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算数のたかし君 ~おいかけ算~

 “お兄ちゃんなんだから”——それが、うちの親の口癖だった。


 真嗣には3歳年下の弟がいる。弟、雄心は生まれてきた時こそ可愛かったけれど、徐々に疎ましく思えた。真嗣の使っていたおもちゃを欲しいと言って泣く、自分の分のお菓子を食べたくせに真嗣のお菓子を横取りする。家族と買い物に行ったときには、あれが欲しいこれが欲しいと大声で泣き、虫のようにひっくり返って喚き散らすことは日常茶飯事だった。遊んでいたおもちゃを取られ、お菓子は半分の量になり、買い物に行けば真嗣の欲しいものまでたどり着かない。真嗣はそのたびに雄心に抵抗し、自分の正当な所有権を主張し、わがままな雄心の行動に不満を訴えた。その時、親は決まってこう言うのだ。「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」と。

 真嗣が小学校に上がり、真嗣には新しい同学年の友人ができた。友人らと外で遊んでいると、雄心はたどたどしい走り方でついて来ようとしたが、幼稚園児の足ではついて行くことが出来ずおいて行かれた。毎度泣きながら「お兄ちゃんにおいて行かれた」と泣きつき、毎度親に「雄心を連れて行きないさい」と言われたが、真嗣にも友人付き合いがある、弟は連れて行けないと何度も何度も言って、雄心が諦めたところで決着がついた。こうして、雄心が小学校に上がるころには、真嗣と雄心はあまり一緒には遊ばなくなった。

 そんなこんなで、兄真嗣は弟雄心に無関心になっていった。あまり一緒に居ない、遊ばない。家族として過ごしてはいるけれど、弟ゲームを横取りされても、お菓子を取られても、悪戯をされても、抵抗せず手放した。喧嘩をするだけ無駄、どうせ弟に取られる。すると物に執着しなくなった。真嗣がこんな様子ではあったので、雄心は気兼ねなく兄のものを取って自分のものにしてしまっていた。

 唯一、雄心が手を出してこないものがあった。いつかテレビで『知識は誰にも盗られない。知識は自分の脳の中にあるから。勉強することで盗られることのない財産を持つことが出来る』と話す人を見た真嗣は、ひどく感銘を受けた。試しに少しずつ勉強の時間を増やし、本を読んで知識を増やすことにした。雄心は勉強には興味のほどがなく、真嗣の勉強道具を突っつくことはあっても、取っていくことはなかった。驚いたことにあんなに「お兄ちゃんなんだから」と言ってた親だったが、真嗣が勉強をしている間に雄心が「お兄ちゃんゲームしよう」などと誘うと、真嗣の邪魔をしないように雄心に言って聞かせた。こうして、真嗣は雄心から逃れ自分の時間を使う術を身につけたのだった。



 今日は、朝の天気予報で午後から雨になると言っていた。真嗣はリビングでくつろぎながら学校の図書館で借りてきた本を読んでいた。読み終わってしまってるのだが、今日は休日で返却することが出来ない。パラパラとページをめくりながら、面白かった部分を読み返していた。

「やだ、雨降ってきちゃったじゃない」

 母がリビングを横切り、慌てた様子で軒先の洗濯物を取り込みに行った。家族4人分の洗濯物をリビングに放り込んだ母がふと顔を上げて言う。

「雄心、傘持って行ったかしら?」

そうして母はせわしなくリビングを動き回っているのを、本を読んでいた横目に見て、真嗣はまた本に目を落とした。

「……しんじ、真嗣っ」

 はっとして顔を上げると、母の顔が頭上にあり、真嗣は思わず肩をびくつかせた。

「何?」

「お土産届けてくれない?」

「え? どこに?」

「もー聞いていなかったの? 雄心がおじいちゃん家にお土産を持って行くって言ってたでしょう」

 なんだか、そんなことを言っていた気がするが、あまり覚えていない。

 母曰く、先日家族で旅行に行ったときのお土産を、家から2キロばかり離れた祖父母の家に、雄心が持って行くと話をしたらしい。祖父母は雄心を猫かわいがりしており、雄心は雄心で祖父母宅に行くとこっそりお小遣いがもらえるので、お土産を持って行く役目を買って出たのだ。そして、肝心のお土産を忘れたのだ。

