チヒロの激怒
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テンゴたちが怪物の黒い牛をすべて退治し終え、森の奥に待機させていた馬車へと戻ってくると、そこには怪我を負った密輸団や船員たちの姿があった。
テンゴたちはすぐさま救護に回り、負傷した者たちから優先して馬車へ乗せていく。ひとまずの最優先事項は怪我人の手当てと避難であった。
これほど大勢の負傷者が避難してきたとあっては、さすがのエスカミーリョもドン・ホセも、この場で個人的な決闘を続けるわけにはいかない。ひとまず矛を収め、大人しく周囲の負傷者の応急手当てに当たっていた。
ホセはヒビの入った銃剣を傍らに放置したまま、かつて軍人であった頃の知識と経験を活かして、黙々と怪我人の手当を進めていく。
馬車には怪我人がすし詰め状態になっており、これ以上人を乗せる余地はどこにもなさそうだ。
もっとも、テンゴたちは独自の移動手段やスキルを持っているので問題はない。
そして、その場にはカルメンの姿もあった。
怪我こそ負っていないものの、ホセ、エスカミーリョ、ミカエラ、そして戻ってきたテンゴたち――運命に引き寄せられた者たちが一堂に会していた。
この面々が本格的に一堂に介するのは、これが初めてのことだった。
「行きなさいよ……。あんたには、大切な人が待っているんでしょう? 密輸団でのこんな日陰の生活、あんたみたいな男には無理よ」
「……行け、だと??」
怪我人の傷口に布を巻いていたホセの手がピタリと止まった。カルメンの冷ややかな忠告を聞いた途端、彼は手当てをやめて立ち上がった。
「そうよ。あんたには、帰るべき場所があるでしょう?」
「俺に……ここから出て行けと言うのか!?」
ホセの目が血走り、すぐ近くで同じく怪我人の介抱をしているエスカミーリョを荒々しく指差し指弾した。
「この男と……付き合うつもりか!?」
カルメンはこの土壇場の海岸で、ホセとの泥沼の関係を完全に断ち切るつもりなのだろう。自分を健気に追いかけてきたミカエラに、この男を託すつもりなのかもしれない。そしてホセの言う「この男」とは、当然エスカミーリョのことだった。
「お前が俺を誘ったんだろう! 俺に恋をしているんだろう!?」
最初にセビリアの街で声をかけてきたのは、カルメンの方だったと言っても過言ではない。
手当てを手伝いながら二人の言い争いに耳を傾けていたテンゴたちも、緊迫した空気に神経を尖らせる。万が一ホセが暴力を振るうようであれば、即座に止めに入る構えだった。
「どうなんだ!? なぜあの時、俺に花を投げつけたんだ!? あれは愛の告白だったんじゃないのか!? だから俺は……あの枯れたバラをずっと胸に挿して、朝も夜もお前の匂いを嗅ぎたかったんだ! なのに! そこの闘牛士に踏みにじられ、破壊された! あいつは牛を突くどころか、俺の胸のバラを打ち砕いたんだ! これで俺たちの愛は終わりだというのか!? だったら……だったらもう一発バラをくれ! お前の匂いを染み込ませて!!」
ホセの身勝手な叫びと挑発に対しても、エスカミーリョは一瞥もくれず、静かに怪我人の手当てを続けていた。
馬車の中では、ミカエラが息を殺して静かに涙を流している。
追っ手の役人や軍人、スニガたちがいつ押し寄せてくるとも限らない。一刻も早くこの場を出発すべきだった。
「俺たちの関係を終わらせるなんて……絶対に許さんぞ!! 俺は軍隊での苦しい訓練も、過酷な日々の苦行もすべて耐えてきた! 仲間たちと同じ釜の飯を食ってきたんだ! どんな過酷な生活だろうと、お前と一緒なら乗り越えられる! たとえこの命を失おうとも……カルメン、お前を俺は絶対に離さない! 俺たち二人は死ぬまで一緒なんだ!!」
手当てもそっちのけで一人狂乱し、カルメンに執着をぶつけるホセ。
これ以上感情を高ぶらせては危険だと判断したテンゴとピローが、宥めるべくホセの元へと駆け寄った。
「おい、ホセ!落ち着けよ!」
「早く怪我人の手当てを終わらせましょう……ね?」
テンゴとピローが両脇からホセの肩を抱くようにして押さえ込む。
「ほっといてくれぇ!!」
暴れるホセを余所に、チヒロは一人、馬車の方へと向かって歩き出した。
エスカミーリョやカルメン、そして狂気じるホセがいる手当ての現場から離れ、馬車の中で震えているミカエラの様子を見に行ったのだ。
馬車の中を覗き込むと、ミカエラは膝を抱えて体育座りの姿勢で蹲り、声を殺して泣いていた。ハンカチを目元に押し当てているものの、溢れ出る涙は一向に止まりそうにない。
その可哀想な姿を目にして、チヒロの胸は激しく痛んだ。
相手の痛みに寄り添い、気持ちを思いやること――今のホセには、それが致命的なまでに欠落していた。なぜこんな残酷な状況になってしまったのか。テンゴたちも、そしてミカエラ自身も、やるせない想いを抱えていた。
チヒロは馬車に乗り込むと、ミカエラの隣に静かに腰を下ろし、同じように膝を抱えてそっと声をかけた。
「ねえ、ミカエラさん……大丈夫だから。ホセさんも、きっと目を覚ますわ……」
「大丈夫です……はい……うぅ……っ……」
テンゴたちやエスカミーリョが手際よく怪我人を馬車へ押し込んでいく中、チヒロはミカエラの隣を離れ、ゆっくりと馬車から降りてきた。怪我人の手当てを手伝うつもりなのだろうと、誰もが思った。
――しかし、チヒロはまっすぐにドン・ホセの元へと歩いて行った。
「カルメン……毎日お前と一緒に朝を迎えて、甘い酒を飲もう。俺は正直な男だから、包み隠さず気持ちを話しているんだ。愛している……本気なんだ! 頼む、信じてくれ……!」
神妙な顔で黙り込むカルメンに対し、ホセはすがるように愛を乞い続けていた。
そこへ、チヒロが右側からテクテクと近づいてくる。ホセも一瞬、手伝いに来たのかとチヒロへ視線を向けた。
――次の瞬間。
チヒロの右手のひらが、ドン・ホセの右頬を思い切り打ち抜いた。
パァンッ!!
