29. 阿佐美の昔話1
リコと出会ったのは、俺が六歳の時だった。
その日、俺は母親をヒューズに殺された。
保護地区を転々としていた俺たちは、しばらくの間、崩れかけた廃屋の地下室を住処にしていた。天井のひび割れからは時々砂が落ちてきて、雨が降れば壁を伝って水が染み込んでくるような場所だったけれど、それでも外よりは安全だった。
その日、母は食料を分けてもらうために外へ出た。保護地区へ向かう途中で、運悪くヒューズに遭遇したらしい。
俺が母を探しに外へ出た時には、もう――遅かった。
道の途中、崩れた建物の影に母は倒れていた。身体は動かず、呼吸もない。
食料は、持っていなかった。おそらく保護地区へ行く途中で襲われたのだろう。
俺は、母の隣にしゃがみこんだ。
物心ついた頃から、俺と母は二人でこの世界を生きてきた。崩れた都市、空を覆う灰色の雲、そしてどこに現れるかわからないヒューズ。
それでも――俺は幸せだった。
母は、どんな時でも笑っていたからだ。
ある日、聞いたことがある。
「どうして、いつも笑ってるの?」
母は少しだけ考えるふりをして、それからいつもの調子で笑った。
「うーん……世界平和のため、かなー!!」
当時の俺は思った。
――何言ってんだ、この人。
けれど、今ならわかる。
あれはきっと、母なりの痩せ我慢だった。誤魔化しで、冗談で、そして――
俺が不安にならないようにするための、優しい嘘だった。
俺は母の手に触れた。冷たかった。もう体温は残っていない。その感触を、俺はただ黙って確かめる。
涙は出なかった。
泣き方なんて、知らなかったのかもしれない。それとも、現実がまだ理解できていなかったのかもしれない。
ただ、ぼんやりと母の手を握りしめていた。
世界が急に静かになった気がした。どれくらい時間が経ったのかは、わからない。風が吹き、瓦礫が転がる音だけが遠くで響いていた。
――その時だった。
ふいに、声が聞こえた。歌だった。
小さくて、澄んだ声。この荒れ果てた世界には似合わないほど、柔らかい歌声。
俺は顔を上げた。
まるで糸に引かれるみたいに、俺は立ち上がる。母の手を、そっと地面に置いた。そして、歌のする方へ歩き出した。
瓦礫の隙間を抜け、崩れた壁を回り込む。歌声は、すぐそこから聞こえていた。
瓦礫が積み上がったその場所に、彼女はいた。
崩れたビルの残骸が山のように重なり、その頂上に腰掛けるようにして、ひとりの少女が空を見上げている。さっきまで聞こえていた歌声は、間違いなく彼女のものだった。
俺が近づくと、少女は気づいたように顔を向けた。
「あれ? 人間の男の子? こんにちは!!」
明るい声だった。
その声に、俺は一瞬だけ立ち止まる。人間の姿をしている。年も、俺とそう変わらないように見える。
でも――
首元にある黒いチョーカーが目に入った。
ヒューズだ。
あれは個体識別用の首輪のようなものだと、前に保護地区で会った爺さんが教えてくれた。ヒューズを管理するための印。人間と区別するための印。
つまり、目の前の少女は――人間じゃない。
「こんなところで一人なんて、親御さんは?」
少女は瓦礫の上から軽やかに飛び降りて、俺の前に立った。そして少し身をかがめて、俺の顔を覗き込む。
「……どうして、そんな悲しそうな顔をしているの?」
自分でも、きっとひどい顔をしているんだろうと思った。鏡なんて見なくてもわかる。
口の中が乾いて、言葉がうまく出ない。それでも、俺はやっとのことで声を絞り出した。
「……歌、聴こえた」
「うん」
少女は短く頷く。
「母さん……死んだ」
「うん」
また頷く。
驚くでもなく、否定するでもなく、ただ静かに受け止めるように。
それだけで、胸の奥に押し込んでいた何かが、ぐらりと揺れた。
「……おれ、何もできてない」
声が震える。
「俺が……おなかすいたって、ねだって……」
言葉が止まらない。
「外、危ないのに……いつもはちゃんと装備してから出るのに……我儘言っちゃって……」
少女は何も言わない。ただ、静かに聞いている。
「そしたら……母さん……」
喉が詰まる。
「……おれの、せいで……」
その瞬間だった。
胸の奥に溜まっていたものが、一気に溢れ出した。
苦しい。悔しい。どうして。
俺が悪いのに。
見ず知らずの、初めて出会ったヒューズの前で、俺は自分の罪を吐き出していた。
さっき、母の前では泣けなかったのに。
今は涙が止まらない。視界が滲んで、瓦礫の景色がぼやけていく。鼻の奥がつんと痛い。
どうしてこんなこと、ヒューズに話しているんだろう。
母さんを殺したのはヒューズだ。俺はヒューズを恨んでいるはずだった。
憎いはずだった。殺してやりたいくらいに。
なのに――
目の前の少女には、そんな感情がどうしても湧かなかった。
むしろ、彼女は人間みたいだった。
