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SS:大好きという気持ち【後編】

 待たされたのは、実際にはそれほど長い時間ではなかったはずだ。

 だが、初めて赤子の声が聞こえてから、もう何十年も経っている気がする。

 相変わらず泣き声が続いているだけで、それからの動きがなかなか訪れなかった。


 が、固唾を呑んで寝室の扉を見守るマクシミリアンとエリーゼの前で、ついにそれが開け放たれる。


「お生まれになりましたよ」

 勢いよく現れたモニクの頬は上気し、声は興奮で上ずっていた。

 マクシミリアンは部屋に駆け込みかけて、寸でのところで立ち止まる。


「旦那様?」

「えっと、入ってもいいのかい?」

 部屋に立ち入って叱り飛ばされたのは、まだ記憶に新しい。


 お預けを喰らった子どもさながらのマクシミリアンにモニクは一瞬目を丸くし、そして苦笑した。

「良いですよ。先ほどは失礼しました」

「いや、私が悪かったんだ」

 そう返す言葉も気もそぞろに、許しを得たマクシミリアンはモニクの横を擦り抜けて部屋の中へ急ぐ。


 大きな天蓋付の寝台の上には、ぐったりと身を沈めているせいかいつにもまして華奢に見えるクリスティーナの姿が。

 部屋の中では他にも数人が忙しそうに動いていたが、彼らには目もくれず、マクシミリアンは真っ直ぐにクリスティーナの下へ向かう。

 寝台の横に駆け寄るなり、マクシミリアンはその上に両手を突いて彼女を覗き込んだ。


 小さな顔の中で頬だけは紅いが、何となく血の気がないように見えた。マクシミリアンが来たことにも気づいていないのか、目は力なく閉じられている。額はきれいに拭われているけれど、濡れた前髪がずいぶんと汗をかいていたのだろうことを教えてくれた。


(休ませておいた方がいいのか?)

 まさに疲労困憊というクリスティーナの姿に、そんな迷いがマクシミリアンの中には生まれたが、結局我慢ができなかった。


「ティナ?」

 ためらいがちに呼びかけると、けぶるような金色の睫毛が震える。

 疲労の為かその眼差しは茫洋としていたけれど、彼の姿を認めるとすぐさまクリスティーナの頬には微笑みが浮かんだ。


「……マクシミリアンさま」

 彼に向けて伸ばそうと浮かべられた繊手を両手で握り締めて、マクシミリアンはそこに強く唇を押し当てる。


「ティナ、頑張ったね。私は――私は……」

 それ以上、言葉が出ない。

 握ったクリスティーナの手に伏せたマクシミリアンの頭が、そっと撫でられる――彼に囚われていないもう一方の彼女の手で。


 顔を上げると、面白そうに綻んでいるクリスティーナの眼差しが注がれていた。

「そんなに心配なさらなくても、大丈夫でしたのに」

「そう言われても、無理だよ。正直、あなたを身ごもらせたことを後悔した」

「本当に?」

 眉を上げたクリスティーナは視線を彷徨わせ、マクシミリアンの後ろにいるらしき人物に目配せをする。つられて彼がそちらを振り返ると、小さな布の包みを抱えた産婆が立っていた。


 マクシミリアンは、産婆の腕の中の包みを凝視する。それが何なのかは、訊ねなくとも判った。その小ささからは想像もできないような声量で、部屋中に泣き声が響き渡っていたから。


 産婆が腰を屈めて、マクシミリアンに向けて腕の中の赤子を差し出してくる。


 反応できずにいる彼に、柔らかな声がかけられた。

「お抱きになりませんか?」

「え」

 赤子からクリスティーナに目を戻して固まるマクシミリアンに、彼女は微笑む。


「抱いてあげてください」

「だけど……」

 また、彼は赤子を見る。


 髪は黒い。マクシミリアンと同じ色だ。

 目はギュッと閉じられていて見えない。

 何がそんなに不満なのだろうと思ってしまうほどに、大声で泣きわめいている。


 この世に生まれたばかりの、真っさらな存在。


(まだ汚れを知らない無垢なものに、私が触れてもいいものなのだろうか)


 気付けば小刻みに震えていた両手に、クリスティーナの手が重ねられた。


「大丈夫ですから」

 そう言って、彼女はマクシミリアンの手から自分の手を引き抜いてしまう。


 両手が自由になったマクシミリアンに、産婆がズイと包みを突き出す。床に膝を突いた姿勢のまま、彼は反射的にそれを受け取った。


 マクシミリアンは、輪にした腕の中に乗せるように、包み込むように、抱く。

 怖くなるほど軽いのに、不思議なほどに確かな重みが感じられた。


(温かい)

