その六
14
そして明けて5日目となる木曜日。
その日の朝、考えもしなかった事件が起きたのである。
またしても麻衣の徒ならぬ声で起こされるはめとなったのだ。これは夢なのか? それともデジャブなのか?
「これはどういうことなのよ? 私の水着が戻って来てるっ!」
物干し台の方から、甲高い叫び声が響き亘る。
戻ってきている? 記憶しているのとは台詞が違っている・・・これはデジャブなんかではない!
大慌てで飛び起きて隣の布団を見ると、光一も目が覚めたようだった。翔太だけがアザラシのように微動だにせず横たわっていた。光一とともに物干し台に駈け付けると、そこには呆然と立ち尽くしている麻衣と、既に駆けつけていた奈美と景子の姿があった。
そして、信じられないことに、物干し用の竹竿からは見覚えのある赤い水着が垂れ下がっていたのだった。
「こ、これは!」
僕と光一が全く同じ台詞を同時に呟いた。
「ねぇ、これって誰かの悪戯なの?」
今にも泣き出しそうな声で、麻衣がその場に座り込んだ。
「ぱっと見た感じでは似ているように見えるけど、本当に消えた水着なのか?」
最初に感じた疑問点を、僕は訊いた。
「メーカー名は同じだし、デザインもサイズも一緒よ。そのものかどうかを判別できる自信はないけど、私の目には同じ製品だと思えるよ」
動転している麻衣の代わりに、景子が答えた。
「ふーむ。たとえば傷とか汚れとか、あの水着にそういう固有な特徴はなかったのか?」
「なかったわよ。だって、皆も知ってのとおり今回のために新調したんだからね」
こんな目に遭って気が立っているのであろう、麻衣が怒ったように言う。
「そうだったな。だとすると同じ水着だと考えるのが自然だろうな」
「こんなことが次々に起こるなんて、もう気持ちが悪くて・・・。あのままずうっと消えたままだった方がまだ良かったのに・・・」
また泣き出しそうに、麻衣が顔を歪ませた。
「鍵は掛かっていたんだよな?」
「ええ、もちろんよ。昨日は山登りで汗まみれになったTシャツを洗濯したから、ここに干し終わって出て行くときに、また盗まれたりすると嫌だと思って、きちんと鍵をしたわ」
確かに奈美の言う通りなのだろう、目の前には3着の可愛いTシャツがぶら下げられている。ただひとつ一昨日と違っているのは、あのときは『有るべき赤い水着がなかった』のが、今日は『有るはずのない赤い水着が有る』・・・ということだ。
「僕にでも分かったことが、ひとつだけある」
光一が、自信たっぷりに言った。
「どういうこと?」
景子が、幼女のような仕草で首を傾げた。
「一旦は水着を盗んでおいて、それなのに戻してきたこの犯人が、リスではなくて人間だということさ」
光一らしいジョークだった。
しかし、笑って済ませられることではなかった。盗んで行った方法も解けないままだというのに、今度は返しに来たという謎が追加されたのだから。
「もし誰かに目撃されたら・・・と、犯人は考えなかったのだろうか? いや、考えないはずがない」
僕が独り言を呟いたとき、誰かの声が聞こえた。
「これは予想外だったな。これも田舎ならでは・・・ってことかな」
その聞き覚えがある声の主は・・・、果たして馨だった。
「何か分かっているかのように聞こえたが、それってどういう意味だよ」
少し気色ばんで光一が訊く。
「今の時点ではその質問に答える気はありません。それに、水着が消えた前回とは情況が少し違うようだ」
「もしかして、君にはこの謎が解けたとでも言うのか?」
「そこまで断言するのは時期尚早ってやつだけど、多分、解けたかと思う」
「へぇぇ、これは大きく出たものだ。じゃあ説明してみろよ」
「推理はできるのだが、証拠が揃っている訳じゃない。いくつかの点を確認することが出来るまでは、さっきも言ったように何も説明したくない」
「じゃあ、いつなら良いのだよ?」
「そうですね。夕方まで待ってくれたなら、君達にも納得のいく説明が出来ると思うよ」
「絶対だな? 約束したからには絶対に守れよ!」
光一が、まるで脅迫するかのような口調で、馨に向かって言った。
「そんな言わなくてもいいのでは?」
奈美が口を尖らせて、光一を睨んでいた。
「そうはいかないよ。男の約束ってのはとても重いものなんだぜ」
