2-15.哮虎岳へ
来る日曜日、哮虎岳行きのバスには僕たち以外の乗客はいなかった。
霧雨くらいならまだしも、大粒の雨が降っている今日の空模様はハイキング日和とは程遠いだろう。
籠目坂駅から出発して数十分、僕が倒れた林の横を通り過ぎてすぐのところに、哮虎岳麓のバス停はあった。
雨の中へと降りる僕たちをバスの運転手は心配そうな顔で見送り、ロータリーを回って来た道を戻っていった。
僕たちは麓に建っていたレストハウスに入り、持ってきたレインウェアを服の上から身につけた。
エレナも先輩が持ってきた予備のレインウェアを着用しようとしていたのだが……。
「うーん、やっぱり小さいかな……」
エレナの胸の下辺りで止まったファスナーを睨みながら先輩は呟く。
「中にフリースを着こむことがあるから」と先輩は自身の体格より大きめのレインウェアを所持していたが、それでも埋まらない体格差が2人の間にはあった。
なにしろ、先輩は僕より頭ひとつ分背が低いのに対して、エレナは僕と数センチほどしか身長が変わらないのだ。
「せっかく持ってきていただいたのに申し訳ないですけど……やっぱり、私の持ってきたカッパの方に――」
「エレナ君、ちょっと息を止めておいてくれ」
「え?」
エレナが目をパチクリさせている間に、先輩はジャケットのファスナーを摘んで――力ずくで胸元まで引き上げた。
「窮屈かもしれないが、身体を冷やすわけにはいかないからな。しばらく我慢してほしい」
「は、はい……」
胸部がパツパツで袖も丈が足りていないジャケットを着たエレナは、少し涙目になっていた。
パンツの方は太ももあたりでつっかえて履くことができず、エレナが持参した安物を使うことになった。
当然、下半身は汗で蒸れることになるだろうが、この雨風に晒されるよりはマシと先輩は判断した。
本格的だがサイズの小さいジャケットに、ちゃちな見た目のパンツ……それに、僕の目にしか見えない白い角隠しと羽織。
なんともチグハグな見た目だ。
「エレナ君、どこか動かしにくい所はないか?」
「はい……。大丈夫、だと思います」
だが、そのチグハグさこそエレナが何重にも守られている証拠にも見えて、張り詰めていた気持ちが少し緩んだ。
軽いストレッチの後、登山ルートを再確認してから登山口へと向かう。
「あくまで自分の身を守ることが最優先だ。危険だと判断したら迷わず山を降りる。特に後輩君……くれぐれも無茶はしないように」
つい数日前倒れたことは記憶に新しいようで、先輩は僕に釘を刺す。
その言葉に頷いてから、僕は哮虎岳山頂の方をジッと見つめた。
カエルの鳴き声が、少しずつ大きくなっている気がした。
◇
「ひっ」
登山道を歩き始めて数分で、葦火エレナは小さく悲鳴を上げた。
ぬかるんだ道の脇に並んでいる木々。
そこに吊り下げられたてるてる坊主が、千切れた首から赤黒い液体を滴らせていた。
「ここにも首の無いてるてる坊主が……」
独り言を呟くようにして、エレナが何に怯えているかを先輩に共有する。
「予測通りカエルたちの本拠地のようだね。だが、エレナ君の方には近づけないみたいだ」
もしカエルが迫ってきているのなら僕がいち早く知らせると思ったのだろう。鶴喰七花はまるでカエルが見えているかのように語った。
実際、カエルたちは距離を取って僕らを見張っているのだと思う。
目の届く場所に居るわけではない。
ただ、草の合間から向けられたまとわりつくような視が、肌の上をなぞっているような気がした。
この時期の哮虎岳登山道はズミやカタバミなどの花を楽しむことができ、開けた場所からは籠目坂の町並みを眺めることができる風光明媚な地である……と事前に確認したホームページには紹介されていた。
だが、この悪天候ではその魅力もほとんど失われていた。
遠くに視線を向けても雨に煙る白い空が見えるだけであり、湿った地面で滑らないように歩いている最中では道端の草花に目を向ける余裕がない。
似たような景色がずっと続く雨の登山道。方向感覚が狂ってしまってもおかしくない状況だ。
それでも迷わず進めたのは、随所に道案内の看板が立っていたことに加え……首の無いてるてる坊主が、道に沿って一定間隔で木にぶら下がっていたからだ。
途中には別の山の山頂や下山ルートへと続く分かれ道もあったのだが、哮虎岳山頂へ向かう道には必ずてるてる坊主が吊られていた。
哮虎岳に棲む何かに破られはしたものの、その残骸が僕らを導いていた。
「このてるてる坊主は結局、カエルから人を守るために吊り下げられていたってことでいいんですかね」
険しい坂道は乗り越え、後は高低差の少ない尾根伝いの道を歩くだけとなった頃。
余裕が出てきた僕は先輩に話しかける。
「それにしては、こんな人気の無い山奥にもあったり、町への被害を防ぎ切れていなかったりしますけど」
「前者については、この山頂への道を守りたかったのかもしれないな。巫女が山頂で祈りを捧げたという話があっただろう」
先輩はエレナの方に視線を向けながらそう話した。
もしかしたら、この登山道がよく整備されているのも同じ理由なのかもしれない、とふと思った。
大昔にこの道の安全を守るように言いつけられていたのが、近年に至るまで続いていたのではないだろうか。
「後者については……単に守るべき範囲が広すぎて穴が生まれてしまったのかもしれないけれど……」
何か気になることがあるのか、先輩は珍しく歯切れが悪かった。
それからこまめに休憩を挟みつつ傾斜の少ない道を歩いていき。
「……あれ?」
『哮虎岳山頂まで30分』と書かれた看板を少し過ぎたところで、僕は思わず立ち止まった。
「どうしたの?」
後ろをついてきていたエレナが不安そうな表情で尋ね、そして僕が見ていた方向を視線で辿り……顔を青くする。
稜線に沿った道の両脇に広がる森。その右手側のとある木に、てるてる坊主が吊り下がっていた。
これまでのように点在しているのではなく、数え切れないほど大量のてるてる坊主が、一箇所に固まっている。
そのいずれも、やはり首が無かった。
「この先の方にもてるてる坊主があるみたいです」
先輩を呼び止めて僕はそう伝えた。
よく見ると、大量のてるてる坊主がある辺りを起点として地面が露出した獣道があり、それに沿うように首のないてるてる坊主が点々と続いている。
進行方向にもてるてる坊主は続いているので、山頂への道がハズレだったということもなさそうだ。
こちらは先ほど先輩が語った通り、祈祷する巫女が通る道を守ろうとしていたのだろう。
では……明らかに正規の道ではない森の中へと続いている、このてるてる坊主は何のために?
先輩はそちらへ進むかどうか迷っているように見えた。
登山道を外れるのだ。安全を考えるならあり得ない行動であり、躊躇するのは当然だろう。
一方で、怪奇譚を追う者としてこんなに怪しい場所を見逃す選択もしがたいようだった。
「……七花先輩」
彼女の背中を押したのは……エレナだった。
「こっちに何かある気がするんです。行ってみませんか」
エレナの唇はわずかに震えていた。
寒さだけではない。恐怖がまだ強いのは、先ほど首のないてるてる坊主を目にした時の反応から分かっていた。
それでも――この先にあるものを確かめる必要があると感じたようだ。
「……細心の注意を払って進むように」
エレナの決意を汲み取った先輩は、静かに決断を下した。




