閉じた箱
第一章 閉じた箱
強い西日がジリジリと肌を焼いていた。起きぬけの視線は薄汚れた天井をゆらゆらとさまよっていた。
(ここは研究室だ)
背もたれを倒していた椅子から健吾はゆっくりと起き上がった。寝癖のついた短い髪をかき分ける。
そこは健吾の所属先である研究グループが使う、見慣れた研究室だった。一方の壁には所狭しと学術書の詰まった資料棚が並び、その上や手前の床には資料用のレジュメが乱雑に積み上げられている。もう一方の壁には5mの長机が置かれ、その上にはCRTモニタやら簡易脳波系やらの機材がぎっしりと並んでいた。机の下にはパソコン本体がいくつも床置きされている。部屋には自分一人きりだった。
健吾は自分が座っている回転椅子に視線をうつした。この椅子は他のものよりも質が良い。研究助手の山内が使う椅子だ。窓際に専用の机を持ち、椅子も特別製のものを使っている。彼は教授と同じくほとんどこの研究室にはよりつかない。そのためこの高価な椅子も学生達が好き勝手に使っているのが常だった。
椅子を回して外を見る。三階の窓の外には青々とした木々の頭がいくつも立ち並んでいる。夏本番までもうあと少しといったところだろうか。研究錬のそばを通る人影は無い。
はて、いつから寝てしまったのだろうか。健吾は壁にかかる時計を確認した。時計の針は午後3時を指していた。三時限目が終わった頃合だ。
ひょっとして次の講義は必修だったか。ふってわいた焦燥感はすぐに静まった。四年生になってからというもの、出なくてはならない講義は取りこぼした水曜日一時限目の第二外国語だけになっていた。なので、四時限目に予定はない。今日は水曜日だろうか。
まだはっきりとしない頭を揺らしながら、健吾は入り口近くのカレンダーに近寄った。しかし、今日が何日なのかわからない。さらにいえば何月なのかもわからない。六月だったか、七月だったか。カレンダーは一年すべての暦が載っているので、いまが何月なのか判断できない。
これは疲労からくるストレス性の健忘症だろうか。それとも若年性の痴呆症にでもなってしまったのか。健吾はげんなりした。健吾の教授は人使いが荒く、半ば強制的に基礎部分の研究を山ほど手伝わされていた。大学院を志望する健吾は、とにかく教授の覚えめでたくなければならない。なので教授の言うことに逆らうわけにはいかなかった。データの整理からサンプリング調査、わけのわからない機器や試薬の被験者なんてのもやった。この研究室を選んだのは早計だったかもしれない。ただ、教授も飴とムチの使い方は心得ているようで、卒業研究で何を書いても通してやるから心配するなと心強い言葉を貰っている。教授会にそれほど強い権限を持っているようには見えないものの、研究室を二つも押さえている教授の言葉であればまず心配はないはずだ。
教授から次の作業を指示される前に、なにか口にしておいたほうがよい。そう思い立ち、健吾は日付の疑問を一旦棚上げにした。学食が閉まるのは午後5時だったか。まだ十分間に合う。
研究室から出ようとしたところで、健吾は立ち止まった。一応、教授に声をかけておいたほうが良いだろう。健吾はこの研究室から壁一枚となりの部屋――学生達は教授室と呼んでいる部屋へ続くドアへ進みノックした。返事は無い。ドアを開け中を確認してみたが案の定、教授は不在だった。こちらの部屋も十分に散らかっている。いつか片づけを命じられるだろうと思いつつ、健吾はドアを閉めた。
研究錬から南側の講義錬まで続く廊下は意外にも静かだった。サークル錬ほど賑やかな場所ではないにしろ、午後は大抵どこかの実験教室で授業が行われているものなのだ。だが今日に限ってはそれもないようだった。廊下も無人で、どこか薄ら寒い気もする。外が明るいせいで影が濃くなっているのだろう。
健吾は階段を一つ下りてすぐ横にある渡り廊下から講義錬へ向かった。どの講義室でも講義はやっていないようで、講義錬も閑散としたものだった。もしかして今日は日曜日だっただろうか。あるいは何か事件なり事故が起きて自分以外みな消えてしまったのではないか。そんなやくたいもない妄想をしつつ健吾はペタペタとサンダルを鳴らして歩いていった。
