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算数のたかし君 ~速さ計算~

 ——ねえねえ、“算数のたかし君”の噂、知ってる?

 ——何それ? 算数の教科書によく出てくる、あのたかし君のこと?

 ——そう、その“たかし君”だよ。そのたかし君がね、出るんだって。

 ——出るって、どういうこと?

 ——道を歩いていたら、どこからともなく『たかし君』が現れて、算数の問題を出してくるんだって。それで、追いかけてくるの。

 ——えーやだ。それでそれで?

 ——それで、出された問題に答えられたら消えるんだって。

 ——へえー、じゃあ問題に答えるのがその“算数のたかし君”の突破方法なんだね。



 アルバイトを終え、社員用の通用口からでると、丁度晃司が来たところだった。タイミングがいつも本当に良くて、聡美はいつも感心する。

 晃司と聡美が交際を始めたのは1か月ほど前のことだった。お互い通う大学は違っていたが、大学同士が交流しており、共に大学のワーゲル部に入っていたことで知り合った。何度か活動を一緒することになり、晃司の方から聡美に告白した。

 聡美のアルバイトが終わる時間が遅いと知ると、晃司は心配だからと、送り迎えを申し出てくれた。付き合って間もないこともあり、2人の時間が少しでも多くなるのは、嬉しいことだった。

 静かな住宅街を、小さな声で話しながら歩く。聡美の家まで15分程、長く一緒に居たいこともあり、ゆっくりとした歩調で、手を繋いでその道のりを歩いて行く。治安のいいこの街はなので、実は送り迎えを必要とすることはない、ただの口実なのだ。昼間は住民が行き来きしているこの道も、遅くの時間ともなると道には人影がなく、車も滅多に通ることはない。街灯だけが等間隔に、ぽつぽつと道筋を示している。

「じゃあ晃司君は、高校理系進学コースにいたんだね」

「そうそう。聡美ちゃんは文系クラス?」

「うん。数学とか化学とか、ほんっと苦手だった……晃司君は数学得意だった?」

「得意、なのかはわからないけど……普通かな。英語は苦手」

「あはは、私と正反対だ」

 互いに顔を見合わせながら笑っていると、ふと、人の気配を感じた。2人同時に、気配のあった方を見た。30メートル程先の街灯の下に、人影があった。——男の子だ。1人の子どもが、ぽつんと立っている。

 聡美の心臓が、どきりと跳ね上がった。思わず、晃司の手をぎゅっと握りしめる。晃司も、聡美の肩を自分の方へ引き寄せた。2人は歩くのをやめ体を硬直させて、男の子を見つめた。

 距離があって、男の子の表情は見えない。やや俯いているように見える。なんてことはない。ただの男の子だ。服の汚れがあるわけでもない、まして体が透けているように見えるわけもない。ごくごく普通の男の子だ。しかし、こんな夜遅くに、1人街灯の下に立っている。話をしていても、誰かが来たら足音でわかるものだ。それだけ周囲の住宅街は静かだ。男の子が歩いてきた音はなかった。突然、目の前の街灯の下に現れた。そう表現するしかなかった。

「聡美ちゃん、少し遠回りしてもいい?」

 晃司が聡美の耳元にこっそりと言う。聡美はコクコクと、何度も頷く。

「じゃ……」

晃司がそう言って、くるりと歩いて来た方へ方向を変える。

「ひっ」

 聡美は思わず喉を鳴らした。2人はまたもや体を硬直させる。

 振り向いた先、20メートル程離れた街灯の下に、同じ男の子が立っている。服の色、髪型、顔の俯き加減も、先程目の前にいた男の子と一緒である。男の子は、何をするでもなく、ただただ街灯の下に立っている。後ろを、確認することなど出来なかった。

 2人が動けずにいると背後から、さり……と足音がした。後ろの男の子の足音だろうか。わからない、けれど、確実に背後から何かが近づいている。

 晃司は、聡美の手を握りしめ、肩を更に寄せる。

「……大丈夫、無視して横を通り過ぎよう……。いい? 怖かったら、目を瞑っていてもいいから」

「う、うん」

 晃司の言葉に、聡美は反射的に頷く。ゆっくり、2人は一歩を踏み出した。


 なるべく男の子と距離を取るため、道の端っこを歩く。足音を立てないよう、ゆっくりと。暑いわけではないのに、背中から汗がじわじわと出てくる。激しい運動もしていないのに、息が段々と上がってくる。

 聡美は、晃司の手を握っていない反対の手で、晃司の服をぎゅっと掴んだ。聡美の肩が震えているのが伝わり、晃司はじっとりと汗をにじませた手に力を込め、聡美を更に更に自分の方へ引き寄せた。

 男の子の真横に差し掛かる。

「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」

 男の子の、無機質な声が聞こえた。

「は?」

 思わず、晃司は足を止めて、男の子の方を振り向いた。晃司の肩が、びくりと揺れる。

 男の子は2人の方を向いていた。顔は俯き加減で見えない。

「な、何……?」

 聡美が震える声を絞り出した。

「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」

 男の子が、同じ言葉、同じ無機質な声で2人に言う。

「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」

 男の子の首がぐりんと回り、がくがくと大きく震え始める。

「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」

「逃げるぞ!」

 晃司が言うやいなや、聡美の腕を引き走り出す。聡美も引きずられるようにして、走り出した。

「何! 何なの! さ、算数の問題⁉」

「わかんねえ! わかんねえよ!」

 後ろをちらりと振り向けば、男の子が追いかけて来ているのが見える。

「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」

「後ろ! 後ろにいる!」

「嘘だろ!」

 曲がり角に差し掛かる。その角を曲がれば、静かな住宅街を抜け、人通りのある繁華街に出る。晃司は聡美の手を引いて、角を曲がった。

「は? な……なんで……」

 曲がった先に繫華街はなく、今まで走ってきた住宅街が目の前にあった。振り向いても街灯の続く住宅街、そこに男の子が走ってくる。

 男の子の走る速さが増してくる。それは、子どもの走る速さではない。

「ひぃ」

「なんなんだよ! くそ」

 再び、2人は走り出した。

「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」

「もう何! 何!」

 繰り返し、繰り返し、背後から男の子の声。そして段々と近づいてくる足音。

「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」

「もうやだ!」

 聡美が悲鳴のような声を上げる。足も限界で、何度ももつれ転びそうになる。

「1キロメートル先……着くまで15分……。はあはあ……時速、は……」

「晃司君、何言っているの!」

 ぶつぶつと言い始めた晃司は、そのまま聡美の手を引っ張り走る。

「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」

「時速……時速、は……時速4キロメートル!」

 晃司が叫んだ。

 男の子が背後で立ち止まった。少し走った先で晃司と聡美は止まると、そっと振り返った。街灯の下に、男の子は、立っている。顔は見えないが、2人を見ているようだ。

「正解です」

無機質な声と共に、男の子は、すっと溶けるように消えた。

「助かっ……た?」

「そうだな、多分」

 残された2人はその場でへたり込み、お互いの顔を見合わせた。いつの間にか、周囲は住宅街ではなくなっており、少し先に、聡美のアルバイト先の店が見えた。



 ——ねえ、知ってる? 隣町のカップルが“算数のたかし君”に会ったんだって。

 ——えー本当? どうだったんだろうね。

 ——なんでも、ちゃんと出された問題を答えたらしいよ。

 ——ふぅん、そうなんだ。じゃあさ、もし答えられなかったら、どうなっていたんだろうね?


算数は好きですか? 私は苦手です。 算数、数学の授業時間は苦痛で、恐怖でした。

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