第五話 百年計
石田三成に案内され、政重は再び大坂城の座敷へ通された。
天正十四年九月。九州へ送る兵糧の支度が、畿内でも四国でも進んでいる。
「昨日の書付は、殿下にお目通しいただきました」
三成の手には、運送請負の試案があった。船を何艘出したかではなく、いつ、どこへ、何石届けたかで働きを量る。実際の運び賃と従来の船役を比べ、まず一部の兵糧で試すというものだ。
「吉田殿ご自身にも、お尋ねになりたいそうです」
何を、と聞く前に襖が開いた。
「おう、政重。よう来た!」
秀吉は書付を手に、機嫌よく招いた。
「白地では小一郎を困らせ、今度は治部に難しい帳を持ち込んだか。わしの家臣を休ませぬ男じゃ」
秀吉は声を弾ませ、続けた。
「銭を払うて船を動かすという。わしに余計な費えを出させようとは、よい度胸じゃ」
「船が集まっても米が届かねば、さらに高くつきまする」
「うむ。しかも塩飽の船が二重に数えられておったそうじゃな」
「見つけたのは弟の正義にございます」
「知っておる。弟の働きをきちんと申すのも、兄の器量よ」
政重は思わず顔を上げた。戦功を褒められるより、思いがけぬ言葉だった。
「治部、試してみよ。損が出たなら損と書かせる。上手くいったことばかり聞かされては、次を決められぬからのう」
「承知いたしました――ただし、殿下」
政重は頭を下げたまま続けた。
「豊後で受け取った米の数と次の送り先は、大坂と四国の双方へ知らせていただきとうございます。大坂のお返事を待っておっては、次の積み出しが遅れます」
「軍の内証は漏らすな。されど、米の行き先を伏せて飢えさせても仕方あるまい。治部、そう記せ」
秀吉の一言で、三成が書付を改める。政重が昨日から心を砕いていたことが、たちまち決まった。
「さて、政重」
秀吉は書付を置いた。
「おぬし、わしに仕えぬか」
あまりに何気ない口ぶりだった。
「……某は長宗我部の家臣にございます」
「知っておる。元親も信親も、よい家臣を持った。じゃが、おぬしのする仕事は四国では収まらぬじゃろう」
秀吉は身を乗り出した。
「おぬしが四国で十人育てるというなら、わしは天下から百人集めてやろう。百人が育てば千人じゃ。治部にも手を貸させる。どうじゃ、面白かろう?」
政重の脳裏に、前世の学び舎が浮かんだ。
昌平坂学問所。長崎海軍伝習所。蕃書調所。
幕府が人を集め、学問や異国の技術を伝えようとした場所。東洋自身も土佐に文武館を開いた。しかし、その門が開いてわずか三日後、凶刃に倒れた。
教えた者が何を成すか、見届ける暇さえなかった。
目の前の男は、百人、千人とこともなげに言う。しかも、それを実行できる米と銭と権勢がある。
「……面白うございます」
「そうじゃろう。今、目の色が変わったぞ」
秀吉は嬉しそうだった。才ある者に仕事を与えること自体を楽しんでいるらしい。
「されど、百人を一所に集めるだけでは足りませぬ」
「ほう?」
「教えた者を諸国へ戻し、その地で次の者を育てさせます。土地の実情は土地の者にしか分からぬことがございますゆえ。学んだ者が分からぬことを分からぬと書き、次の者が確かめられるようにせねばなりませぬ」
「役人を天下へ散らすか。それでは、わしの手元から人が減るぞ」
「一所に百人抱えるより、十人ずつが各国で働けば、殿下へ届くことも増えましょう。ただし、役目だけでなく、誤りを改める権限も与えねばなりませぬ」
「わしが役を与え、間違いを直させよう」
「殿下がおられる間は、それでよろしゅうございましょう」
秀吉の笑みが止まった。三成も筆を置く。
政重は目を伏せなかった。どれほど才ある一人が頂に立っても、その者の目が届かぬ日は必ず来る。前世で見た幕府の仕組みも、土佐で己が始めた改革も、それを教えていた。
「政重、そなたはどこまで先を見ておる」
不意の問いに、息が詰まった。
二百八十年ほど先の世。政重はそれを知っている。だが、白地の戦から先は、すでに史書と違う道を歩んでいた。
「……某の死んだ後までにございます」
「死んだ後、とな」
「某が死ねば立ち行かぬ仕置なら、立派な帳を残しても無駄にございます。次の者が自ら誤りを見つけ、直せるようにしておきとうございます」
秀吉は政重をじっと見た。先ほどまでの気さくな笑みはなかった。
やがて、膝を一つ打った。
「欲張りな男じゃ。生きておる間では飽き足らず、死んだ後の仕事まで考えるか」
その目には、愉快そうな光が戻っていた。
「ならば、なおさらわしの下へ来い。畿内から始めよう。治部に人を集めさせ、おぬしに使い方を考えさせる。上手くいけば諸国へ広める。明日からでも取りかかれるぞ」
政重は、その先を思い描いてしまった。
文武館で果たせなかったことが、天下の広さで実現する。己の手を離れても学び続ける者を、幾百と残せるかもしれない。
「まず二万石を与えよう。働き次第で加増もする。仕置に要る銭も、人を雇う費えも別に出してやる。どうじゃ」
土佐一国の軍役高が十万石にも満たぬというのに、二万石。その上、仕置の費えまで別。破格の提示に政重は思わず顔を上げた。
「無論、元親にはわしから話を通す。家の面目を潰すような真似はせぬ」
隙のない申し出だった。長宗我部への忠義を否定するどころか、それすら尊重した上で、己に仕えたいと思わせる。なんという人誑しか。
