プロローグ — エレベーターの中の最初の小さなレックス
子どものころ、恐竜を飼いたいと思ったことはないだろうか。
巨大なティラノサウルスじゃない。
車を追いかけ回して、仮設トイレをぶち壊すようなやつでもない。
もっと小さいの。
自分だけの。
家で飼えるやつ。
シェパードくらいの大きさで。
リードをつけて散歩できて。
玄関まで迎えに来て。
ソファのそばで眠って。
近所の人に、
「それ、何ですか?」
と聞かれたら、
こっちは平然と、
「レックスです」
と答える。
それだけ。
小さな、家の恐竜。
怪物じゃない。
博物館の骨でもない。
図鑑の絵でもない。
生きていて、温かくて、すばしっこくて、ちょっと変な動物。
玄関で息をしていて、
冷蔵庫をじっと見つめている。まるで、その扉の向こうに白亜紀の心臓でも隠してあるみたいに。
最高じゃないか。
実際に家に来るまでは。
恐竜を飼う夢は、たいてい
「うわ、すごい!」
で終わる。
恐竜との生活は、その次から始まる。
「何を食べさせればいい?」
「なんでこんな匂いするの?」
「今の、こいつがオナラした?」
「なんで猫が三日間ずっと棚の上にいるの?」
「なんで冷蔵庫を開けるのに監視が必要なの?」
「このおもちゃ誰が買ったの? 四分しかもたなかったけど」
「このリード、なんで自転車をロケットにつないだみたいになってるの?」
そして何より、
「この街で、小型獣脚類を保険で診てくれる獣医って、どこ?」
思い描いていたのは、喜びだった。
実際に手に入ったのは、
給餌スケジュール。
マズルガード。
爪に負けないベッド。
園芸用のハサミみたいな爪切り。
「敏感な鱗と不安定なトサカに」と書かれた専用シャンプー。
レックスにとっては違う。
人間の匂いが染みついた、縦に動く洞窟だ。
エレベーターが着く。
扉が開く。
そして、ここから本当の話が始まる。
中には、隣に住む女性がいる。
腕にはキャリーケース。
キャリーケースの中には猫。
一秒。
誰も動かない。
こちらは隣人を見る。
隣人は恐竜を見る。
猫は、自分の人生が終わったと思う。
では、レックスは?
レックスには「バルシク」は見えていない。
家族に愛され、
窓辺で眠り、
パテを食べ、
人間よりソファの権利を持っている、
あのふわふわした家族の一員だとは知らない。
レックスが見ているのは、
動き。
匂い。
温かい体。
目。
毛。
箱の中で、急に全身をこわばらせた小さな生き物。
人間にとっては、猫。
隣人にとっては、わが子。
猫にとっては、災害。
レックスにとっては、
合図だ。
狭いエレベーターの中に、
その瞬間、文明が全部詰め込まれる。
片手のコーヒー。
もう片方のリード。
ポケットのマズルガード。
壁際の隣人。
ケースの中の猫。
床にいるレックス。
一階のボタン。
恐怖の匂い。
コーヒーの匂い。
フードの匂い。
そして、
昨日の夜、
「まあ、いいじゃん。小さいんだし」
と思った、
あの太古の決断の匂い。
小さいからって、簡単なわけじゃない。
小さな恐竜は、ただ小さくしたおもちゃじゃない。
本能も、歯も、爪も、胃袋もある。
匂いがあり、気になるものがあり、怖いものがあり、欲しいものもある。そして、人間とは違う、自分なりの世界の見え方がある。
名前をレックスにすることはできる。
でも、
リードを買っただけで犬になってくれる義理はない。
ここで初めて、
その問いは子どもの空想ではなくなる。
本当に、恐竜を家で飼えるのか?
ワンルームでオナラされたら?
ソファの裏に卵を産まれたら?
飼い主の顔ではなく、靴下の匂いで本人確認されたら?
散歩中にハトを見つけて、
進化が自分に脚を与えた理由を突然思い出したら?
こちらはレックスを見る。
レックスは猫を見ている。
猫はこちらを見ている。
恐竜を手に入れること自体が、いちばん簡単だった。
エレベーターの扉が閉まる。
下へ動き始める。
まだ、
最初の朝だ。