講義錬の二階から続く本館の食堂へ入ったところで、健吾は立ち止まった。嫌な予感が当たったようだ。食堂が閉まっているのだ。
いつもは誰かしらがたむろしているテーブルは無人で、調理しているおばちゃん達もいない。そもそも食堂の入り口には営業時間外を示す赤いテープが垂れている。電灯もついていない。
健吾は心持ち早足で脇の階段から一階へ降りた。一階の本屋も同様に閉まっていた。どうやら休日というのは間違い無さそうだ。一階の本屋は土日が休みだが、二階の食堂は日曜のみ定休日だ。なので今日は日曜日ということになる。
あるいは祝日かもと考えてみたが、すぐにその考えを打ち消した。さすがにゴールデンウィークは過ぎた気がする。となると、夏休み前に祝日は無い。やはり今日は日曜日なのだ。
では日曜日に食料を調達するには、どうすればよいか。
学内に入っているコンビニは日曜日が休みだったはずだ。となると大学の構内から出て近場のコンビニまで歩く必要がある。あるいはもう駅前まで行って、どこかの店で食べてもいい。といっても、そこまで空腹というわけではない。いやでも、あとで食べたくなれば、結局買い出しに出なくてはならない。いやいや、夕方になって教授にたかる、もとい夕食をご馳走してもらうという手もある。
しかし、あの教授も助手の山内も実験がひと段落つくまでは食事そっちのけで続ける人達だ。やはり、何かしらの食料を自前で確保しておく必要がある。そういえば机の引き出しにカロリーメイトを入れていたような気がする。いや、それをあてにはできない。すでに同期の誰かの腹の中かもしれないのだから。
色々と考えているうちに、健吾はふとあることに気がついた。
(もしかして教授もいないのでは)
それは十分ありえることだった。これまでも何回か日曜日に出てきて研究の手伝いをしたことはあった。だが当然、本来は休みの日である。研究熱心な二人ではあるが、たまには日曜日に休みをとるのではないか。そしてそれが今日なのではなかろうか。とすると、健吾は誰も居ない研究室で一人寝ていたということになる。
学生一人を研究室で寝かせたまま、教授も山内も帰ったりするだろうか。あまりに自分が気持ち良さそうに寝ていたから起こさないで帰った、というのは流石にない。健吾は研究室の鍵を持っていないからだ。このまま自分が帰ってしまったら、研究室に鍵をかけることができない。教授のほうは割りとおおらかだが、神経質を絵に描いたような助手のほうがそんな事態を許すはずがない。大学のローカルネットと研究室内のネットワークをつなげず、あまつさえ研究室内のアクセス権限の管理も非常に厳しいものにしているあの男なら、自分が帰る際にかならず健吾を叩き起こすか、どうしても起きないのであれば研究室の外に放り出して鍵をかけるはずである。なので、教授か山内の二人のうち、どちらか一方は必ず研究室か教授室、あるいは地下の実験室にいるはずである。
万一、急用ができて慌てて帰ったのであれば、メモか何かが残されているだろう。そうした場合、上手くすれば今日は帰れるかもしれない。そういった事態も想定するのであれば、いますぐ食べなくても保存がきくカップラーメンを購入するのが正解だ。そう健吾が結論を出すまでの間、一階の本屋の店内や通用口、そしてそこからガラス張りで見える日の当たる外の世界のどこにも、動くものの影は確認できなかった。
本館一階、本屋前にある通用口の扉は開かなかった。鍵がかかっていたのだ。
ドアノブの下側に鍵穴があり、外側と内側両方から鍵のかけられるタイプの扉だった。日曜日であればさもありなんと、健吾は講義錬の正面玄関へ回った。しかし、こちらの扉も全部閉まっていた。夜間に使う小さな通用口の扉も閉まっている。試しに正面玄関全ての扉を押したり引いたりしてみたが、ガチャガチャと鳴るだけで開く気配はない。健吾はここにきて、ようやく閉じ込められたのかもしれないという焦りを感じた。
