14:変わっていく、Ⅴ
結局、仕立て屋へ行くことはなかった。花冠を作るのに夢中になりすぎたせいで、仕立て屋が閉まる時間になってしまったのである。
「仕立て屋には行けなかったけれど……今日はとても楽しかったわ」
王妃の頭の上には、ステラに教わりながら作った花冠が慎ましくも彩りを添えている。
「ふふ、あの人に自慢するの」
その顔は少女そのものだ。きっと、今も恋をし続けているのだろう。
部屋に帰って、アゼルはステラから贈られた花冠を大皿に生けた。少しくたっとなってしまっていた花冠も、水を吸って少しだけ元気になったような気がする。
「アネーシャ、庭園へ行かないか」
外は少しずつ茜色に染まっている。その時間に見るのも、きっと綺麗だろう。
散歩に行った帰りなのに、という疑問もあったが、いつかに紙に書いたように、ステラはアゼルと庭園に行くのが好きなのである。
頷いて微笑めば、アゼルはゆっくりとステラの腕を取った。
庭園に着くころには一番綺麗な茜色の時間帯で、昼間に見るのとはまた違った美しさが庭園を包んでいた。
「―――ステラ」
ステラが来てからあつらえたテーブル。そこに腰掛けて、アゼルはいつになく落ち着いたような表情でステラを呼んだ。
「ステラ、俺はな……俺は、心を凍らせたんだ。まぁ……色々あってな。でも、お前がこう……笑うと、暖かくて、どんどん溶けてしまった」
ステラは言葉を紡ぐことができない。紡ぐための道具がない。けれど、きっと道具があってもステラは何も言わなかっただろう。たとえ、声が出たとしても。
「最初は否定した。けどお前がこんなことを言うから、否定しきれなくなって……それでも認めようとせずにいたら、ユアンに怒られた」
こんなことというのに思い当たる節がないステラはきょとりと首を傾げる。するとアゼルは懐から折りたたまれた紙を出した。
それはあの時のステラの言葉だ。アゼルが恐れた、隠すことのない本心。
「結局俺は、怖かったんだな」
ステラはその言葉に多少うろたえたが、しかしぐっと堪えてアゼルの言葉を待った。
「何度も裏切られたから、これ以上……続くのが、怖かった」
頑張っても、報われなかった。それどころか頑張り以上のものを奪われて、その度に涙した。そうしていつしか涙も涸れたと思ったのに……涸れたのではなく、涙は凍っていただけだった。
「俺は―――」
そう、呟きかけて、アゼルはステラの顔を見て困ったように微笑んだ。そうして、言いかけた言葉を飲み込む。暫くして口を開いたアゼルは、吐息交じりに言う。
「もう一度、頑張ってみようと思う」
その言葉は、ステラの心の中の箱を叩いていた。アゼルは凍ったと表現した、互いの心にある澱。アゼルは何もしないことを選び、ステラは声を捨てたその原因。
ステラはぎゅっと膝の上に乗せた手を握りしめる。これ以上は、いけないのに。
「俺は、裏切られるのが怖い。奪われるのが怖い。臆病者だ。だが―――ステラ、お前のために、俺はもう一度頑張ろう。だから……ステラ?」
アゼルは、ステラが唇を噛んで震えていることに気づいて言葉を止める。涙すらにじみそうなその瞳は、テーブルの上を睨んだまま動かない。たぶん、そうしなければ涙があふれてしまうのだろう。
アゼルは、懐に入れていた紙とペンを取り出した。ステラの声を聞かなければならないと、そう思った。
ステラは拒絶するようにそれに触れようとしなかったが、アゼルが促すように名を呼ぶと恐る恐るペンを手に取る。
『私は、幸せになってはいけないのです』
運命だと思った。こうして身代わりとして城に入り、外界と遮断された生活を送ること。それがどれほどの時間になろうとも、その間にも生活は続く。だから、これが己が幸せにならないであろう最善の道だと思ったのだ。―――だのに。
アゼルは震えているその“声”に、悲痛な表情でステラを見た。ステラも己と同じく何かを抱えている。それは薄々感じてはいたが、初めてそのことを明るみに出したステラが愛おしくてたまらなかった。そうして、軽い自惚れもがアゼルを襲う。幸せになってはいけないと己を弾くということは、もしや、と。
ペンを持ったまま震えている手。それに触れると、びくりと痙攣する。
「俺とお前は、似ている」
その言葉に、ステラは頷いた。抱えてしまったものがある。それが、二人の行動を酷く制限しているのだ。
「だが、お前のおかげで、俺は一歩踏み出せる。だから―――」
アゼルはそのままステラの手を取った。ステラはペンを落とし、それが紙に小さなしみを残す。
ちゅ、とステラの手の甲にアゼルの唇が落ちた。その瞬間、アゼルの唇が触れた場所がカッと熱を持つ。
「俺がお前の心を溶かせたらいいと、思うんだ……ステラ」
ああ、甘やかさなければよかったとステラは後悔した。あの時、アゼルに名前を教えることを己に良しとしなければよかった。アゼルがステラと呼ぶたびに、ステラは幸せになってしまう。けれど、それを認めるのはあまりにも恐ろしかった。声まで失って己に課したある種の呪いが解けた先に、何が待っているのかはわからないのだ。しかも―――この関係は偽りのもの。
ぽろぽろと涙を流すステラに焦るでもなく、アゼルは口付けたステラの手を両の手で包み込む。
「ゆっくりで、いいさ」
それでも駄目なのですと、ステラは言うことが出来なかった。