俺の言葉を遮らず、責めもせず、ただ静かに聞いてくれる。その姿は、この世界で見てきた大人たちよりも、ずっと人間らしく見えた。
しばらくして、少女はゆっくり口を開いた。
「そっか」
それだけだった。
責める言葉も、慰めの言葉もない。ただ、小さく頷いて――
「……でもさ」
少女は少しだけ首をかしげて、俺を見つめた。
「お母さんは、きっと君のこと大好きだったんだね」
その言葉に、俺は顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった視界の向こうで、少女が優しく笑っていた。
「だって、お腹すいたって言われたら、頑張っちゃうもん」
彼女は空を見上げる。
灰色の雲に覆われた空だった。
「好きな人のためなら、危ないことでもやっちゃうのが、人間ってやつなんでしょ?」
それは、ヒューズの言葉とは思えなかった。
まるで――
人間よりも、人間のことを知っているみたいだった。
「だからさ」
少女は俺の目をまっすぐ見て言った。
「それ、“君のせい”じゃないと思うよ」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥に固まっていた何かが、音を立てて崩れた。
俺はまた、泣いた。
今度はさっきよりも、ずっと大きな声で。
少女は何も言わず、ただ隣に座っていた。
「……お母さんのところまで、私を連れて行ってくれないかな?」
ヒューズの彼女は、そう言って俺を見た。声は変わらずやさしくて、どこか遠慮がちだった。
俺は少しだけ迷った。
ヒューズを母の元に連れて行くなんて普通ならありえない。だけど、なぜか断る気にはなれなかった。
「……こっち」
短く言って、俺は歩き出す。少女は何も言わず、静かに後ろをついてきた。
崩れた建物の影を抜け、瓦礫の道を進む。そして母が倒れている場所へ戻った。
少女は母の姿を見ると、一瞬だけ目を細めた。けれど驚いた様子も、恐れた様子もない。
ただ静かにしゃがみこんで、母の顔を見つめた。
「……ここじゃ寒いね」
ぽつりと呟く。
それから彼女は立ち上がると、母の体をそっと抱き上げた。
ヒューズだからなのか、見た目よりずっと力が強い。俺では動かすこともできなかった母の体を、彼女は軽々と持ち上げた。
「どこに運べばいい?」
「……俺の、住んでた地下」
俺が指差すと、少女は頷いた。
崩れた廃屋の地下室。俺と母が住処にしていた場所。少女はそこまで母を運び、静かに床に寝かせた。それから、少しだけ目を閉じて――
歌い始めた。
さっき聞いた歌だった。
やわらかくて、澄んだ声。この荒れた世界には似合わないくらい、きれいな歌声。だけど、その歌はどこか寂しかった。静かで、やさしくて、胸の奥にじんわり広がるような旋律。俺は何も言えず、ただその歌を聞いていた。歌が終わると、少女は外へ出て、瓦礫や石を集め始めた。そして地下室の外に、小さな墓を作った。
不格好で、粗末な墓だったけれど――そこには確かに、誰かを想う気持ちが込められていた。
最後に、石を一つ置いて、少女は小さく息を吐いた。
「……これで大丈夫」
俺は墓を見つめながら、ぽつりと言った。
「……ありがとう」
少女は振り返る。
それから、ぱっと笑った。
「どういたしまして!」
そして少しだけ照れたように、頭を掻く。
「君のためになれたなら、私の本望だよ……!」
そのあと、彼女は少しだけためらってから言った。
「ねぇ」
「……?」
「行く当てがないなら、私と一緒に来ない?」
俺は眉をひそめた。
「あんたと? なんで?」
少女は少し考えて――そして、ぱっと顔を上げた。
「ひとりぼっちは寂しいから!!」
元気よく言う。
「私が寂しいから、君といてほしいの!!」
それから急に声が小さくなる。
「……だめ、かな?」
俺はその顔を見た。
きっと嘘だ。
きっとこれは――俺のための嘘だ。
母さんと同じだ。
あの人も、いつも笑っていた。俺を安心させるために。
このヒューズも、きっと同じことをしている。
……でも。
一人は、寂しい。
さっきまで母がいた世界が、急に空っぽになってしまった。
俺は小さく息を吐いた。
「……いいよ」
少女の目がぱっと輝く。
「一緒にいてあげる」
その瞬間。
「やったーーー!!」
少女は両手を上げて飛び跳ねた。
「これからよろしくね!!」
そして突然、何かを思い出したように手を叩く。
「あっ、自己紹介忘れてた!」
胸を張って言う。
「私の名前はリコ!!」
首のチョーカーを指差して笑う。
「歌唱用ヒューズのリコ!!」
俺は少しだけ間を置いて答えた。
「……阿佐美秀」
「しゅう!!」
リコは嬉しそうに笑う。
「よろしくね、しゅう!!」
何がそんなに嬉しいのか、リコはずっと笑っていた。
その笑顔は――
少しだけ、母さんに似ていた。
悪くないな。
そう思った。