「アホだろ、あいつ……」

「もーいいから持って行ってちょうだい」

「えー……」

 雨が降ってきた中で、弟の尻拭いはしたくない。家でごろごろしていた方が断然楽だ。

「スマホに連絡でもしたらいいじゃん」

「そのスマホも置いて行っちゃったのよ」

「アホすぎる……」

 雄心は雨の降りだす少し前、今から10分ほど前に家を出たそうだ。そうだ、というのは、本当本を読んでいて、雄心と母のやり取りを一切見聞きしていなかったのだ。真嗣はそれほど弟に関心がないのかと、自分でも笑ってしまった。

「もー笑っていないでいいから持って行って。今から行ったら雄心に追いつくでしょう? 帰りに本屋で本を買ってきてもいいから」

 ね、と母が財布からお金を出していった。本を読み終えてしまっていること、欲しい本があることを、母は見抜いて言っていた。

 ——母にこう言われては仕方がない。真嗣は素直に手を出し2千円を受け取った。

 リュックにお土産と財布をしっかり入れると、傘を手に玄関を出た。

 外は小雨で、傘を差さなくてもいいくらいだった。鬱陶しい雨を振り切るように、真嗣は小走りぎみで歩き始めた。雄心はたぶん性格からして主要道路ではなく裏道を通って行くだろう。雄心を探しながらより、そのまま祖父母の家に行った方が早いかもしれないが、そうなると祖父母に捕まって本屋に行く時間が無くなってしまうことを考える。さっさと雄心を探してお土産を渡し、本屋に行こうと決心した。

 人気の少ない道を歩いていると、見慣れた背中が見えた。雄心だった。雄心に声をかけようと口を開いたところで、雄心の背後に揺らめくものが見える。

 黒い、影のようなものがゆらゆらと見える。なんだ、と思い目を凝らして見ていると、自分の背後から声がした。

「たかし君は祖父母の家に向かって家を出発し、毎分35mの速さで進みました。たかし君のお兄さんは、たかし君より10分遅れて家を出発し、同じ道を追いかけました。お兄さんの進む速さを毎分70mとすると、お兄さんは家を出発してから何分後にたかし君に追いつくでしょうか」

「え?」

 ゾワリと全身の毛が泡立った。思わず後ろを振り返ると、自分と同じくらいの背丈の男の子が、帽子を目深に被って真嗣の真後ろにぴったりと立っていた。

 誰? どこから人が? 誰もいなかったのに? 真嗣がたじろぎ、真後ろの男の子から一歩下がった。男の子はまた言う。

「たかし君は祖父母の家に向かって家を出発し、毎分35mの速さで進みました。たかし君のお兄さんは、たかし君より10分遅れて家を出発し、同じ道を追いかけました。お兄さんの進む速さを毎分70mとすると、お兄さんは家を出発してから何分後にたかし君に追いつくでしょうか」

 数学の問題のような文言を、男の子が繰り返し言う。帽子で顔の表情はまったく見えない。

 友人でもない。記憶を辿ってみても、学校でこんな男の子に会った覚えがない。誰かわからないけれど、同じ背格好の子が突然現れ、そうして数学の問題を出してくる。

「なに……」

 真嗣が震える声で疑問を問いただそうとすると、前を歩いていた雄心の声が大きく響いた。真嗣が振り返ると、雄心が同じくらいの背丈の男の子に追いかけられて走っている。

「雄心!」

 咄嗟に真嗣が駆けだすと、真嗣の後ろにいる帽子の男の子も走り出した。ぴったりと同じ歩幅、同じ歩数でくっついているようだ。

「なんなんだよ!」

 真嗣が肩越しに怒鳴るように後ろの男の子に言うが、目の前に居る雄心の泣き叫ぶ声が聞こえ前を向く。雄心も真嗣と同じく、後ろの男の子にぴったりとくっつかれて走っている。必死に雄心を追いかけるが、真嗣は雄心にも雄心の後ろを走る男の子にも追いつけない。そして真嗣の後ろにはまた帽子の男の子がぴったりくっつきと追いかけてきている。

 このまま走れば人通りのある交差点に出る。しかし、走っても走っても人通りの少ない道が終わらない。曲がり角の道も何故かなくなっている。

 ——何なんだよ! 何なんだよ! 一体!