夜の森に、乾いた痛烈な打撃音が響き渡る。
問答無用の「平手打ち(ビンタ)」だった。
「いい加減にしなさいよ! この薄情者!!」
頬を打ち据えられたホセは、首を横に向けたまま唖然として固まった。
衝撃的な音に、周囲で手当てをしていた全員の視線が一瞬で二人の手元へと集中する。
「あんた……! 少しはミカエラさんの気持ちを考えたらどうなの!?」
破談の音を聞きつけたテンゴが、慌ててチヒロの元へ駆け寄ってくる。
「えっ……チヒロ!?」
「あんたは……! ミカエラさんがどんな思いでここまで来たか、分かっているの!? あんたのお母さんのことを心から心配して、ここまで来てくれたのよ!? それにあんたの大切な婚約者でしょう!? このまま放っておいていいわけがないじゃない!!」
チヒロはホセの顔を睨みつけ、激越した声で怒鳴りつけた。
ホセに会うまでにミカエラが抱えていた不安、恐怖、そして健気な覚悟のすべてを代弁するように。馬車の中で涙を流し続けていたミカエラの悲しみが、チヒロの心を突き動かしたのだ。
「こんなにも……こんなにも自分を愛してくれる女性の真摯な気持ちを踏みにじって……! それでも、あんたはカルメンがいいわけ!?」
怒りに肩を震わせるチヒロの横で、テンゴがそっと宥めるように声をかけた。
「チヒロ……ホセさん……もう出発するぞ。怪我人の手当ても早く終わらせよう」
「………………そうね」
チヒロは荒い息を吐きながら胸の怒りを収め、静かにホセから背を向けた。
打たれた右頬を押さえたまま、ドン・ホセはただ呆然と夜の闇の中に立ち尽くしていたのだった――。
ホセの目の前に横たわっていた怪我人の手当てを、チヒロとテンゴが代わりに取り仕切った。
頬を打たれた衝撃とチヒロの言葉に打ちのめされたホセは、その場に棒立ちのまま、手際よく手当てを進める二人の姿を呆然と見つめていた。もはや自分はどう振る舞えば良いのか、何が正解なのかすら分からなくなっているのだろう。
しかし、立ち止まっている猶予はなかった。一刻も早くここを出発しなければ、海岸の大騒ぎを聞きつけた役人や軍人たちが押し寄せてきてしまう。
「……これ以上は、もう馬車に乗り切れないな。これだけ怪我人が多いとなると……」
逃げていた密輸団の面々は四方八方へとバラバラに逃げ惑っていた。彼ら全員を収容しようにも、馬車のスペースはすでに怪我人で溢れ返っている。怪我を負っていない健康な者たちは、自分たちの足で歩いてついて来てもらうしかなさそうだった。
「馬車は私が引こう。――ホセ君、君が私の隣に来てくれないかい?」
エスカミーリョの呼びかけに、ホセは深く俯いたまま大人しく従った。トボトボと御者台へと登り、エスカミーリョの隣に腰を下ろすと、力なく手綱を握り締める。
やがて、ガタゴトと音を立てて馬車がゆっくりと動き出した。
馬車のすぐ後ろにはテンゴたち『宇宙の走破者たち』、そして無事だった密輸団の団員たちが、静かに歩調を合わせてついて行く。
背後に広がる深い森の奥には、遠からず近隣の住民や役人、そして追撃の軍人たちが到着するはずだ。この惨状では当面、密輸の取引などできるはずもなく、何より重傷者の手当てが最優先であった。一同が目指すべき道は、ジグラルタルの街へと向かう街道以外には残されていなかった。
ジグラルタルへ向かう道中、夜空は海岸に来た時と変わらず、吸い込まれそうな星々で眩しく照らされていた。
森に入った際にパラパラと舞い散っていた粉雪は、いつの間にかすっかり降り止んでいた。
明日はジグラルタルの街で、盛大な「牛追い祭り」が開催される。そして祭りのクライマックスには、花形闘牛士エスカミーリョによる圧巻の闘牛がお披露目される予定だ。テンゴたちの計画でも、明日はいよいよその闘牛を観戦することになっていた。
道中、ここに来る時には誰も気づかなかった変化に、テンゴがふと上空を見上げた。
そこには、夜空を青白く照らす美しい月(衛星)がひとつ浮かんでいた。
――そして、その正反対の方向。
夜の静寂の中に静かに佇む、一際不気味で幻想的な「赤い月」の姿を見て取ることができたのだ。
普通の月のように眩しく光って己を主張することもなく、かといって太陽のように生命の輝きを放つわけでもない。ただそこに、血のように深い赤を湛えた月が静かに浮かび上がり、冷ややかに彼らを見下ろしていた。
まるで、これから訪れる運命の結末を、静かに暗示しているかのように――。




