測定不能
水晶に手を置く。
冷たい。
朝の井戸水みたいな冷たさだった。
待つ。
背後で次の人の足音が鳴る。
何も起こらない。
光らない。
数字も出ない。
沈黙だけが残る。
「測定不能ですね。前年と同じです」
「次の方」
後ろで、誰かが吹き出した。
「またかよ」
「意味ねーって」
「水晶かわいそうだろ」
ぱらぱらと笑い声が落ちる。
石を投げられているほどじゃない。
ただ、小石が当たり続けるみたいな感じ。
慣れているはずなのに、指先だけが少し冷えた。
ミドは水晶から手を離した。
「ありがとうございます」
言う必要はないのに、口が勝手にそう言った。
——今年も。
少しだけ、期待していた。
レベルは、出なかった。
——少し前。
始まりの町、という名前がついている。
誰が名付けたのかは知らない。
ただ、この町以外に人が住んでいる場所は、もうないらしい。
だから始まりで、たぶん終わりでもある。
朝の空気は少し冷たい。
パン屋の煙だけが白くて、やけに目についた。
石畳を踏む足音が、まだまばらな通りに乾いた音を残していく。
ギルドへ向かう人の流れに混じりながら、ミドはなんとなく空を見上げた。
森の向こう。
雲の切れ間に、黒い影が立っている。
塔のような、崖のような、形のはっきりしない塊。
子どものころから、ずっとあそこにある。
誰かが、あれは魔王城だと教えてくれた。
いまではもう、ただの景色だ。
洗濯物みたいに、そこにあるのが当たり前のもの。
目を逸らして、ミドは自分の手を見た。
少し硬くなった掌。
昨日も剣を振った。
その前の日も、その前も。
意味があるのかは、正直わからない。
それでも、振らない理由もなかった。
ギルドの扉を押す。
木が軋む音。
中は、いつもと同じ匂いがした。
紙と、鉄と、薬草と、汗。
生きている人間の匂い。
今日は少しだけ人が多い。
年に一度の、レベル測定の日だからだ。
「登録者は順番に測定してください」
受付の声が淡々と流れる。
強制ではないと言いながら、ほとんど強制みたいな顔をしている。
この町はもう、攻略のために回っている。
強い人間がどれだけいるか。
どこまで行けるか。
管理しないと、不安なのだろう。
ミドは列の最後尾に並んだ。
何人かがこちらを見た。
視線が一瞬止まって、それから逸れる。
慣れている。
慣れてしまった。
それが、いちばんよくない気がした。
「ミド・エスペロ」
「……はい」
水晶に手を置く。
冷たい。
朝の井戸水みたいな冷たさだった。
結果は同じ。
(まだか)
そう思う。
掲示板の前を通る。
四人登録必須の討伐依頼。
森の奥。
あの黒い影のほうへ向かう仕事。
四人。
自分には、関係のない数字。
——いや。
関係ない、で済ませたくない。
その時、視界の端に大きな背中が入った。
剣を背負った男。
立っているだけで、周囲が少しだけ距離を取っている。
強い人間の立ち方だ、と思った。
男は、背負った剣の位置を、無意識みたいに何度か直していた。
ふと、目が合う。
ミドは、反射的に会釈をした。
男は一瞬だけこちらを見て、すぐ視線を戻した。
それだけなのに、
胸の奥が、少しだけざわついた。
……ちゃんと、目を向けられたのは、初めてだった。
理由は、わからなかった。
掲示板の前は、朝より少しだけ騒がしくなっていた。
紙のこすれる音。
インクの匂い。
誰かが依頼票を剥がすたび、小さく破れる音がする。
ミドは端のほうに貼られた紙を見た。
上の段は討伐依頼。
四人登録必須。
中級以上。
自分にはまだ遠い場所。
視線を下げる。
薬草採取。
荷運び。
森の外縁の見回り。
単独可。
いつもの並び。
(こっちでいいか)
深く考えず、一枚剥がす。
今日の分のパン代と、夜のスープ代くらいにはなる。
それで十分だ。
依頼票を受付に渡そうとして、ふと横に影が落ちた。
さっきの男だった。
背の高い、剣を背負った男。
近くで見ると、思ったより若い。
それでも、立ち方が違う。
足の置き方とか、重心のかけ方とか。
無駄がない。
紙束をまとめて、受付にどさっと置く。
「この辺まとめて受ける」
低い声。
討伐依頼ばかりだ。
受付が一瞬だけ困った顔をする。
「ヒナタさん……四人登録の依頼は、パーティでないと」
「知ってる。だからイラついてんだよ」
舌打ちが小さく鳴った。
「一人で行けるって言ってんだろ。あんなの」
「規則ですので……」
ヒナタはしばらく黙って、紙をにらんでいた。
それから乱暴に掻き上げた前髪が、また落ちる。
強い人間にも、どうにもならないことがあるらしい。
ミドはその横を、静かに通り過ぎようとした。
「あ」
声がした。
自分かどうか、一瞬わからなかった。
「お前」
振り返る。
ヒナタがこちらを見ていた。
「さっき測ってたやつだよな」
少しだけ眉をひそめる。
軽蔑ではなく、確認みたいな顔。
「……はい」
それ以上の言葉が出てこない。
「レベル、出なかったやつ」
頷く。
「ふーん」
それだけ言って、ヒナタは口の端だけ上がった
けれど、さっき周りがしていたのとは少し違う笑い方だった。
「すげぇな」
「……え?」
「そこまで測れねぇって、逆に才能だろ」
冗談みたいな口調。
本気なのか、からかっているのか、よくわからない。
ヒナタは肩を回しながら言った。
「お前、暇?」
あまりにも唐突だった。
ミドは手に持った依頼票を見る。
薬草採取。
森の外縁。
いつものやつ。
「……まあ、いつも通りです」
「だよな」
ヒナタは小さく笑った。
「ちょっと付き合え」
「……え?」
「四人必要なんだよ。四人」
そう言って、掲示板の討伐依頼を親指で指した。
森の奥。
黒影の獣。
四人登録必須。
ヒナタはもう一度、ミドを見る。
「別に戦えなくてもいい。数がいりゃいいんだ」
言い方は雑だった。
でも。
それは、今日初めて向けられた、
「いらない」じゃない言葉だった。