さて、どうするか。本館一階の事務室へ行ってみる。だが、窓口のシャッターは降りて、中へ入る扉も鍵がかかっていた。ノックすれども返事なし。人の気配もなかった。事務室の近くにある外への通用口も同じように開かなかった。いつもは守衛のいる控え室の小窓にもカーテンが降りている。試しに呼んで見ても返事はない。
これまで日曜日に外へ出るにはどうしていたか、健吾は必死に思い出した。確か、昼間は講義錬正面玄関の通用口が開いていた。日曜日を問わず、夜間はいまいるこの事務室横の通用口を守衛に挨拶して出て行ったはずだ。そもそも、休日だからといって昼間の時間帯に守衛室が空というのはおかしい。
熱くもないのに、じんわりと背中に汗がにじんだ。そしてそれは休息に冷えて、必要以上に体温を奪う。外は暖かな日差しが燦燦と照りつけているのに、日の差し込まない廊下は妙に冷え冷えとしていた。
もうこうなれば、窓から外へ出るしかない。他にも通用口はいくつかあるだろうが、それらを全て見て回る気にはなれなかった。万一、全て閉まっていたとしたらそれこそ閉じ込められたという事実が確定してしまう。そのようなことを想像したくもない。ともかく出てしまおう。窓を開けて窓枠を乗り越えて外へ出て、そしてコンビニでカップラーメンと緑茶のペットボトルを買い、ついでに何か菓子パンでも買って戻ってきたら、また窓から入り鍵を閉める。これで完璧なはずだ。ついでにから揚げも買おう。
焦燥感に駆られながら健吾は窓へ近づいた。講義錬の大きな外窓とは違い、事務室の廊下前にある窓は小さい。といっても高さ1.5m、幅1mくらいの引き違い窓なので、あけてサッシを乗り越えればどうということはない。設置されている高さも、健吾には十分に乗り越えられる高さだ。問題ない。いける。
内側からかけられている窓鍵を握ったところで、嫌な考えが健吾の頭をよぎった。
(警備システムが作動するかもしれない)
健吾はこの大学の警備システムに詳しいという訳ではない。だが、一般的な建物では、それもある程度金目のものがありそうな場所では、人がいないときはそういったシステムを作動させておくのではないか。
恐らく平日の日中帯であれば問題ないだろう。誰もが窓を開ける可能性がある。だが、人のいない時間はどうだ。そういった時間帯は警報システムを作動させるのではなかろうか。例えば警報が鳴ったとして、それこそいま目と鼻の先にある守衛室で警報が鳴った場合にどうすればよい。守衛室にはこちら側からは入れない。一旦事務室を経由しないと無理だ。事務室の扉にも鍵がかかっていた。ということは、アラームがなった状態で自分は窓から出て行き、そして帰ってきてからもアラームが鳴り響く状態を放って置いたまま研究室に戻るのか。もし守衛室のなかで守衛さんが居眠りでもしていて飛び起きてくれるのであれば、事情を説明して笑い話にもなるだろう。むしろ、居眠りしていた守衛さんの落ち度だ。
だが、守衛さんがおらず、一晩中アラームが鳴ったままだとしたら、それはやはり問題になり、その問題を引き起こした自分にも責任が発生するのではなかろうか。
いや、それよりさらに深刻な事態としては、警報システムが警備会社に直結しており、警備会社から誰かしらが駆けつけてくるようなことがあったらどうだ。それこそ、ごめんなさいだけでは済まず、出動で発生した料金なりを請求されそうな気がする。そこまで迷惑をかけるのもまずいだろう。
健吾は窓ガラスを覆うサッシ部分を注意深く眺めた。よく見れば上のほうに、いかにもここが電通していますよと言わんばかりの窓枠とは違う金属の接触面があった。胸をなでおろす。危ないところだった。
もう一度、守衛室に声をかけて応えがないことを確認したのち、健吾は一階の通用口の扉を総当りで試してみることにした。
そして本館、講義錬、研究錬の外へ続く全ての扉に鍵がかかっていることを把握した。
暗雲立ち込める、とはこういう状況を指すのだろう。しかし、外は相変わらず午後の日差しが強く照りつけているようだ。風はないのか、木々も芝生も太陽の光をじっとその身に受けている。