「僕は別に構いませんよ。それでは夕食の時間にお会いいたしましょう」
そう言うと馨は踵を反して、さっさと階下に下りて行く。
「何なんだよ、あの態度は」
光一は気が治まらないらしく、廊下の壁を思いっきり蹴った。
その音に反応したという訳でもないのだろうが、
「そうだ。ついでだからあの怪獣の謎も解いてあげますよ」
馨の声だ。階段の途中で喋っているのだろう。
耳にした台詞の意味を理解しようとして、僕らは等しく黙り込んだ。
そうして生まれた静寂の中に、階段を下りていく足音だけが響いていたかと思うと、やがて元通りの静寂に戻った。
そのときになって、やっとアザラシもお目覚めになったようで、
「むにゃ、何かあったのにゃ?」
瞼がだらんとした半眼状態で、まだ呂律の怪しい翔太が分け入ってきた。
空気の読めないアザラシにいらつきながら、僕が一部始終を説明すると、
「それが間違いないことなら、犯人はどこから入ったのだろう?」
やっとお寝覚めになったのか、翔太が窓際に歩み寄った。
「ほほぅ、今回も錠前はきっちり閉まっているんだ・・・」
「ああ、そうだよ。またしても密室だよ」
「窓がダメなら、その入り口から入るしかないな。今思い付いたんだが、ここの鍵を持っているのが麻衣達だけってことはないんじゃないかな?」
「ああそうか。この物干し部屋は2階の宿泊者用として作られているみたいだから、法宮さんにも渡されている可能性は高いな。その鍵を使ったのだと考えたら、馨が犯人だという可能性もあるな」
翔太らしくない疑問を投げかけられて混乱したという訳でもないが、僕は同調していた。
「きっとそれだ!」
光一がそう断言するなり、法宮さんの部屋に急行した。
一番奥の部屋に辿り着くと、ちょうど法宮さんが出てきたところだった。
「おばさんに伺いますが、あの女性用物干し部屋の鍵を持っていますよね?」
礼儀知らずと責められても仕方がないような言葉遣いで、光一が単刀直入に訊いた。
「あら、それはどういうことでしょうかしら? 何かあったようなのでまぁよろしいでしょうが・・・、私はこちらの御主人様達と同じく、階下にある物干しを使わせていただいておりますので、2階の方の鍵は最初から預かっていないのですよ」
「そっ、そうなんですか?」
「あなた達みたいに若いと何でもないことなのでしょうが、洗濯機にかけたあとの衣類をここまで運び上げてくるのは大変なのよ。だって水を含んだ洗濯物って結構重いのよね」
疑いを掛けられたことなど全く気にすることのない様子で、上品な笑顔を最後まで絶やすことなく丁寧に説明をしてくれるのだった。
光一の推理は見事に外れたようだ。
とぼとぼと自分たちの部屋に戻り、敷きっ放しであった布団の上に横たわると、目を閉じたままで僕はいろいろと考える。
どうしても理解できないのは、一旦盗んだ水着を元通りに戻すということの意味だ。
少なくとも、こんな行動を取るのは思考回路というものを持つ唯一の生物である『人間』でしかありえないということは分かる。だが、元通りに戻すことのリスクを考えれば、何もしないことの方が絶対に安全であるはずなのだ。それなのに・・・何故だ?
見たこともない謎の怪獣、密室から消えたかと思えば再び戻ってきた水着・・・、僕らには何ひとつ分からないことだらけだ。
そして、今さっき馨が口にした約束は本気のことなのだろうか?
15
幸いなことに・・・というのも妙な言い方であるが、親と約束した英数の宿題が、まだ幾分残っていた。
夕方までの時間を、なるだけ事件のことは考えないようにして、ひたすら勉強のために費やすことに決めた。そうでもしていないことには、頭の中がおかしくなりそうな気がしたのだ。
昼食の間も全員が黙り込んだままで、せっかく作ってくれたおばさんには申し訳ないが、味もよく分からなかった。
今日は午後の日差しを浴びることなく、黙々と問題を解いていく。
勉強以外のことを考えるのが怖いという状況下にあっては、勉強に打ち込む姿勢が尋常ではなくなるのだということを生まれて初めて知らされた。ざくざくと宿題が片付いていった。
やがて夕食の時間が近付いた頃には、僕ら全員がノルマをクリアしていたのだった。
さて、謎の解明に必要とするデータは全て提出いたしました。
読者の皆さんにも、この三つの事件の真相を推理していただければ幸いです。