第2話「父と息子の攻防」- サイドカー-
カクテルをテーマにした作品を描きたくて、筆を取り始めてみました。
すでに描き始めている歴史物と、違った雰囲気を感じていただけると嬉しいです。
▼歴史物はこちらで▼
天下の鍵は海にあり!~対馬から始める交易国家運営録~
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普段よりも少し早めに店に入り
仕込みを進めていた最中に扉が開いた。
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ノックはなかった。
アムールは手を止めずに言う。
「オットーか」
「儂だ」
低い声だった。
振り返る。
扉の前に立っていたのは、白髪の混じった髪を後ろで束ね、辺境伯家の紋章入りの上着を着た大柄な男だった。
年は五十を過ぎたあたり。目元が自分によく似ている。
ベルンハルト=ルードリヒ。
辺境伯。アムールの父だ。
「……父上」
「一度くらい、儂と話直接せないのか...」
低く、静かな声だった。
怒鳴るでも責めるでもない。
それがかえって厄介だとアムールは思う。
怒鳴ってくれる方が、こちらも距離を保ちやすい。
静かに、真っ直ぐに来られると、どこか逃げ場がなくなる気がする。
「手紙で済む話では」
「手紙では済まない話だから来たのだ」
父は許可を待たず中に入り、カウンターの前の椅子を引いて腰を下ろした。
当然の顔で目の上の席に座る。視線がゆっくりと店内を見回した。
棚の瓶を、カウンターの木目を、天井まで届く酒棚を。
かといって何かを言うわけではないのが居心地の悪さを助長する。
「視察団の件は、開店前の時間であれば同席すると昨日お伝えしたはずですが」
「それだけではない」
父が真っ直ぐにこちらを見る。
「アムール。お前もそろそろ、家のことを考えてくれないか」
来た。
「後継ぎの話でしょうか」
「グレゴールに全てを押しつけるのは限界がある。あれも、もう二十四だ。当主補佐として動きながら、お前の分まで支えている」
「グレゴールは優秀です。俺より向いている」
「向き不向きの問題ではない」
父の声が、わずかに重くなる。
「ルードリヒの名を持つ者が、家を出て商売をしているを
この街の者たちがどう見ているか。お前はわかっているのか」
間違っていない。父の言いたいことはわかる。
ただ、それを認めると別の何かを失う。
失うとわかっているから、認められない。
この話は十年前から同じ場所を回っている。
父も知っているはずだ。それでも諦めきれない。それが、父というものなのかもしれない。
「……父上」
アムールは棚に向かった。
「座っていてください」
「話の途中だ」
「飲みながらでも話は出来ますよ」
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父を横目に、棚の前に立つ。
何を出すか。
父はワインを好んで口にする。
しかし今日ワインを出すのは違う。
好みに合わせたものを提供するのは簡単だが、父の土俵で話をすることになる。と言う気がする。
かといって主張の強い酒では、好みが分かれ、この場をただ険悪にするだけだ。
今日の父は珍しく、自分で足を運んできた。
使いを寄越さず、手紙も書かず、直接顔を見せたのだ。
それはつまり、この話を本気で俺に伝えたかったと言うことだ。
本気で赴いた人間に、軽い一杯を出すのも失礼な気がした。
重みがありながら、角がないものがいい。
甘さが逃げ場になりすぎず、かといって力ずくでもない。
飲む者を選ばないが、飲んだ者の何かを少しだけ動かす——そういう一杯。
アムールは一本の瓶を選んだ。
ブランデー。
この地方の葡萄から作った蒸留酒で深みがあるが、重すぎるものではない。
続いてコアントロー——柑橘の皮を使った甘みのある酒——とレモンを一つ。
シェイカーに材料を量り入れ、氷を加える。
金属が冷えていく感覚が手のひらに心地よく伝わってくる。
グラスに注ぐと淡い琥珀色の液体が、細い弧を描いて落ちた。
父の前に置く。
父は一瞬、グラスに視線を投げてアムールを見据える。
「……これは何だ」
「まずは、飲んでみてください」
父が渋い顔をしたが、グラスを手に取る。
まず香りを確かめた。鼻先に近づけ、不思議そうな顔をしている。
それからグラスに口をつけた。
口の中で転がすように、ゆっくりと飲み込む。
言葉は発しないが表情は、ほんの少しだけ変わった。
眉間の力が抜けた、とでも言うのか。
怒っているわけでも、柔らかくなったわけでもない。