 真嗣も叫んでしまいそうになる。必死に雄心を追いかけた。

「たかし君は祖父母の家に向かって家を出発し、毎分35mの速さで進みました。たかし君のお兄さんは、たかし君より10分遅れて家を出発し、同じ道を追いかけました。お兄さんの進む速さを毎分70mとすると、お兄さんは家を出発してから何分後にたかし君に追いつくでしょうか」

 真嗣の後ろをぴったりと走る帽子の男の子が、抑揚のない声で再び言う。

「だから! それは何だってんだよ!」

 息がきれそうになりながら、真嗣は叫んだ。前を走る雄心の泣き声が聞こえる。

「ごめんなさい! たかし君ごめんなさい!」

 ——たかし君? 雄心の言葉に、真嗣が噂を思い出した。

 “算数のたかし君”の噂。友人らから聞いたことがある。算数の問題を出してきて追いかけてくる。答えられれば解放され、答えられなければどこかに連れて行かれるという。友人らが、隣町の大学生が会っただの、どこかのお母さんかいなくなっただのと話をしていた。友人らが面白半分に話をしていたこともあり、たかが噂だと、あまり真剣に聞いていなかったけれど……。本当に、本当にその噂のたかし君に出会うなんて誰か思うだろう。

 真嗣が奥歯を噛み締めた。さっき帽子の男の子の言葉を思い出す。走りながらだと、落ち着いて計算ができない。必死に頭を回転させる。

「たかし君は祖父母の家に向かって家を出発し、毎分35mの速さで進みました。たかし君のお兄さんは、たかし君より10分遅れて家を出発し、同じ道を追いかけました。お兄さんの進む速さを毎分70mとすると、お兄さんは家を出発してから何分後にたかし君に追いつくでしょうか」

 後ろの帽子の男の子がまた同じ言葉を口にした。息も絶え絶えに、真嗣は言った。

「答えは……じ、10分!」

「正解です」

 ふっと、後ろの気配が消えた。走る速度を緩めて、真嗣は振り返ると、帽子の男の子は影も形もなく消えていた。ほっとした、しかし雄心の甲高い声が聞こえ、真嗣は雄心の方を見た。

 雄心の後ろにいた男の子は消えていない。未だ雄心の後ろにくっついて走っている。

「雄心! 問題に答えろ!」

 真嗣は雄心に向かって大声で言った。その声は掠れて、泣き叫ぶ雄心の耳に届いていないようだ。真嗣が雄心の方へ走り出す。

 雄心の走る速度は徐々に遅くなり、やがて足がもつれて盛大に地面に顔を打ち付けて転んだ。雄心の後ろの男の子は、雄心に覆いかぶさる。男の子の手が、雄心の顔に張り付くように伸びていく。

「弟に何するんだ!」

 真嗣が雄心の背中に追いつき、張り付いている男の子を雄心から引きはがす。ひやりとした感触が手に伝わる。男の子の顔がぐりんと曲がり、真嗣に顔を向けた。真嗣の顔の方へ首がずりずりと引き延ばされていく。男の子の顔が、真嗣の目の前まで来ても、男の子顔が見えない。男の子の口だけが動くのが分かり、ゆっくりと開いた。

「たかし君は祖父母の家に向かって家を出発し、毎分35mの速さで進みました。たかし君のお兄さんは、たかし君より10分遅れて家を出発し、同じ道を追いかけました。お兄さんが家を出発してから5分後にたかし君に追いつくには、お兄さんの進む速さを毎分何mであればよいのでしょうか」

 抑揚のない子どもの声で、男の子は同じように問題を出した。息のかかりそうな程男の子に顔が、真嗣の顔に近づいた。男の子の開いた口から綺麗な歯列が見える。真嗣が目の前の男の子の顔にひるまず、睨んだ。

「毎分105メートル」

 真嗣が低い声で答えると、男の子は「正解です」とノイズが入ったような声で言い、どろりと溶けるように真嗣の顔から離れ、雄心に張り付いていた体も跡形もなく消え去った。

 周りの景色も薄い膜がかかっていたようで膜がゆっくりと消えていき、目の前に人通りのある交差点が見えた。

 地面に突っ伏して動かない雄心に、大きく肩を揺らし「雄心!」と呼ぶと、雄心が顔を上げて真嗣を見た。鼻血を出し、額を擦りむいている雄心は、わあっと大きな声をあげて真嗣の胸に飛び込んできた。