さしもの健吾も、全ての扉が内側から開かないということは想定していなかった。扉の中には内側から鍵が開きそうなタイプのものもあった。だが、ドアノブの先にあるつまみを回してもビクともしなかった。例えば火事になったとして、この状態でどこから逃げればよいのだ。消防法の観点から言って、この建物には不備がある。憤ってみたものの、健吾にはどうしようもなかった。
焦りと苛立ちが半々、そんな状態で健吾は研究室へ戻ることにした。途中の階の非常階段へ通じる扉も試してみたが、やはり開かなかった。どうやら本格的に閉じ込められたらしい。
研究室に戻ってメモを探したが、それらしき物はどこにもなかった。長机の上には院生の田中先輩がいつも読んでいる脳科学関連の本が詰んである。山内助手の机だけはいつも通り片付いている。見慣れた風景だ。
教授室へのドアに鍵がかかっていないのは先ほど確認している。いま一度入ってみたもののやはり誰もいなかった。こちらも研究室に負けず劣らず、というよりこちらのほうが元祖といってよいほど散らかっている。教授はあれだけ理路整然と講釈をたれるのに、なぜ部屋が汚いのかは研究室メンバーの中でも答えの出ない謎となっている。もっとも健吾を含めて研究室のメンバーが取り組む研究テーマ自体も謎だらけなのだが。
ともかく一旦、外の空気を吸おう。気分転換しよう。
そう思い健吾は教授室の窓を開けようとした。だが、開かなかった。正確には、窓の内鍵が動かなかった。
教授室は健吾にとってはそうそう入ることはない。資料や何かを運んだり、教授に呼ばれて話を聞くときくらいだ。だから窓のことはよく知らない。この窓の鍵はたまたま錆び付いていたのだ。健吾はそう納得しようとした。
隣の窓を開けようとする。やはり内鍵が動かない。ここもか。そうここも錆び付いているだけ。
はやる気持ちを抑えて研究室に戻った。山内の椅子をどかして窓の内鍵を見つめる。この窓はしょっちゅう開けている。自分で開けたことだって何度もある。開けっ放しにしていたせいでクマ蜂が入ってきて騒ぎになったこともある。この窓は開く窓だ。
内鍵は動かなかった。
健吾は鍵を引く指に力を込めた。心臓の鼓動が急に早まる。そこまで暑くもないのに、汗がどっと噴き出した。指に力を込める。健吾は決して非力なほうではない。平均かそれより少しは上のはず。いや、窓の内鍵を開けるなんて、誰にだってできるはずだ。これまでにも何度もしてきた。誰もが日常的に行う行為だ。
引いて駄目なら押し込んでみるか。少しでも動けばはずみで開くかも。両手でやってみよう。前に閉めたときに噛み合わせを悪くしたのか。頭の中を思考がめぐる。しかし、窓の内鍵はピクリとも動かなかった。
しばらく格闘したのち、健吾は内鍵から指を離した。極度の圧迫から解放され指先に血液が戻っていく。その様を健吾は見つめた。じんじんと痛む指先が、このいまが夢ではないと告げていた。
いや、これは悪夢だ。窓が開かないというなどということがありえるだろうか。指先をさすりながらまだ試していないほうの窓へ向かう。特に意識もせずに開けているはずのその窓の内鍵は、今日に限ってその本来の役目を忘れて窓枠と一体化したかのように、健吾のもう片方の指の干渉を拒みつづけた。
喉は渇いていなかったが、水を飲みたかった。何かしら身体に正常な刺激を与え、落ち着きたかった。だが、研究室の入り口脇に設置された流しの蛇口からは、いくらハンドルひねっても水は出なかった。断水の知らせを見落としたのだろうか。
だが、それ以上は何もおこらなかった。否、もとから研究室も教授室も、大学の講堂全体が動きを止めていた。動いているのは健吾一人だった。電気ポットの中身が空であることを確認して椅子に座り込んだ健吾が動きを止めると、もうそれ以上、何も起こることはなかった。
椅子に座り込んだままどれだけそうしていたのであろう、健吾には時間の感覚がいまいち掴みかねた。いま何時か、時計を見れば3時丁度。時計も電池が切れたか壊れたらしい。
