくても、少しだけ前に進めた気がした。
ふと、昨夜からずっと気になっていたことを思い出す。大事なことだ。
「麗華さん」
「なに?」
「僕の……部屋は、どこですか?」
――さすがに、もうソファで寝るわけにはいかない。
*********
いつ家に戻ったのかは覚えていない。ただ、通りが静まり返る頃だったと思う。
あの夜の疲れが一気に押し寄せ、昼近くまで眠り続けた。
初めての家出が、こんな形で終わるなんて――情けなかった。
けれど、この小さな反抗が、僕の中に本当の変化を芽生えさせることになるなんて、その時はまだ気づいていなかった。




