算数のたかし君 ~速さ計算~
——ねえねえ、“算数のたかし君”の噂、知ってる?
——何それ? 算数の教科書によく出てくる、あのたかし君のこと?
——そう、その“たかし君”だよ。そのたかし君がね、出るんだって。
——出るって、どういうこと?
——道を歩いていたら、どこからともなく『たかし君』が現れて、算数の問題を出してくるんだって。それで、追いかけてくるの。
——えーやだ。それでそれで?
——それで、出された問題に答えられたら消えるんだって。
——へえー、じゃあ問題に答えるのがその“算数のたかし君”の突破方法なんだね。
※
アルバイトを終え、社員用の通用口からでると、丁度晃司が来たところだった。タイミングがいつも本当に良くて、聡美はいつも感心する。
晃司と聡美が交際を始めたのは1か月ほど前のことだった。お互い通う大学は違っていたが、大学同士が交流しており、共に大学のワーゲル部に入っていたことで知り合った。何度か活動を一緒することになり、晃司の方から聡美に告白した。
聡美のアルバイトが終わる時間が遅いと知ると、晃司は心配だからと、送り迎えを申し出てくれた。付き合って間もないこともあり、2人の時間が少しでも多くなるのは、嬉しいことだった。
静かな住宅街を、小さな声で話しながら歩く。聡美の家まで15分程、長く一緒に居たいこともあり、ゆっくりとした歩調で、手を繋いでその道のりを歩いて行く。治安のいいこの街はなので、実は送り迎えを必要とすることはない、ただの口実なのだ。昼間は住民が行き来きしているこの道も、遅くの時間ともなると道には人影がなく、車も滅多に通ることはない。街灯だけが等間隔に、ぽつぽつと道筋を示している。
「じゃあ晃司君は、高校理系進学コースにいたんだね」
「そうそう。聡美ちゃんは文系クラス?」
「うん。数学とか化学とか、ほんっと苦手だった……晃司君は数学得意だった?」
「得意、なのかはわからないけど……普通かな。英語は苦手」
「あはは、私と正反対だ」
互いに顔を見合わせながら笑っていると、ふと、人の気配を感じた。2人同時に、気配のあった方を見た。30メートル程先の街灯の下に、人影があった。——男の子だ。1人の子どもが、ぽつんと立っている。
聡美の心臓が、どきりと跳ね上がった。思わず、晃司の手をぎゅっと握りしめる。晃司も、聡美の肩を自分の方へ引き寄せた。2人は歩くのをやめ体を硬直させて、男の子を見つめた。
距離があって、男の子の表情は見えない。やや俯いているように見える。なんてことはない。ただの男の子だ。服の汚れがあるわけでもない、まして体が透けているように見えるわけもない。ごくごく普通の男の子だ。しかし、こんな夜遅くに、1人街灯の下に立っている。話をしていても、誰かが来たら足音でわかるものだ。それだけ周囲の住宅街は静かだ。男の子が歩いてきた音はなかった。突然、目の前の街灯の下に現れた。そう表現するしかなかった。
「聡美ちゃん、少し遠回りしてもいい?」
晃司が聡美の耳元にこっそりと言う。聡美はコクコクと、何度も頷く。
「じゃ……」
晃司がそう言って、くるりと歩いて来た方へ方向を変える。
「ひっ」
聡美は思わず喉を鳴らした。2人はまたもや体を硬直させる。
振り向いた先、20メートル程離れた街灯の下に、同じ男の子が立っている。服の色、髪型、顔の俯き加減も、先程目の前にいた男の子と一緒である。男の子は、何をするでもなく、ただただ街灯の下に立っている。後ろを、確認することなど出来なかった。
2人が動けずにいると背後から、さり……と足音がした。後ろの男の子の足音だろうか。わからない、けれど、確実に背後から何かが近づいている。
晃司は、聡美の手を握りしめ、肩を更に寄せる。
「……大丈夫、無視して横を通り過ぎよう……。いい? 怖かったら、目を瞑っていてもいいから」
「う、うん」
晃司の言葉に、聡美は反射的に頷く。ゆっくり、2人は一歩を踏み出した。
なるべく男の子と距離を取るため、道の端っこを歩く。足音を立てないよう、ゆっくりと。暑いわけではないのに、背中から汗がじわじわと出てくる。激しい運動もしていないのに、息が段々と上がってくる。
聡美は、晃司の手を握っていない反対の手で、晃司の服をぎゅっと掴んだ。聡美の肩が震えているのが伝わり、晃司はじっとりと汗をにじませた手に力を込め、聡美を更に更に自分の方へ引き寄せた。
男の子の真横に差し掛かる。
「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」
男の子の、無機質な声が聞こえた。
「は?」
思わず、晃司は足を止めて、男の子の方を振り向いた。晃司の肩が、びくりと揺れる。
男の子は2人の方を向いていた。顔は俯き加減で見えない。
「な、何……?」
聡美が震える声を絞り出した。
「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」
男の子が、同じ言葉、同じ無機質な声で2人に言う。
「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」
男の子の首がぐりんと回り、がくがくと大きく震え始める。
「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」
「逃げるぞ!」
晃司が言うやいなや、聡美の腕を引き走り出す。聡美も引きずられるようにして、走り出した。
「何! 何なの! さ、算数の問題⁉」
「わかんねえ! わかんねえよ!」
後ろをちらりと振り向けば、男の子が追いかけて来ているのが見える。
「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」
「後ろ! 後ろにいる!」
「嘘だろ!」
曲がり角に差し掛かる。その角を曲がれば、静かな住宅街を抜け、人通りのある繁華街に出る。晃司は聡美の手を引いて、角を曲がった。
「は? な……なんで……」
曲がった先に繫華街はなく、今まで走ってきた住宅街が目の前にあった。振り向いても街灯の続く住宅街、そこに男の子が走ってくる。
男の子の走る速さが増してくる。それは、子どもの走る速さではない。
「ひぃ」
「なんなんだよ! くそ」
再び、2人は走り出した。
「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」
「もう何! 何!」
繰り返し、繰り返し、背後から男の子の声。そして段々と近づいてくる足音。
「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」
「もうやだ!」
聡美が悲鳴のような声を上げる。足も限界で、何度ももつれ転びそうになる。
「1キロメートル先……着くまで15分……。はあはあ……時速、は……」
「晃司君、何言っているの!」
ぶつぶつと言い始めた晃司は、そのまま聡美の手を引っ張り走る。
「たかし君は、1キロメートル先のお店に、お使いに行きました。お店に着くまで15分かかりました。たかし君は時速何キロメートルで歩きましたか。答えましょう」
「時速……時速、は……時速4キロメートル!」
晃司が叫んだ。
男の子が背後で立ち止まった。少し走った先で晃司と聡美は止まると、そっと振り返った。街灯の下に、男の子は、立っている。顔は見えないが、2人を見ているようだ。
「正解です」
無機質な声と共に、男の子は、すっと溶けるように消えた。
「助かっ……た?」
「そうだな、多分」
残された2人はその場でへたり込み、お互いの顔を見合わせた。いつの間にか、周囲は住宅街ではなくなっており、少し先に、聡美のアルバイト先の店が見えた。
※
——ねえ、知ってる? 隣町のカップルが“算数のたかし君”に会ったんだって。
——えー本当? どうだったんだろうね。
——なんでも、ちゃんと出された問題を答えたらしいよ。
——ふぅん、そうなんだ。じゃあさ、もし答えられなかったら、どうなっていたんだろうね?
算数は好きですか? 私は苦手です。 算数、数学の授業時間は苦痛で、恐怖でした。