椅子に座ったまま長机の下にある手近なパソコンの電源を入れた。ディスプレイの電源も入れる。しかし、どちらも電源が入ったことを示すLEDは点かなかった。空冷用のファンの音も聞こえない。そもそも、この研究室がここまで静かなことが異常だったのだ。常時サーバの稼動音がしているはずなのだ。だが、長机の下のパソコンも、ラックに納まったサーバも静かにそこにあるだけだった。停電なのだろうか。電源が切れたときに活躍するはずの無停電装置にもLEDは点いていない。とっくにバッテリーを使い果たして自動終了したのだろう。
健吾はデニムのポケットを探った。携帯電話ならいつも充電している。これなら時計もあるから時間も分かるだろう。しかし、なぜか今日に限って充電を忘れていたようだ。ブラックアウトした液晶パネルは深刻な目をした健吾の顔を映すだけだった。
何かないか、健吾は研究室を見回した。壁一面の資料の山、無音のサーバラック、同じく無音の長机、山内の机は綺麗だ。机の上に何か音の鳴るようなおもちゃでも置いてあればよいのだが、それもなかった。窓近くの部屋の隅に埃を被ったラジカセがあった。そのラジカセも、コンセントをつないで見たが音はならなかった。
そういえばと研究室の位置口に行き、蛍光灯のスイッチを入れてみた。だが、天井の蛍光灯はうんともすんとも言わなかった。停電らしい。
ラジカセを戻すときにふと、あるものに目が留まった。それは壁に立掛けてある木刀だった。一見すると研究室には似つかわしくないこの木の棒は、確か先々代だかその前だかの卒業生が旅行のお土産で研究室に寄贈した品だという。運動系のサークル室ならまだしも、なにゆえ研究室にこのようなものを持ち込むのか理解に苦しんだ覚えがある。そう、あの木刀だ。
試しに手に取って見る。長さは1.2mくらい、表面はニスでつやが出されている。思いのほか重量があり、手にずっしりとくる。銘は円覚寺とあった。鎌倉の円覚寺だろうか、それとも別のところか。
もっとも、この木刀がどこで作られようと、どんな店で売られたものであろうとも、今この状況では関係ない。重要なのは、これが武器であるということだ。
安堵感のようなものが健吾を満たした。たかが棒を一つ手に持っただけだが、何かあってもこれでどうにかできるという気がしてくる。それだけ心細かったのだ。
木刀を握り、健吾はガラス窓を正眼した。この木刀であればガラスを割れるかもしれない。これで助かるかもしれない。そんな気がした。
しかし一方で、ガラスを割るべきではないという冷静な判断もできた。いや、割るべきではないことは明白だ。これまで自分が経験した異常な事態は、どれも理由を聞けばああ、なんだそういう事だったのかと納得できるものばかりでないか。たまたま停電していた。たまたま断水していた。たまたま窓の内鍵の噛み合わせが悪くて締め出しならぬ閉じ込めをくっただけ。そんな偶然が重なっただけで大学四年生にもなって大の男がパニックを起こして窓ガラスを割ったとあっては、とんだ笑い者だ。
割るべきではない。でも気持ちとしては今すぐ割って解放されたい。木刀を上段に構えたまま健吾は悩んだ。これまでの不可解な出来事に一つ一つ適当な理由をくっつけてきたことが今更のように足かせになっていた。
しばし窓ガラスを見つめたのち、健吾は木刀をゆっくりと下ろした。割るべきではないという考えが勝った。
土産もの屋のちゃちな木刀で窓ガラスが割れるだろうかという懸念。それに割れたとして、割ったガラスの破片で怪我をするのも馬鹿らしい。なにより、いつでも割ることはできるのであるから、いますぐやる必要はない。もう少し他の対処法を考えてみて、取るべき他の方法がないのであればその時になって初めやるべきであろう。さらに、どうせ割るならそのまま外に出られる一階の窓のほうがよい。そんな数々の考えに木刀を振りかぶってみて気がついた。木刀を持ったお陰で余裕ができたのだ。
健吾は深呼吸した。落ち着いてくると、自分のこれまでの慌てっぷりが恥ずかしくなった。子供じゃあるまいし、一人ぼっちの研究室がいまさら怖いわけじゃない。それに、いまは昼間だ。怖がるなら夜になってからだ。