「お兄ちゃん! お兄ちゃんありがとう! 怖かったよー」

 大粒の涙を流しながら「お兄ちゃんありがとう」と言う雄心に、こいつに「ありがとうお兄ちゃん」なんて言われるのは初めてだなと、真嗣は思った。



 鼻血と額の擦り傷の他、両膝も擦りむいて血が出ている雄心をそのままにできず、真嗣は結局祖父母宅まで一緒に行った。幸い母が雄心のポケットに突っ込んでくれていたハンカチがあったので、鼻からの出血を押さえた。

「そのままにしてろ、いいな」

真嗣がそう言うと、雄心は頷く。真嗣は雄心の手を引き、足早に祖父母宅へずんずんと歩いて行った。祖父母宅のインターフォンを鳴らすと、雄心の姿を見た祖父母が慌てて玄関から飛び出し、急いで雄心の手当てをした。

 事情を聞く祖父母に、雄心が興奮気味に先ほどあった話をする。

「お兄ちゃんがね! すごかったんだよ!」

 “算数のたかし君”に追いかけられた、と話す雄心に、そうかそうかと話を聞きながら、祖父が真嗣を見てくる。

「まあ、信じられないかもしれないけれど……算数のたかし君っていう、噂に会ったんだよ」

「そいつはどこの誰なんだ」

「噂だよ。そういう噂のがいるんだ」

 真嗣の説明に、祖父母は首を傾げ、いぶかしんだ。

 あれは“算数のたかし君”というもので、それ以上説明のしようがないのだ。真嗣の雑な説明に、祖父母は雄心から聞き出すしかなかった。

 真嗣がリュックに入れてきたお土産を取り出すと、雄心はそこで初めて、自分がお土産を持って行くのを忘れたことに気がついた。


 祖父母宅から帰る時、久しぶりに真嗣と雄心はゆっくりと並んで歩いた。雨は家を出た時より大粒になっており、傘を並べて歩いた。

「お兄ちゃん、やっぱ勉強って大事なんだね。今度教えて」

「嫌だよ。自分でやれよ」

「なんでーケチ! 減るもんじゃないだろ」

「時間が減るだろ。散々お菓子もゲームもお前にあげたんだからいいだろ」

「違うよ、あれは……」

「何が違うんだよ……」

 真嗣がため息をつきながら言うと、雄心はもごもごと言いよどむ。

「……あれは、お兄ちゃんと」

「何?」

 雄心は真嗣の手をぎゅっと握ると、小さな声でぼそぼそと言った。

「だって、お兄ちゃんと一緒に遊びたかったんだもん」

「は?」

 雄心の言葉を聞き返すと、再度雄心は「お兄ちゃんと遊びたかったんだ」とまた小さく言った。遊びたくて人の物を取っていたのか、わからなくて聞き返した。

「遊びたくってって何……」

「だって、お兄ちゃんの触ると、お兄ちゃんが来てくれるもん」

 雄心の言に、真嗣は顔を引きつらせた。

 お前は、お前は本当に——……

「アホすぎるだろ……お前さ、それはわからないよ」

「なんでー。お兄ちゃんは勉強してるんだったらわかるよ」

 わかってたまるか。国語の問題でもそんな複雑な問題は出ない。

 真嗣は、雄心の複雑でわかりにくい弟の心を初めて知り、そして避けていた弟を必死に助けようとした自分の行動を思い出した。嫌だいやだと、そう思っていた弟は実際には自分を慕っていたし、自分も弟を見捨てられなかった。見捨てるという考えが一切なかった。

 ため息をつき、真嗣は自分の中のこんがらがった思いを吐き出した。

 勉強をしても、ちゃんと人と話をしていかないと、わからないことがたくさんあるんだと、そう思った。

ちゃんと計算したので、答えは合っているはずです。

一応ホラーのつもりで書いているのですが、一番のホラーは問題が間違っていないか、答えがあっているかが自信がないことです。

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