ただ——何かが少しだけ、下りた。
言葉では動かなかった父が、一口の酒で動いた。
それを見てアムールは、この仕事をしていてよかったと、ふとそう思った。
「……うまいな」
「そうでしょう」
父がグラスを置く。カウンターの木目の合わせて指を動かす。
それから、また顔を上げる。
「話を続けるぞ」
「どうぞ」
「お前はいつまでこうして生きるつもりだ」
「これからも、です」
「グレゴールに全てを背負わせて、それでいいのか」
「グレゴール本人が望んでいることです」
「あれが望まざるを得ない状況を、お前が作っているのではないのか」
「お前が戻れば、グレゴールの負担は減るし、母さんも喜ぶだろう。なぜそれができない」
「それだけの話ではないから、できないんです」
「ではどれだけの話だ」
答えなかった。
答えられなかった、と言う方が正確かもしれない。
言葉にできるなら、もう少し楽だった。
自分がここに留まる理由は、誰かに説明するために持っているものではない。
父に理解させるために言語化できるものでもない。
それを十年かけて言えないでいる。だからいつも、この話は同じ場所で行き詰まるのだ。
長い沈黙があった。
父が立ち上がる。上着の前を正す。
「視察団の件、頼む。まずはそれからだ」
「……わかりました」
「グレゴールには儂が来たとは言うなよ。あれが余計な気を遣う」
そう言って、父は扉の方へ歩いた。
扉に手をかけたところで、立ち止まった。振り返らずに言う。
「……サイドカーが儂に向けたメッセージというわけか」
アムールは少し驚いた。
父がカクテルの知識を持っているとは考えていなかったのだ。
「はい」
「どういう意味で出したものかな」
「サイドカーはバイクの横に取りつけた補助席のことです。
本来の走行路とは少しずれた場所を、一緒に走る乗り物」
道連れ、ということだ。
自分の意志とは関係なく、横に乗せられてしまう。
そういう皮肉を込めて選んだ一杯だった——だが、そこまでを言葉にするつもりはなかった。
「……そうか」
それだけ言って、父は店を出ていった。
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扉が閉まった後、アムールはカウンターの内側に立ったまま、しばらく動かなかった。
父のグラスが残っている。
半分ほど、飲み干されていた。
最初の一口で表情が変わったあの瞬間、言葉では何も変わらなかったが、一杯の酒が何かを少しだけ動かした。
それが何なのかは、わからない。怒りが薄れたのか。
それとも、息子が作る酒の味に、別の何かを見たのか。
わからないまま、父はこの場を後にした。
(道連れにされた。完全に)
視察団への同席は元々断れない。それはわかっていた。
ただ父が来る前と来た後では、何かが違う気がした。うまく言葉にならないが——少し、気分が重い。
残ったグラスを手に取り、父が口をつけた場所を避けて、一口飲む。
甘さと酸味が拮抗している。
どちらかが勝つわけでも、どちらかが負けるわけでもなく、見事に調和しているように思う。
互いに主張しながら、それでも一つの液体として成立している。
道連れ、か。
本来の走行路とはずれた場所を走る。
父のことを指して選んだ言葉だったはずなのに、飲んでみると、自分にも当てはまる気がした。
父は辺境伯として、この領地を治めるために生きている。
それが本来の行き先だ。アムールはその隣を走るはずだった。
長男として、後継ぎとして。
しかし今はここにいるのだ。
本来の行き先から外れた場所で、グラスを磨いている。
では父はどうか。
息子に家を出られた父は、今どこを走っているのか。本
来の行き先のままでいられているのか。それとも——十三年前から、少しずれた場所を走っているのか。
サイドカーは、乗せる側も乗せられる側も、本来の軌道から外れる。
アムールは少しの間、空になりかけたグラスを見た。
自分が父を道連れにしているのか、父が自分を道連れにしているのか。
どちらとも言えるし、どちらとも言えない。
ただ確かなのは、この十三年、互いに少しずつずれた場所を走り続けているということだ。
「……向き不向きの問題ではない、か」
もう一口。
グラスを置いた。
今夜の仕込みを続けなければならない。
素材の確認、氷の調整、今夜の一杯の構想。やることは山ほどある。
父のことを考えている時間は、今日の分は使い切った。
アムールは棚に向かい、今夜のための瓶を選び始めた。
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