57~58
時計の針が午後11:30を指していた。
-57 深夜の海と贅沢なご馳走-
松龍からの帰り道、裕孝は香奈子に歩幅を合わせて歩いた。
裕孝「今日は呑んだな。」
香奈子「本当、久々にひろ君と呑めて嬉しいよ。」
裕孝「駅まで送ろうか。」
終電まであと10分、駅まであと数百メートル、突然香奈子が目に涙を浮かべて立ち止まった。
香奈子「帰りたくない、海行きたい。」
初めての我儘だった。
人気の無い夜の海、灯台の灯りと過行く車のヘッドライトだけが辺りを照らしている中、裕孝は香奈子が乗るはずの終電が線路上を走って行ったのを眺めていた。
裕孝「行っちゃったな・・・。」
裕孝の優しい声に全く気付かない様子の香奈子。数分程静寂が辺りを包んだ後、小さい声でつぶやいた。
香奈子「良いの、こうしてたかったから。」
授業や部活、そしてバイト等によりなかなか作る事が出来なかった2人の時間を終わらせたくなかったらしい、香奈子はやわらかな波の音にずっと耳を傾け黄昏ていた。
数十分後、家が近かった裕孝はダメ元で聞いた。
裕孝「ウチ、来る?」
それから数分程黙り込んだ香奈子は灯台の明かりに照らされながら答えた。
香奈子「うん・・・。」
香奈子は再び涙を浮かべていた。
2人は付き合い出してからよく会う様になっていたが、恋人らしい事をあまりしていなかった。それが故に裕孝の心が自分から離れているのではないかと思っていたのだ。ただそれは香奈子の勘違いで、ただの時間の食い違いが香奈子に切ない想いをさせていた。
一歩も動かず立ち止まったままの2人、裕孝は意を決して声をかけた。
裕孝「あのさ・・・。」
緊張から声が裏返ってしまった裕孝は大きく深呼吸した。
裕孝「キス、してみない?」
少し抵抗しながら発した言葉につい恥ずかしくなってしまった。
月明りの下、香奈子が何も言わず近づきそっと唇を重ねた。それから数十秒程、2人は目を閉じて動かずにいた。
香奈子「行こっか。」
そう言うと海沿いの道ゆっくりと歩きだした、数分歩いたところにあるコンビニに立ち寄り缶チューハイを買った。互いをイメージしたのだろうか、香奈子はマスカット味を、裕孝はサクランボ味を選んだ。2人は車止めに腰かけるとゆっくりと缶を開けて乾杯した。偶々夜勤で店にいた店長がやめさせようとしたが、いい雰囲気だったのでやめたという。
しかしこの寒空だ、自分に出来る事は無いかと考えた後、おでんを数種類詰め込んで自分の財布からレジにお金を入れて外の2人に近付いた。
店長「お客様恐れ入ります、少しご協力をお願い出来ませんでしょうか。」
香奈子「何でしょうか。」
店長「実はおでんを作り過ぎちゃいまして、宜しければお召し上がり頂けませんか?」
勿論嘘だ、この日は足りないと言える位におでんがバカ売れしていた。
裕孝「良いんですか?」
裕孝は湯気の立つ容器を見つめながら聞いた。
店長「はい、余り物なのでお代は結構です。では。」
-58 朝ごはんをきっかけに-
店長が店に入って行くと2人は海を眺めながら目の前のご馳走に食らいついた。おでんの温かさが店長の心の温かさだと思うと嬉しかった。
2人は容器を店内のゴミ箱に入れ発注業務を行っていた店長に軽く会釈をした。
店長「またいらして下さい。」
そう言うと店長は手を振って2人を見送った。
午前3:00、コンビニから裕孝の家までの道を月明りだけが照らしていた、波の音が優しく響く中、2人は小さなアパートに着いた。廊下を照らす赤い豆電球の光が2人を出迎えた。
奥の階段を上がってすぐの203号室、そこが裕孝の部屋だった。直前に掃除をした訳ではなかったのだが、部屋は綺麗に片付いていた。
午前9:00、窓から差し込む陽の光が2人を起こした。裕孝は2人分の珈琲を淹れて1つを香奈子に渡した。
香奈子「何か作ろうか、冷蔵庫開けるね。」
裕孝「あ・・・。」
香奈子は冷蔵庫を開けて驚いた、中には缶ビールと栄養ドリンク、そして牛乳しか入ってなかったのだ。
香奈子「どういう事?」
裕孝「料理得意じゃなくてさ、いつも栄養ドリンクとプロテインだけなんだ。」
裕孝の言葉を聞いた香奈子は朝早くから開いているスーパーへと向かった、30分後、両手に買い物袋を抱えて帰って来た。
香奈子「そんなんじゃ死んじゃうよ!!私許さない!!」
少し怒った様子の香奈子は殆ど使われた形跡がないキッチンに立つと2~3品程手早く作った、眼前の美味そうな品々に裕孝はつい体が震えた。
香奈子「大袈裟だよ。」
裕孝「食べて良いの?」
香奈子「良いに決まってんじゃん。」
裕孝は出された料理を1口食べると、じっくりと咀嚼して味わった。不器用な自分の為に用意された贅沢な料理、このアパートに住み始めた頃には想像も出来なかった位の幸せ。
裕孝「美味い・・・。美味いよ、かなちゃん。」
感動した裕孝は涙を流していた、自分を心配した目の前の女性が用意してくれた料理の温かさと女性の気持ちが本当に嬉しかった。
裕孝「こんなに美味いの初めてだよ。」
香奈子「隠し味を入れたからね。」
裕孝は隠し味が何なのか聞こうとしなかった、本人だけが入れる事が出来るものを香奈子が入れてくれたことにしたかったのだ。
裕孝「嬉しいよ、白飯が足らないな。」
香奈子「そんなになの?5合は炊いたはずだよね?」
図書館で初めて出逢った頃からの事を思い返すと決して5合では足らない。
裕孝「これも食べて良い?」
香奈子「良いってば、食べないと勿体ないでしょ?」
裕孝「こんなに人生で嬉しくなった朝ごはんは初めてだよ。」
裕孝は改まった様に全ての料理に箸を付けた、どんどんお代わりをするので炊飯器の底が見え始めていた。
香奈子「いくら何でも食べ過ぎだよ、この後大丈夫なの?」
別に予定の無い裕孝は改まった様子で箸を茶碗の上に置き、涙を流しながら正座をした。
裕孝「かなちゃん、いや山板香奈子さん。俺と・・・、結婚して下さい!!」
香奈子「勿論・・・、喜んで。」
狭いアパートの1室でプロポーズを受けた香奈子は思わず涙を流した。
指輪は無かったがそれでも良かったと言う。