だが、政重は頭を下げた。
「ありがたきお言葉。されど、某は四国に残りとうございます」
「なぜじゃ。やりたい仕事であろう」
「はい。ゆえに、なおさらでございます。殿下の御下で使える仕組みならば、長宗我部の地でも使えねばなりませぬ。異なる主に仕える者同士が働けるか、まず四国で確かめとうございます」
「元親への義理だけではない、と」
「義理もございます。それに、某が殿下の御意に添わぬことを申し上げるには、四国に身を置く方がよい場合もございましょう」
三成がわずかに身じろぎした。
秀吉はしばらく政重を見つめ、かっかと笑った。
「召し抱える話をしておるのに、早くもわしに逆らう算段か」
「誤りと思えば、申し上げるまでにございます」
秀吉はしばらく政重を見つめ、やがて愉快そうに笑った。
「ますます惜しい男じゃ。まあよい。今は元親の下で働くがよい」
そう言って、伺書を指で叩いた。
「じゃが、そなたの才まで四国に留めておく気はないぞ。船の仕組みが上手くいけば、他国にも教えてもらう」
「承知いたしました」
「かっか、断ったつもりで、もう引き受けておる!」
今度は政重も笑わずにはいられなかった。
だが、もう一つ聞かねばならぬことがある。
「殿下。豊後の先手を預かる仙石秀久殿について、お尋ねいたします」
「権兵衛がどうした」
秀吉は姿勢を正した。
「長宗我部、十河の兵も加わります。諸将の下知が食い違えば、いずれに従うべきでございましょう」
その口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「白地で権兵衛に傷を負わせたおぬしが、それを案ずるか。遺恨も承知の上で預けたのじゃ。昨日の敵を従わせてこその天下よ」
秀吉は笑みを収めた。
「一軍として動く折は権兵衛が統べる。ただし、信親の意見も聞くよう言い含めてある。双方、意地で軍を乱すことは許さぬ」
「退く折も、同じにございましょうか」
「無論じゃ。急場の進退まで大坂から決められぬ。そこは預けた者らの器量よ」
政重は深く頭を下げた。
秀吉は遺恨を承知で諸将を配している。その判断には道理があった。
だが、下知を下す権限と、その判断の正しさは別である。進むべきか退くべきかで意見が割れた時、危うさは残る。
政重の胸には、なお不安が残った。
◆
岡豊に帰った政重から大坂での顛末を聞き、信親は声を上げて笑った。
「天下人に誘われて断った上、仕事だけ貰うてきたか」
「仕事も増えましたが」
「それはそなたらしい」
豊後へ送る仕置役は、熟練者と若者を一人ずつ。政重はその名を示した後、さらに申し出た。
「武市喜助殿を、連絡役として遣わしていただきとうございます」
「武市を?」
「帳を扱う者はおります。されど、家の違う将や商人を結ぶには、あの男が適任かと」
信親が許し、元親と池頼和にも話が通った。喜助自身も、豊後行きを望んだ。
出立の前夜、政重と喜助は二人で話した。
「戸次川を覚えておるな」
「無論にございます。信親様も十河殿も、あの戦で討死なさるはずにございます」
信親を失った元親は、家督の継承をめぐって家中に禍根を残した。そして関ヶ原の戦いの後、長宗我部家は土佐一国さえ失うことになる。
「もはや、史書の通りになるとは限らぬ」
「ならば、まず人を知ってまいります。仙石殿が何を重んじ、大友方が何を恐れるか。話もせずに敵味方を決めるのは、もう御免にございます」
政重は喜助を見た。
前世、東洋の命を奪う企てを進めた男が、今は信親を守るために海を渡ろうとしている。
「頼む」
「お任せを」
翌朝、浦戸の船上で喜助は、早くも水主にその郷里を尋ねていた。知る者の名が出ると、二人は顔をほころばせた。
政重は岸からその様子を見ていた。
秀吉は天下から百人を集めると言った。
自分の前には、まだそんな力はない。岡豊の稽古所では、今日も少ない人数が字を習い、帳に向かっているだろう。
だが、一人が学び、一人が教え、一人が見知らぬ土地で縁を結ぶ。
冬に蒔いた種は、秋になって海を越えてゆく。
船は潮に乗った。
政重は、その帆が見えなくなるまで立っていた。
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【史実解説】
■百年の計と人材育成
「百年の計は人を育てることにあり」という考え方は、中国の古典『管子』の「権修」に由来します。
原文では、一年先を考えるなら穀物を植え、十年先なら木を植え、終身の計を立てるなら人を育てることに勝るものはない、と説いています。
作中で政重が語った「某の死んだ後まで」という言葉も、こうした長期的な人材育成の思想を踏まえたものです。
■吉田東洋と幕末の学び舎
幕末には、幕府も組織的な人材育成を進めていました。
昌平坂学問所は寛政九年(1797)に幕府直轄となり、儒学を中心とする教育を担いました。
安政二年(1855)に開設された長崎海軍伝習所では、幕臣や諸藩の伝習生がオランダ人から航海術などを学びました。
また、安政三年(1856)に設けられた蕃書調所では、西洋の学問の研究や翻訳が進められています。
吉田東洋自身も教育を重視し、土佐藩の文武館設立を主導しました。しかし、文久二年(1862)四月五日に文武館が開校したわずか三日後、東洋は暗殺されました。




