10:変わっていく、Ⅰ
アンジュから荷物を預かり、連理の間に運びいれようとしていたユアンは、いきなり飛び出してきたアゼルに目を見張った。ユアンすら見えていないようだったアゼルはそのまま逆方向へ走っていってしまったが、ユアンはしばらくその場に立ちつくすことしかできなかった。何故なら、アゼルの瞳にあの日アゼル自身が捨ててしまったはずのものが蘇っていたからだ。
「アネーシャ様は、アネーシャ様が……本当に、」
そうなればいいと、思った。この偽りの関係を結ぶとアゼルが言い出した時に、これがアゼルの変化のきっかけになればいいと確かに思った。アネーシャ―――少女と接して、もしかしたらこの人ならば本当にアゼルを変えてくれるのではないかと思ったのだ。
「―――本当に、」
だけれど、喜びと共に今は思う。もしやこれは、何よりも辛い変化となってしまうのではなかろうか、と。
*
その頃少女は当初の目的通り図書室の中で本を選んでいた。今まで読むこともできなかった美しい装丁の本は、背を見ているだけで楽しくなってくるから不思議だ。何を読もうかとその背に指を這わせながら、ふと美しい紫色の背の上で指が止まった。
―――アゼル様の色。
深い紫の表紙に、金色の文字がすまして座っている。その文字を読んで、少女はふと微笑んだ。これを読もうと、それだけで決めてしまう。
少女にとって、アゼルは無気力な人間でも無能な人間でもなかった。面倒だ面倒だと言っているのは見かけるが、それが本心でないことはなんとなくわかった。似ていると、思ったのだ。
本を片手に、もう片手で喉を触る。
声を失ってしまった自分と、とてもよく似ていると思った。きっととても辛いことがあったのだろうことは、少女自身が一番よく知っている。今まで普通に持っていたものを捨ててしまうほどの出来事というのは、少女自身も体感しているのだ。
ちり、と喉が痛む。きゅっと唇をかむと、本を持つ手にも力が入ったのか微かに震えた。
人を好きになるってどんなことと母親に尋ねたことがある。母親は微笑みながらその人の笑顔を見たいと思うことよと言った。笑顔を見たい、笑いかけてほしい、そう思うことだと。ならば、今の少女はアゼルに恋をしているのだろうか。アゼルの笑顔が見てみたいと思うのは、アゼルに恋をしているからなのだろうか。
だとしたら―――と少女は己に蓋をする。私には、それは許されないことだ。
ガチャリと音がして扉が開いた。振り返れば、アゼルがそこに立っている。それだけでにわかに気持ちが軽くなって、少女は知らず微笑んでいた。
「名前を」
先程よりも息が上がっていた。それに驚いて少女はアゼルに駆け寄る。アゼルは息を整えると、言いにくそうに視線を泳がせ、少しだけ頬に朱を刷いてぽつりと呟いた。
「お前の、本当の名を、やっぱり……聞かせてくれないか」
びっくりして、少女はきょとりと瞳を丸めた。言わない方がいいと言ったのはアゼルなのにと思う反面、嬉しさがわきあがる。駄目だ駄目だと思いはしても、どうしようもなく嬉しくて、少女は自分に少しだけ甘くなることにした。どうせいずれ終わりが来るのだから、それまでは―――
「初めて会ったときは、ああ言ったが……、―――なんだ?」
少女はアゼルの弁解も聞かず持っていた本をずいとアゼルに近付けた。意味がわからないアゼルは不審げな顔をするが、少女はふわふわと笑いながら表紙を指さす。
「……ステラ……?」
表紙には、金色の文字でステラと書かれていた。きっと、物語の主人公の名前なのだろう。少女は頷いて、己を指さす。
「ステラ……?」
探るようにアゼルが言う。少女は頷いて、そして、綻ぶように笑った。それにつられるようにして、アゼルの中で何かが綻ぶ。
「―――ステラ」
口端に微かな笑みを確かに乗せて、アゼルはしっかりと少女の名前を呼んだ。
互いが確かに心の内に闇を秘めていて、それなのに―――だからこそ、言いようもなく惹かれあっている。そこにどんな運命が待っているのかというのは、まだ誰も知らないことだ。