そんなことを考え自嘲の笑みを浮かべる健吾の耳が、微かに遠くから聞こえる何かの音を拾った。
コツッ コツッ
音が鳴っている。何かを叩いている。いや、これは足音ではないか。革靴が床を叩く音だ。時折擦れる床とのキュッという音も聞こえるような気がする。これはつまり、いま廊下に健吾以外の人間がいるということだ。
ともかく自分以外の人間を見て安心したい、そんな気持ちを抑えきれず。健吾はすぐさま研究室のドアを開けた。廊下を見渡す。だが、それは研究室に戻ってきたときのままの廊下だった。人の影も、動くものもない。
階段の方ではないか。小走りで南側の階段へ近づく。しかし、そこにも人の気配はなかった。
いっそ声をかけようか。大きな声で呼べば、向こうも気づくのではなかろうか。
「すいませーん」
自分でも驚くほどの大声だった。静寂に耳が慣れすぎてしまっていたようだ。
耳を澄ます。しかし応えはない。さらにもう一度、誰かいませんかと叫んで見たが、何の反応もなかった。空耳だったのだろうかと健吾は落胆した。
ともあれ、このままでは埒が明かない。研究室でできることはもうなさそうだったこともあり、健吾は移動することにした。少し迷ったが、木刀は持っていくことにした。最悪、窓はこれで割るつもりだ。
研究錬の一階へ降りたところで、今日はまだ地下へ降りていないことを思い出した。
健吾の担当教授は研究に没頭しており、その研究のほとんどは地下の実験室で行われている。教授は歳のせいもあり階段の上り下りがキツとよく漏らす。何度も研究室を二階へ移動させてくれと願い出ているそうだが、他の教授連中も実験室の近くのほうが楽なので譲ってくれないらしい。そのお陰で、丁稚奉公のように働く院生志望の自分のような下っ端が、資料の運搬やら伝言やらでこの階段を上り下りさせられているわけである。
先ほど一階は見て回ったが、そういえば地下はまだだった。もしかしたら地下の実験室に教授なり山内助手がいるかもしれない。そんな考えが健吾の脚を地下一階へと導いた。
研究錬の地下は、地下一階が実験施設、地下二階が電源設備のある電源室と倉庫になっている。教授が居るとすれば、地下一階の一番奥に設けられた区画だ。健吾はシールドルームの分厚い壁を前に、IDカードを探した。定期入れに入れておいたカードをチェッカーにかざし、すぐ下にあるテンキーを順番に押す。ピッという電子音とほぼ同時にガチャンと鍵の開く音がした。健吾は重い取っ手をゆっくりと引いて扉をあけた。
部屋はすでに明るく、全ての蛍光灯がついていた。
入り口から見渡すことができる範囲に人はいない。部屋の真ん中には本棚が二つあり、その影に入る部分に人がいる可能性はある。
「教授いらっしゃいますか」
健吾は少し大きめの声で呼びかけた。だが応えはない。健吾は扉を閉めると本棚の方へと進んだ。
「山内さんいらっしゃいますか」
先ほどより幾分声は小さいが、寝てもいない限りは聞こえるだろう。だが、やはり応えはなかった。健吾が本棚を超えたところで人の頭が見えた。
「やっぱりいるんじゃ」
安堵を含むの声は途中で止まった。健吾の見た人の後頭部は、テーブルの上にのせられていた生首だった。実験に使う頑丈だけが取り柄のスチールテーブル。そのテーブルの上に、健吾の来た入り口と反対側を向くようにその首は置かれていた。
みるみる健吾の顔から血の気がひいた。頭が真っ白になり鼓動が速まる。なんとか落ち着こうと、左手で持っていた木刀を慌てて両手で握り直した。つばを飲むこともできない。入り口を振り返ったが、扉は先ほど閉めたままだ。懸命に落ち着けと自分に言い聞かせた。
健吾は生首を凝視した。顔はこちらからは見えない。髪の毛は黒く短い。おそらく男なのだろう。首の切断面が少し見える。血は出ていないように見える。そして健吾は生首の髪型を知っていた。そして予感した。恐らく彼だろう。
健吾は震える足を誤魔化しながら、ゆっくりとテーブルに近づいた。近づくにつれ、少しずつ生首の横顔が見えてくる。耳にかかる黒ぶちの眼鏡、長めの顎、そして長い鼻。
