第3話『つのる想い』
照矢が知永子の家庭教師を始めてから一週間。
最初の頃はどうしてもぎこちなさの抜けないふたりであったが、次第打ち解けるようになり、密かに知永子は照矢が来る日を心待ちにするようになっていた。
「ねぇ、ここなんだけど」
「どこ?あぁ、ここはね…」
「あぁ、そっかぁ。なるほどね」
さすがK大の法学部に通っているだけあって照矢は頭が良く、家庭教師の経験からか教え方も慣れていて解りやすかった。知永子のどんな疑問にも、的確な解答を与えてくれる。
「お茶入れたから、休憩にしたら?」
三人分の紅茶とケーキが乗ったトレイを持った知香子が、ノックもなく部屋に入ってきた。
「休憩って…まだ、始めたばかりよ」
「いいじゃない別に、ねぇ照矢」
そう言って照矢の隣りへと座り込む。知永子には、一瞬、照矢が眉をひそめたように見えた。
「どうなの?勉強ははかどってるの?」
「えぇ、まぁ…」
「いいなぁ、お姉ちゃんは…」
「何で?」
「だって、照矢と密室でふたりっきり…。あたしも照矢の生徒になりたいな」
知香子は照矢にしなだれかかりながら、甘えた声を出す。知永子の家庭教師に彼を推薦したのは自分なのに、知香子はよくそんなことを言い、ふたりの勉強を邪魔しに来る。
「知香子…悪いけど、勉強の途中なんだ。邪魔しないでくれよ」
「邪魔ですって!?ひどい言い方。あたしはただ、お姉ちゃんの勉強の進み具合を心配してるだけだってゆうのに」
「そんな心配なら、後でしてくれよ」
「まあ、何その言い方。本当に憎たらしい。そんなことを言うなら、どうぞご勝手にすればいいわ」
知香子は荒々しく立ち上がり、部屋から出ていった。残された知永子と照矢は顔を見合せ、苦笑する。
「ごめんなさい。知香子って、悪い子じゃないんだけど…」
「別に気にしてないよ。それより、さぁ続き続き」
〈日に日につのる、照矢に対する想い。知永子は、いつしかこの昂りを押さえられなくなりそうな自分自身に戸惑っていた。〉
照矢のアパート。
放課後、制服姿のまま彼の部屋を訪れていた知香子は、照矢へともたれかかった。照矢はさりげなく身を引き、テーブルの上に投げ出してあった煙草に手を伸ばしては火をつける。
「…悪いけど、今日はもう帰ってくれないかな」
「えっ!?どうゆうこと?」
照矢は髪を掻き上げながら、大げさな溜め息をついた。
「何?何で溜め息なんてつくのよ。不満があるなら、素直に言えばいいじゃない。いきなり帰ってくれなんてひどいわ」
「だから…悪いって言ってるじゃないか。とにかく、少しの間ひとりで考えたいことがあるんだ」
「一体全体どうゆう理屈なのよ。せっかく久しぶりにふたりっきりになれたのに。あたしを何だと思ってるのよ!!」
知香子は、ヒステリックに叫ぶ。
「済まない…」
「もしかして…お姉ちゃん?」
その言葉に、照矢の表情が強ばった。
「やっぱりお姉ちゃんなのね。通りで最近、照矢の様子がおかしいって思ってたのよ」
知香子は照矢の肩を思いっきり揺さぶり、さらに声を荒げる。しかし、照矢は
「済まない…」
と繰り返すばかりだった。知香子は唇を噛み締め
「そんなこと…絶対に許さないから……」
と唸る。その瞳には、全てを焼き尽くすような激しい嫉妬の炎が渦巻いていた。
「先生、どうかしました?」
知永子は照矢の顔を覗き込み、問いかけた。
「…えっ!?何が?」
「何か、今日の先生っていつもと様子が違う気がして…。ずっと、思い詰めてる感じ。ひょっとして、何か悩み事でもあるんじゃないですか?」
「い、いや…」
照矢は言葉を濁したが、知永子はさらに続ける。
「もし、もしですけど…わたしで良かったら、相談に乗らせてもらってもいいですか?」
「……」
「ほら、悩み事ってひとりで抱えてるといつまで経っても解決しないじゃないですか。他人に話したら、それだけでもちょっとは気持ちが軽くなるってよく言うし。だから…」
照矢の気持ちを軽くするために、笑って見せた。
「知永子さん…君は、何て優しい女性なんだ」
「優しいだなんて…。わたしはただ、日頃からお世話になってる先生にちょっとでも恩返しが出来たらと思っただけで…」
「…ありがとう」
照矢は、知永子の手を両手で包み込む。それから、抱き締めてきた。
「ありがとう。今は君の、その優しさだけで充分だ」
胸に響く照矢からの言葉。知永子は動けない。いや、あまりの喜びに失神さえしてしまいそうだった。
〈知永子は、降って沸いたような喜びに打ち震え、陶酔していた。
知永子がその先に続く長い茨の道を歩む決意をした瞬間がいつだったかを挙げるとするならば、まさに今この瞬間だったのかも知れない。〉
その頃、新宿の雑居ビルへと出向いていた澄江は蒼白の表情で、目の前に置かれたある報告書を見つめていた。
「ど…どういうこと?」
思いがけず、声音が震える。
「ですから…ご覧の通り我々の調査の結果、あなたのご主人である倉内浩二郎氏は、間違いなく不倫をしております。誠に申し上げ憎いのですが、恐らく倉内氏はかなり以前からその女性と交際しており、赤羽でその女性が女将をしている小料理屋『長谷倉』も、倉内氏からの多額の援助に寄るものと思われます」
仕立てのいいスーツを着こなした興信所の調査員は、いたって冷静な口調で告げた。その冷静さが澄江の神経を逆撫でし、さらに怒りを増幅させる。
「まさか、まさか…」
澄江は、報告書に添えられた証拠写真へと手を伸ばす。浩二郎とその愛人が、仲睦まじく寄り添い合ってるところを隠し撮りしたものだ。
その女には、覚えがある。いや、生涯忘れることなど出来ないだろう。
女の影には薄々勘づいていたが、まさか未だにあの女と続いていただなんて…。
長谷部織江。十七年前のクリスマスイブに倉内家に子供を託して消えた女。知永子の、実の母親。そして……。
「…まさか、まだあの女と続いていただなんてね。何て裏切り、何て低俗で恥知らずな行い。許さない…。絶対に、許さない……。あたしをコケにしたらどうなるか、たっぷり…たっぷりた~っぷりと思い知らせてやるわ」
「あっ…」
澄江は、テーブルの上のペン立ての中にあったカッターナイフを掴み、写真へと突き立てる。浩二郎とその愛人をずたずたに切り裂いて細切れにしてから、それを残さず口に突っ込んだ。恐れおののく調査員を尻目に、むしゃむしゃと咀嚼する。
つづく