 ほんの少し、揺すってみる。

 と、途端にピタリと泣き声がやむ。喉が張り裂けんばかりに喚いていたのに、プツンと。


「まあ」

 笑いを含んだクリスティーナの声に、マクシミリアンは彼女と腕の中の赤子の間で戸惑い混じりの視線を行き来させる。


 クリスティーナはクスクスと笑いながら、愛おしそうに赤子の黒髪を指先で撫でた。

「その子は、もう、マクシミリアンさまのことが判るのですね」

「え?」

「マクシミリアンさまのことが好きなのです。きっと、お腹の中にいる間にわたくしの『マクシミリアンさまが大好き』という気持ちも受け取っていたのね」


 そんなバカな。

 マクシミリアンはそう思ったが、実際、赤子は少ししかめ面ではあるけれど、おとなしく彼に抱かれている。


 彼は、真っ赤でしわくちゃなその顔を、まじまじと見つめた。

(私に、似ている……? いや、ティナにも似ている気が……)


 そこにどちらの面影も見出して、マクシミリアンは不思議な思いに駆られる。

 その不思議な思いは、やがてじんわりと込み上げてきた感動と、そして胸の奥から溢れてくる愛おしさに取って代わって、彼の全身を満たしていく。


 マクシミリアンの中で、自然と誓いが込み上げた。

 この子を幸せにする、と。

 そして、この子だけではなく。


「寄宿舎を併設した学校を作ろうと思うんだ」

「マクシミリアンさま?」

 突然降ってわいた話題に、クリスティーナがいぶかしむのも当然だ。

 だが、切り出しは唐突でも、構想自体は長くマクシミリアンの中にあったものだった。

 ここに至って、ようやくはっきりとした形が見えただけで。


 マクシミリアンは微かに笑んで、続ける。

「教育を受けられれば、どの子も平等に未来を望めるようになるだろう? 生まれで道が閉ざされるようなことがなくなるんだ。……一つ、告白するよ」

「告白、ですか?」

「ああ。シリルのことを覚えているかい?」

「サン・ブニュで会った……」

「そう、サン・ブニュで出会って、ここで再会したけれど、またいなくなっただろう? 貴女は彼のことを気にしていた」

「ええ。お仕事で、航海に出ているのでしょう?」


 クリスティーナはマクシミリアンの意図が掴めないのか、いぶかしそうな眼差しで頷いた。彼は少しためらい、続ける。


「貴女に会わせたくなかったから、船に乗せたんだ」

「え?」

 目を丸くしたクリスティーナから逃れるようにマクシミリアンは目を伏せ、その先にいた腕の中の子どもを見つめる。


「シリルと話をさせたくなかった。彼の話から、私のことも色々と解ってしまうことが怖くて。……私は、彼と同じ生活を送っていたから」


 マクシミリアンは、ずっと、自分を恥じていた。

 生きるために浅ましく足掻き、穢れた身体でのうのうと生きてきた自分を。

 だが、今は過去の自分も誇りに思う。

 なぜなら、その過去に基づき形成されたマクシミリアン・ストレイフを、クリスティーナは愛してくれたから。


 マクシミリアンは赤子を抱いたまま身を屈め、クリスティーナに口付ける。

 彼女は、こうやって彼が触れることも、許してくれるのだ。


「私は、自分で自分を蔑んでいた。だけどね、今は違う。今は、貴女に愛される私は、何一つ卑下するものはないのだと、そう、思えるよ。ヒトは、過去はどうあれ、その結果作り上げたものこそが大切なのだ、と」

 静かな、けれども深い思いを込めた声で、マクシミリアンはそう告げた。


 クリスティーナは束の間彼を見つめ、そして微笑む。誘うように手を差し伸べた彼女に応えて、マクシミリアンは顔を寄せた。


 触れ合う、唇。

 唇が離れた後も、額を合わせ、彼女が囁く。


「わたくしは貴方を誇りに思います、マクシミリアン・ストレイフさま。貴方ほど素晴らしい方を、わたくしは存じ上げません。この子も、これから授かる貴方の子どもたちも、きっと貴方を誇りに思うでしょう」


 小さいけれども確かな響きで告げられたその言葉は、マクシミリアンの胸の奥深くに沁み込んでいく。


「……ありがとう」


 彼女が与えてくれるものが頭の中にも胸の中にも溢れ返り、彼はそう囁き返すことしかできなかった。


これでおしまい、です。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


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