生首の正体は助手の山内だった。
目を閉じたまま無表情のそれは作り物のような気もした。切断されているはずの首の断面からはまったく血が出ていない。しかし、生々しさは本物のようにも見える。いまにも目を開けて喋りだしそうなほどだ。
生首の正面まできたところで、健吾は方膝をついた。痛いほど強く木刀を握り締め続けていた両手のうち、右手をなんとか離して頭を押さえる。ぼーっとして現実感がなかった。おびただしいまでの汗がぬぐってもぬぐっても全身から噴き出し、それが蒸発して急速に健吾の体温を奪った。身震いをした途端、震えがとまらなくなった。空いた右手で左肩を抱き、健吾は生首を見つめ続けた。
時間の感覚はとうになかった。一体どれほどの時間をそうして過ごしていたのか。震えの収まった健吾はゆっくりと立ち上がった。
生首が本物かどうかはわからない。偽者なら、誰かのいたずらだろう。研究室のメンバーのうちいくらかはブラックジョークが好きな輩もいる。しかし、少なくとも山内はこういった悪ふざけには一切手を貸さないだろう。本人の協力なしにここまで精巧な生首の偽者を作ることができるのだろうか。
あるいはこれが本物だとして、それでは首から下はどうなったのだ。あたりを見渡してみたが、特にこれといって変ったものはない。四つ置かれたテーブルの他は部屋の奥に机と椅子が一つ。机に乗っているノートパソコンや器具も見慣れたものばかりだ。ノコギリやら包丁といった刃物の類はない。
生首を手にとって調べる気にはなれなかった。万一本物だったらと思うと、手を出すことができなかった。
健吾はそろそろと生首から離れていった。急に駆け出すと、何か恐ろしいことが起こるのではないか。そんな漠然とした不安が健吾の脚を縛っていた。
入り口まで戻り、生首は本棚の影に隠れた。果たしてまだそのままだろうか。ひょっとするといまこの瞬間にも生首が動いてこちらを振り返っているのではないか。頭に浮かぶ最悪の妄想を打ち消し、健吾はゆっくりと実験室の重い扉を押し開いた。空いた隙間から身体をくぐらせる。すぐに身体は部屋から出た。だが、取っ手にシャツが引っかかった。泣きそうになりながら健吾はシャツを引っ張った。外れない。さらに引っ張る。ブチンとなにかが切れる音がしてシャツの引っ掛かりは外れた。
健吾は重い扉を全体重をかけて押した。扉が閉まりガチャリとオートロックの音がして、ようやく健吾は息をついた。
ついに健吾は窓を割ることに決めた。もう四の五の言っている状況ではない。もし生首が本物であれば、それこそすぐにでも警察へ通報すべき事態なのだ。偽者だった場合は、それを仕掛けた本人に謝ってもらおう。
研究錬一階の実験教室。その西側の窓を前に、健吾は木刀を振りかぶった。ガラスが割れて破片が飛び散るかもしれないという懸念から、カーテンは引いてある。カーテンは暗幕として使うために通常のものより分厚い。窓ガラスなど割った経験のない健吾は、このあとどうなるか分からない。えいと渾身の力を込めて木刀を振り下ろした。
果たして、ガラスは割れなかった。
ガッと鈍い音はしたものの、カーテンに衝撃が吸収されたためか窓ガラスには傷一つついていなかった。仕方なく、今度はカーテンなしで試す。しかし、窓ガラスは割れなかった。今度は傷らしいものが少しできていたが、ひび割れることもなく頑丈にその日差しが差す明るい外界と部屋とを隔てていた。
健吾はガラスの特性を思い出した。こういった厚めのガラスは、とりあえず先に引っかき傷を作っておき、そこに力を集中すれば割りやすいと聞く。健吾は金属製のものを探した。
ポケットの中には家の鍵があった。試しにそれで窓ガラスを引っかいてみる。白い筋が細くつくものの、どうにも心もとない。教室内に何かあるかと見渡す。黒板には黒板消しとチョーク。実験教室無いには洗面台のついた黒塗りの木のテーブルと丸椅子があるばかりだけだった。
ふと、健吾はあるものを思い当たり廊下へ出た。廊下の壁にそれはあった。消火器である。窓ガラスを割るといえば、なんとなくこれを使うイメージがあった。
