あの頃の私は、一人じゃなかった
私には三人の子供がいる。
精一杯走ってきた日々だった。
子供はもう中学生。
大分手が離れている。
やっと少し、息ができるようになった気がしていた。
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バスの中。
若い母親がいる。
三歳くらいの女の子と、赤ちゃん。
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母親は笑顔で、女の子に話しかけている。
「楽しかったね」
でもその目は、何度も赤ちゃんと周囲に揺れている。
ベビーカーは足元に強く引き寄せられている。
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笑っているのに、ずっと気を張っている。
(……ああ、分かる)
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昔の自分がそこにいた。
子どもを優先して、
笑顔を絶やさないようにして、
周りにも気を配って。
ずっと、いっぱいいっぱいだった。
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女の子は、その横で小さく母親の袖をつかんでいる。
離れないように、でも邪魔にならないように。
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アナウンスが流れる。
親子が降りようとする。
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「ベビーカー、降ろしますよ」
気づいたとき、私は立っていた。
一瞬だけ、間があく。
わずかに息が詰まる。
母親は少し驚いて、頭を下げた。
「ありがとうございます」
その言葉に、肩の力が抜ける。
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小さな女の子がこちらを見る。
私は、一度だけ目線を合わせる。
それから、もう片方の手を伸ばす。
「一緒に降りようか。足元気をつけてね」
小さな手が、すぐに握られる。
その手は、思っていたよりもしっかり握ってくれた。
胸の奥が、静かにほどける。
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降りる。
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ベビーカーを押し出し、母親がもう一度頭を下げる。
私は手を振る。
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遠ざかる親子を見ながら、気づく。
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(……あの頃の私も)
手を伸ばしてくれた誰かがいたのかもしれない。
一人で頑張っていたはずの記憶が、
少しだけ、違って見えた。