消火器を手に持って健吾は教室へ戻った。小脇に挟んだ木刀は手近なテーブルの上に置き、今度は消火器の底を先ほど付けた傷の場所へ叩き付けた。
ガツッっという音と共に窓ガラスに大きくヒビが入った。いける。そう確信して健吾はもう一度振りかぶり、今度は少し離れた距離から助走を付けて走り、消火器を投げつけた。ガシャンと派手な音をたてて窓ガラスは割れた。消火器は窓の外へと吸い込まれていった。
割れたガラスの向こう側には、闇が広がっていた。
他の窓ガラスには、変らず日の差す緑のキャンパスが映っている。割れた窓ガラスの残ったガラス部分も同様だ。だが割れたガラスのそれまであった部分、本来であればガラス越しでなくそのままの外の景色が見えなければならないはずのそのひび割れた先は、黒く淀んだ闇がまるでそこが水面であり、いまにもこちら側を侵食しようかという様相で怪しく揺らめいていた。
これは悪夢だ。健吾は恐慌をきたした。こんな異常なことが現実に起こるはずがない。健吾はすぐさま木刀をつかみ、割れた窓ガラスの残った破片を叩いて落とした。もう少し割れば、ちゃんと外の景色が映るかもしれない。理屈の及ばぬ衝動に駆られて木刀を振るった。
教室内に落ちたガラスの破片は積み重なりカチャンカチャンとガラスの音を響かせた。だが闇の向こう側へ落ちた破片はどうか。耳を澄ませても音は聞こえなかった。
窓枠からあらかた破片を取り除いてはみたものの、健吾にはそれ以上どうすることもできなかった。健吾はよろよろと後ろに下がり尻餅をついた。木刀が手から離れてからんと床に転がる。手の甲や腕を見れば、窓ガラスの粉や小さな破片がそこかしこについている。幸い怪我はしていないようだ。目の前に突如として出現した四角い闇はゆっくりとたゆたい、まるで健吾をも飲み込みたいとしきりに誘っているかのようであった。
またしても時間の感覚を失っていた。そもそもこの空間で時間は経過しているのであろうか。汗の乾いた肌が少しつっぱる感じは、しかしこれまでの健吾の行動を否定するものではなかった。
相変わらず目の前には暗い闇が広がっている。黒ではない。日陰の暗さというべきか。多くの色が混じりあい、合わさった末にできた闇だ。あの闇の向こう側を覗き込む気にはなれなかった。しかし、ここにしか出口は無い。恐らく他の窓を割ってもここと同じだろう。そんな確信めいた予感が健吾にはあった。
健吾が闇の水面を見つめていると、ふいに闇が大きく揺れた。揺れは二、三度あり、そして最後の大きな揺れと共に、突然に腕が闇から突き出された。
健吾は息をのんだ。腕は左腕だろうか。何かを探すかのように闇の外側をさまよう。そして腕はどんどん伸び、根元まで、しそしてその腕の主である者の顔と上半身とが闇から現れた。健吾は木刀を掴むことさえ忘れてその光景を見入っていた。
闇から現れたのは男だった。髪はショートで茶色が入っている。ワイシャツ姿に斜めにストライプの入ったネクタイをしている。顔はまだ若い。大学生でなければ、高校生か。恐らくそれくらいだろう。
突然に明るい場所に出てしまったようで、左手を顔にかざし目をしばたいている。どうやら普通の人間のようだ。研究室で目覚めてからというもの、山内助手の生首を除けば、健吾にとっては唯一出会えた貴重な人間である。
「君は」
健吾は恐る恐る声をかけた。喉もしわがれており、なんとか搾り出した一言だった。その声は、いまだ明るさに目のなれない闇からの使者にも届いたようだった。男はゆっくりとかざしていた左手を下ろす。目を細めながら、その男は言った。
「その声は、社長っすか?」
これがサキチとの出会いだった。
本作品はコンテストで受賞したため、株式会社シーエスレポーターズ様へ著作権が移動しました。
一章につきましては『小説家になろう』サイト内で引き続き掲載する許諾を得ております。
二章以降につきましては平成25年秋頃発売予定のアプリをお待ちください。
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